雨を待つ人

 沖縄の雨は突然やってくる。突然やってきて、屋根より向こうに透明なバリケードを張り、人々の歩みを止める。買い物を終えて建物から出てきた人たちは、バリケードの向こう側を見つめている。あとから来る人も、立ち止まる人垣に「なんだ」という感じでやってきて、申し訳程度に天を仰ぎ「あーあ」「あちゃあ」などとそれぞれに呟く。傘など持っていない。突然の雨なのだから。そして、スコールが過ぎ去るのをじっと待つ。時折、決意を固めたように駆けていく者もいる。人垣は「お、行きよった」と、その勇ましい背中を見送る。ただ、誰一人、天の気まぐれを責めるものはいない。困ったようなフリはしつつも、むしろ、ほんとうのところは別の気持ちでいるような気がした。どうやら、これじゃあ仕方ないねというように開きなおったり、飽きずによく降るわぁ、とでも言いたげに自然の力に感心しているようなのだ。

 コロナウイルスが流行ったのは、確か、大学3年生の頃だったと思う。国際通りは日夜を問わずがらんどうになり、インバウンドを相手にしていた薬局は次々と閉店した。海外気分を味わえるほどに外国人で身動きの取れなかったドン・キホーテは、すっかり沖縄県那覇市に戻っていた。居酒屋からは明かりが消え、アルバイト帰りにそこを通っても、どこを歩いているのか分からなくなる。いつもと違う。あまり好きじゃない流行りの歌を大声で歌っているようなご機嫌な酔っ払いも、そこにはいなかった。

 そんな街を歩いていて、ふと思い出した風景があった。大雨や台風の影響で、昼なのに暗闇に包まれている学校。学校なのだから、特別やんちゃでもなければ学校が終わらない限り外に出ることはない。しかし、大雨や台風こそが「ここから出られない」「仕方ないからここにいるしかない」という一番の理由になってくれているようだった。なぜか、その日は自分らしくいられるような、憑き物が落ちたような。非日常に気持ちが昂っているクラスの雰囲気も、心地よかった。

 私たちは、いつも、どこかへ行きたい。逃げ出したい。だが、そんな気持ちの正体は、意外と自分の意思だけではなくて、ここではないどこかがあるのなら、その世界に行ってみるべきだろうという、強迫観念よりは弱い、霧のような、モヤのようなものなのではないかと思う。だから、何か大きな力が働いて、自分の力ではどうしようもない時に、その場所に閉じ込められていることを、留まっていることを許されている気がするのではないか。どこかへ行かなきゃ、逃げなきゃと思わなくて済む。向かいたい場所を選んだり、逃げる術を考えなくて済む、と。少なくとも、雨が叩きつけていて、身動きが取れなくなっている今、この瞬間だけは、自分でいなくていいのだ。雨が止むまでは、どうしようもない。それが、少し楽だった。

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