歩くだけの時間を

何かしながら何かするのが好き。歩きながらハンバーガー食べたり、チャリ漕ぎながらアメリカンドッグ食べたり、牛乳あっためながら卵をといたり、ライブ見ながらタコライス食べたり。何かって、だいたい食べてるな。それぞれ違う気持ちで好きなんだけど、それは広く見たら同じなのかな?

でも、何か一つだけをする時間は、わたしにとってビスケットのような感じ。さらにわかりやすくいえば眠い時のお風呂。食べるまでは惹かれないけど食べたらとっても美味しいし、入るまではめんどくさいけど入ったら気持ちが良い。歩きながらついつい音楽聴きたくなるし、聴き慣れたラジオ聞きたくなるけど、ただ歩いてみれば目に見えるものと共鳴できる。ひとつのことだけしている時間に、自分の中で何か生まれていくのを感じる。

・冬、街灯のない道で星を見上げるとひときわ光る金星。母が亡くなって、何かの帰り道に父と兄と、2人に交互に抱っこされる姪と共に歩いたことを思い出す。それは葬儀や通夜の後だったかもしれないし、なにも関係ない日だったかもしれなくて、さらに、義理の姉もいたかもしれない。記憶があやふやだけれど、その日、三日月のすぐそばで金星が光るのを見て、「あれは、ばあば?」と指を刺した姪をみんなが瞳で抱きしめた。「そうだね、ばあばは目立ちたがりやだったから」と、三日月のイヤリングみたいに光る星をみんなで見上げたこと。別に母は目立ちたがりやだと言われるような人でもなく、でも、わたしたちのとても大切な人だから、これからは各々がひとりで涙を流して、みんなで集った時には笑って話すことが決まったような、そんな時間だった。

・友達が家に遊びにきてくれた。住所を言わなくても覚えてくれてて、待っていたらピンポンが鳴った。距離がどれくらいになろうと、わたしがここにいることを知ってくれてるなら、わたしたちの暮らしは手を伸ばして届くところにあるんだと安心する。

・コミニュケーションてなんなんだろう。18才の男性に『で、彼女いるの?』と根掘り葉掘り聞いて盛り上がるのを見て、ちょっと違和感を感じて、でもこの小さなコミュニティはそういう茶化しあいで自転しており、わたしは独自に生成されたその惑星にたどり着いたアストロノート。彼らの作る社会を完全否定したいわけでも無い。ただ、ここに永住するには水が合わないなと思う。その一方で、同じ空間にいる時点でその社会の一員だという気持ちもある。作用し合っている。強い力で劇的な変化が起こらなくても、わたしの存在は確かにここにある。お互い無理に何かを曲げる必要はないけれど、作用し合ってもっと良くなりたい。そしてわたしは、まだまだ色んなことを思いたい。

劇的な変化、て言葉で戦争が起こると急速にテクノロジーが進む、って思い出した。平和な時代は停滞し現状を維持する。人間の愚かさを受け入れて『しょうがない』とのたまう人間に、怒る人が知り合いにいる。そもそも争う動物だとか、そんな言葉は反吐が出る、人間を、自分を諦めるな。そういうニュアンスの言葉を聞いて、少し奮い立つ自分もいる。どちらかというと、そういう本能を肯定しがちな人間だけれど、わたしには分からないことばかりだけれど、わたしが折れてしまうような世界には、本当に救いがなくなってしまう。優しくなりたい。人のことを思いやれる人になりたいと、心から願っている。

・部屋が片付いている、机の上に何もないほど心が落ち着く。それ以上に落ち着くことはないって言っても良いくらい。大掃除という文化の風が吹き抜けるような気持ちよさよ。ただ、好きとできるは違うこともあるのだけどね。


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