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寛容のパラドックス

こんばんは。
日菜子です。

心の調子が悪いと文章を読みたくなるし、書きたくなります。

初めて知った概念に「寛容のパラドックス」というものがあります。何十年も前に哲学者が提唱したものらしい。以下の拾い画が分かりやすい。

私は「寛容」をとても大事だと思う価値観の持ち主なので、「寛容じゃないな」という場面で、ちょっとモヤっとしたり、イラッとしたりするのですが、そんな自分って、不寛容に寛容じゃないな、と思っていて、真の寛容に行き着くためには不寛容にすら寛容でなくてはだよな、と思っていたのだけど。

ほう、怒っても良いのか、抗議しても良いのか、と思った。原理的には。

でも!ただ!
不寛容を許容する必要はないとしても、受容する必要はあると感じている。つまり、不寛容な人を排除することによって、寛容な社会を守りたいとは思わない、ということである。
私も人なので、「寛容」を大事にしていても、他人の言動にイラっとしてしまうことは結構ある。なるべくそれを他者に伝えないようにして、見せかけの寛容を保っているけれど、純粋無垢な寛容な心を持ち合わせているわけではない。
だから、不寛容になってしまう気持ちが分かる。
不寛容を許可してはいけないと思うけれど、その人を不寛容たらしめる状況の聞きとりやそれに対する共感、支援、発達を保障していかなくてはいけないんだよな、本当は、と思う。

私はこれから、不寛容な人に目をつぶらずに、しかし、責めたり排除するのではなく、寛容側への変容のお手伝いをできる人でありたい。
けど、目標が高尚すぎて、全然無理そうなので、ちょっと絶望していたりするのです。

おやすみなさい。

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