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お二階さんのこと。

わたしには気になる人がいる。昨年引っ越して来た、お二階さんである。

いつも笑顔で挨拶してくれる、少しだけお話もしてくれる、とてもとても心地よい雰囲気の方だ。

その後も、ベランダ越しやたまにスーパーなどで出会うときは挨拶しあい、彼女が春から近所のチェーン店でバイトを始めたことを教えてもらったり、買い物ついでにそのバイト先のお店に寄ったり、おすそ分けの野菜を送り合ったり。

彼女は、何より私と、わが子の両方に
分け隔てなく気持ちを込めてくれる。

子を連れている人であれば感じることかもしれないが、子にしか話や目を向けない大人たちは意外に多い。
子ども好きそうな淑女、通りすがりのお爺様、店内で控え目にはしゃぐ学生さんたち、
我が子に目を向けてくれて、何の繋がりもないのに褒めてくれる、良い言葉をくださる。危険の無い人からの善意の言葉って本当にありがたくたくさんいただいている。
ただ、私は感謝の意を代弁?するだけの存在だ。この有難い方々の行為の対象は私ではない。

また逆に、子の存在を全く見たくない方たちも居る。
宅配業者、店頭のスタッフ、レジの店員、子に一瞥もくれることなく何なら話しかけられても無視する勢いの方たち。個人的な妄想では、おそらく、子ども相手をしている自分を他人から見られることに抵抗があるタイプの方、もしくは子どもに対してどう接するのか皆目分からずとお思いの方。

どちらも、人間くさくていいなと思う。
子どもに声かけちゃうのも、
大人だけのほうがいいのも。

ただ、お二階さんはいつも
私たち2人に向けて挨拶をしてくれる。
そして、まず子に話かけてくれる。
そのあと、私にも話かけてくれる。
実に丁寧で、そして柔らかい印象。
出会えた日はなんだかラッキーで、
わたしは心がポワポワした。


私がこの憧れのような気持ちを募らせていた最中、お二階さんからメールが届いて

「お時間あれば、うちでお茶しませんか」

と誘ってもらえた。舞い上がってしまった。

どんなお話が出来るかなぁ、ウキウキしながら翌日、時間どおりに待って居たら、5分前くらいに「いつでもどうぞ〜」とメールをくれた。
子が登園時間のおかげで、つかの間お茶会も出来るのだ。もう幼稚園を拝みたい気持ちだ。有難い。

通されたお部屋、隅々まで片付けておこうと思ったけれど、もういいやって開き直っちゃった、とか、うちと同じ間取りだけど、本当に全然違う雰囲気で、面白いな、なんて笑い合いながら、温かい紅茶を入れてもらって。
一緒に食べようと持参したアラレを2人でボリボリ噛んで、美味しいね、なんて言って。

夫さんと喧嘩ってしますか?
って、聞かれたときは、嗚呼、そうだ新婚さんなのだなぁとしみじみ思うところがあったりして…。
喧嘩をするかなんて、遠い昔の質問みたいだ。
なんだかもう、孫娘におばあちゃんはおじいちゃんのこと大好き?とか聞かれた気持ちにすらなった。

それから、彼女と私は夫のことを語った。
こんなところがあって、こんな笑い話があって。
幼稚園のママさん同士ではどうしても夫卑下合戦&苦労自慢になりがちな雰囲気が、全くなくて自由に自由の夫をしがらみなく語った。いろいろあって、でも大好きなのよと。

彼女は、たぶんきっかけを探していたんだと思う。

「私の尊敬する方も、幸せは世界からではなく足元からだと言っていて。」

彼女がはじめた話は、宗教のことだった。

「実はこういう団体で…名のある教祖さんが今度何十年ぶりにこの地域にも来ることがあって…」

私は、誰がどの宗教を信じようが自由だと思う。人の数だけ神が居てもいいじゃないか。

「こんな講話イベントがあって。あ、チラシがあるんですけど」

ただ、勧めるのは違うと思う。

「この方に、私の祖母の代から家族で…。物心ついた頃からなので、普通なことと思ってて」

それぞれ自分で信じるものを自由に見つけたらいいじゃないか。

「思春期の頃は、反発して家族から離れたこともあります」

でも、神様。どこかの神様。

「私去年、かこらさんとお嬢さんに教会でボランティアをしてるって言ったとき…」

この方は、神様を信じることで

「正直に○○教だって言えなくて、黙ってしまって本当に申し訳ないと思って。」

誰にも言えない何かを常に心に抱えて生きる。

「恥ずかしいことじゃないんですけど」

そのことに、少し苦しんでいる。

「同じ夫の会社の奥さん同士では、言わなくていいかな、と思っているんですけどね…」

出会う人すべて、大丈夫か大丈夫じゃないか少しだけ警戒して、言うまでに気を揉んで。

「こんど、子ども向けのクリスマスイベントがあって…!」

興味を持ってくれるか期待して、期待やぶれて、酷い目にあったりしたこともあるだろう。

「クリスマスをやるのも、なんか矛盾してますけどね…笑」

貴方を信じることで苦しんでいる。
毎日、少しだけ、色んな場面で、少しずつ、でも日常のありとあらゆる、その小さなことが、人間の生きること。
貴方はどう思われるのか。
社会や人の不寛容さや愚かさに理由を求めるのかな。
ただ、貴方を信じるこの人を、貴方の力で少しでも幸せにして差し上げて。

彼女の熱心な独白を聞きながら、私はぼんやり祈っていた。そのことだけが、切なくて。

彼女の差し出したチラシの氏名、住所、連絡先記入欄を手で伏せて、
うちは代々別の宗教大事にしてるから、親戚の家が寺やから、ごめんねとのほほんと伝えてその後何事も無かったかのように1時間お茶して帰るほどには、私は成長していた。

カップルの喧嘩事情が遠い遠い甘い質問に聞こえたように、
20代なら太刀打ち出来ないこの状況にも、もう呑まれることも出来ない。
思えば遠くへ来たものだ。

私が帰るまでに、彼女は2度、会社の奥さん同士では言わずにいたいと言った。
私は彼女の会社の奥さんと、ほんのりお友達繋がりがあるから、決して他言せずにいようと思う。人として、最低限のことかな、と思うから。

私がチラシを拒んだ後も、彼女は折に触れ教祖さんの素晴らしさを話したが、それでも私に名前を書いてとは言わなかった。
そして、帰りには手作りのチョコレートケーキと林檎を持たせてくれた。

そして私は子を迎えに行き、オヤツにそのチョコレートケーキを2人で食べた。
大喜びして、お二階さんとまた会いたいなぁ、一緒に遊びたい!とはしゃぐ娘の隣で、ソファに深々と沈みながら私はそのチョコレートケーキを噛んだ。
それはほんのり素朴で絶妙なバランスの良い甘さだった。まるで彼女みたいだ。

娘のはしゃぎっぷりを見ながら、私はまたソファに沈んだ。

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