SNSには神様がいる。
SNSには神様がいる。
小さな賛同からはじまり、レコメンド機能は仲間を呼び寄せコロニーが肥大化。
反対意見が見えなくなって、「私たちこそ多数派、つまりは正義だ」と盲信する者が現れる。
歯止めの効かなくなった集団は宗教と化し、次第に魔女狩りは激化していく。
それで死者が出たとしても、やったのは「私だけじゃない」から、「私のせいじゃない」
真実はひとつでもその見え方は人の数だけある。
ウルトラマンは地球を救うスーパーヒーローだけど、ウルトラマンに家を踏み潰され人生が狂ってしまった人がいるのも事実だろう。
ウルトラマンを敬愛する人がいるように、色んな理由で愛せない人がいてもいいはずだ。
共通の敵を見つけることでしか仲間意識を持てないような生き方は寂しくないんだろうか。
虚しくないんだろうか。
少し前の話になるが、すずめの戸締まりがSNSで荒れたとき、私はそれを強く感じた。
東日本大震災から13年が経ち、被災地も活気を取り戻してきたこのごろ。「震災の恐ろしさを風化させない」と毎年3月になると何かしらの特集が組まれているのを見かける。
もちろん普段から備えることは大切だし、そのために何度も振り返ることは正義なんだと思う。
一方でとってもデリケートな話、忘れてしまいたい人がいるのも事実だ。
SNSで津波の映像が流れてくるのがこわい。緊急地震速報の音が鳴るたびうまく息ができなくなる。あの日のことは記憶の底に閉じ込めたまま生きていきたい。
すずめの戸締まりは、「願い」と「祈り」が込められた美しい作品だった。だけど、避ける権利を与えなかったのは正義の暴走だと私は思う。
SNSで映画が荒れたとき、「素晴らしい作品。嫌だったら観るなよ」という意見が散見された。言われなくても、観てしまった人もわかっていればそうしたかったと思う。
反対に、「映画良かった」という意見に対して攻撃をする人もいた。
それぞれの境遇、震災との距離、失ったものの多さによって意見はさまざまだろう。
それを発信する権利はあるとして、誰かの意見を否定する権利はあるのだろうか。
話が逸れるがひとつ、面白い話をしよう。
モンシロチョウは人間目線では雌雄の区別がほとんどつかない生き物だが、モンシロチョウ同士は間違えることなく雌雄でペアになる。
それを疑問に思った研究者が紫外線写真でモンシロチョウを撮影し、雌雄全く異なった色に写ることを発見した。
研究者がもし、「私に見えている世界がすべて正だ」と盲信する人であれば、この発見はなかっただろう。
あなたの目にうつる世界と私に見えている世界は必ずしも同じ色とは限らない。
いついかなるときもその可能性は抜け落ちないようにしたい。
人にやさしくあるために
自分の世界を広げるために
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