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黄か透か 2022/09/21

日記

・明日の朝は爆早起きしなければならないので、簡単単純手短に終わらせる。


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・なんか、ロッテリアの芋の、インカのめざめのやつ。Mサイズでも6欠片しか入っていなくて、しみじみと慎重に食べた。おいしい。なんかこう、ちゃんと良い芋の甘さというか、そういう味がする。

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・袋、藤本タツキだ。


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・昼、寿司を食べた。またもや。

・かっぱ巻きが……うまい……。かっぱ巻きだけ20カンくらい食べた気がする。



・人と、おしっこの色は透明な方が恥ずかしいのか?黄色い方が恥ずかしいのか?という話をした。これは私が前々から疑問に思っていたことだ。

・おしっこの色が黄色ということは、それだけビタミンを取れていて健康的な食生活を送れているということだ。それにも関わらず、おしっこが黄色いとなんか恥ずかしい気がする。逆に、透明であっても普段の食生活の杜撰さが透けて見えるようで少し恥ずかしい。

・これは、その液体がおしっこであるとわかっている場合とそうでない場合に分けると話が変わってくるかもしれない。おしっこを見る主体がいて、その人の視点のあり方で恥ずかしさにも変化が訪れる可能性。前者の場合は検尿など、後者の場合は……なんだろう……ファミレスでおしっこをグラスに入れて提供しなければいけない場合などか。

・まず、被尿見者が液体の正体を知らない場合を想像してみると、このときは透明な方が恥ずかしくない気がする。透明であれば、一見してそれがおしっこか否かを判別できないからだ。相手が口に含むなり匂いを嗅ぐなりするまで、それがおしっこだとはバレない。この話は赤の他人におしっこを見られることに恥じらいを覚える人間を想定しているので、まず液体がおしっこだとバレない方がプラスだ。反対に、おしっこが黄色い場合。これはすぐに正体を見抜かれてしまう。被尿見者が、見ただけで「これ尿だろ!」と騒ぎ出す可能性も少なくない。

・次に、液体がおしっこだと認識している場合だ。ここでは、おしっこの黄色さが排尿者の健勝さに直結するので(もちろん例外はある)、恥よりもむしろ優越感を覚えるのではないだろうか。基本的に、健康的な人間だと思われて損はない。圧倒的な透明度を誇っている場合は、むしろ不健康さを顕示しているようにも映ってしまう。特に検尿などの場合は、透明であればあるほど「戦う前から負けている」とも言える状態に陥るのではないか。

・しかし、このおしっこ既知パターンでも、黄色いことによって、恥を生む可能性は考えられる。

・それは、「おしっこが黄色すぎる場合」だ。もし、おしっこが黄色すぎて、いや、黄色を越えてもはや"茶"と呼べるまでの色になっていたら? 人間だれしも、「何の理由もなく、おしっこの黄色さが一定の閾値を超えていた」という経験はあるだろう。人におしっこを見せる段になってそれが起きたらどうだろう。「あまりにもッ……!」と思うのではないか。これは健康さなどとは結びつかない、"極端"であることの恥だ。(ただ、おしっこが黄色すぎる場合はまず恥よりも身の心配をしてほしいし、この話は持病などでそうなっている人に恥を押し付ける意図はない。あくまでも偶発的なおしっこの黄色さについて話している。)

・おしっこと恥、この関係性が人間に存在する羞恥心の秘密を解き明かす鍵になるかもしれない。これはもうおしっこという小さな海の話ではなく、心の解剖という大海の話だ。ゆくおしっこの流れは絶えずして、しかももとの水にあらず……。

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