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「プツン」の話。

誰にだって「プツン」と切れてしまうときがある。
ある日突然学校や会社に行けなくなってしまったり、明確な悲しさがなくてもわあわあ涙が止まらなくなってしまったり。そういうことがある。

そしてそういう「プツン」は客観的にみてめちゃくちゃ頑張ってる!ハード!みたいな人だけに起きるわけじゃない。

大会に向けて部活に猛進!毎日バリバリ仕事!みたいな生活をしていなくとも、その「プツン」はくる。

頑張っていた人が切れてしまったとき「比較的」世間は優しかったりする。それまでの頑張りに労いの言葉をかけてもらえることもある。
けれど、はたから見てそんなにがむしゃらではなかった人の「プツン」は認めてもらいにくい現状があるのではないか、と思う。

頑張る意味を見出せなくて、日々がなんとなくすぎて、ぼやっとつらい気もするけど、考えると不満なんかはないような気もしてくる。
そんなときやって来かけた「プツン」を見ないふりして、無意識に抑圧して、なかったことにする。「我慢しているのですが!!!」というSOSに気づけない。

だからこそ「そんなこと」で「プツン」する人のことは素直に労われない。
だって私、頑張ってるもん、それ、見ないふりしてさ。

これが見えづらい「プツン」の居心地の悪さを生み出してるのでは、の一仮説。

「プツン」ってしてこみ上げる気持ちと涙をストンと受け止めて、「つらいねぇ」「頑張ってるねえ」ってして、そのほとばしる「プツン」を過ぎ去れば、少ししたらその波が引いていくこともある。
だから意固地になって、「プツン」を避けなくてもいいし、「プツン」する権利はみんなにある。

日菜子

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