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【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】金九 京橋荘・孝昌公園

初稿:2023.10.17

(この記事は8,828文字です)


金九 朝鮮の独立運動家・政治家

 金九(キム・グ 김구)。ひとことで言うなら「朝鮮の独立運動家・政治家」である。
 金九は、1876年に生まれ、1949年に72歳でこの世を去った。
 金九の生まれた1876年は、日本と朝鮮との間で日朝修好条規が締結された年である。日本は朝鮮への影響力を強めていく。
 また、金九の亡くなった1949年は、その4年前の1945年に第二次世界大戦が終結している。日本は降伏し、朝鮮半島が日本の支配から解放された。1948年8月には大韓民国政府が樹立し、同9月には 朝鮮民主主義人民共和国が樹立している。
 金九の生涯は、日本による祖国の支配が強まって行き、やがて日本に占領されていた時期とほとんど重なっている。
 その生涯はよく「波乱万丈」と表現される。
 ここでは年表で、おおまかにその人生をたどってみることにする。内容をかなり省いたものになっているが、金九がその時にしていた仕事や状況、朝鮮半島や中国で金九が移動した場所、家族のようすなどを簡単に知るだけでも、「波乱万丈」であることが感じ取れるのではないだろうか。

金九の生涯

 以下の年表は、『쉽게 읽는 백범일지』(『やさしく読む白凡逸志』)(金九:著 都珍淳:編集 돌베개出版)、[출처: 김구 - 한국민족문화대백과사전]([出処:金九-韓国民族文化大百科事典](Web)等の資料をもとに作成した。
 年齢は、数え年で表記してある。《 》内には歴史上の出来事、〔 〕内には金九の家族の状況を記載した。

・誕生~10代
 1876年、《日朝修好条規(江華島条約)締結》。金九は、 黄海道海州白雲坊トッコルで、父 金淳永(キム・スンヨン 김순영)、母 郭樂園(クァク・ナグォン 곽낙원)の一人息子として生まれる。幼名は昌巌(チャンアム 창암)、本名は金昌洙(キム・チャンス 김 창수)。後に改名して、金亀(キム・グ 김구)、金九(キム・グ 김구)となる。号は白凡(ペクポン 백범)。
 1892年(17歳)、科挙を受験したが落第。
 1893年(18歳)、世の中の腐敗に憤り、東學(民族宗教。農民戦争に大きな影響を与えた)に入る。金昌巌(キム・チャンアム)から、金昌洙(キム・チャンス)に改名。
 1894年(19歳)、《日清戦争》。東學軍の先鋒将として海州城の攻撃に参加するが、失敗。

・20代
 1895年(20歳)、安泰勳の家に隠居。その時に、彼の息子安重根(アン・ジュングン 안중근)とも一緒に過ごす。安重根は3歳年下。(安重根は、のち1909年10月26日、ハルピン駅で伊藤博文を暗殺した人物である)。《8月、景福宮で乙未事変(閔妃暗殺事件)が起こる》。この事件への怒りから、金利彦の義兵部隊に加わるが敗北。
 1896年(21歳)、2月、黄海道安岳郡鴟河浦で会った日本人の土田讓亮を、閔妃暗殺事件の関係者と考えて殺害。5月、自宅で潜伏中に逮捕され、海州監獄に収監、7月に仁川監理營に移送される。
 1897年(22歳)、死刑確定。しかし、殺害は閔妃暗殺事件に対しての義挙とされ、死刑直前に執行停止令が下され命を救われる。
 1898年(23歳)、3月、脱獄。逃亡生活が始まる。放浪の末、公州の麻谷寺に入山して僧侶になる。法名は圓宗。
 1899年(24歳)、平壌近郊の霊泉庵の住職になったが、数ヶ月で還俗する。
 1900年(25歳)、名前を金亀に変える。
 1901年(26歳)、〔父死亡〕。
 1903年(28歳)、キリスト教に入教。
 1904年(29歳)、光進学校を設立。

・30代
 1905年(30歳)、《11月、第二次日韓協約(乙巳条約)締結》。条約が締結されると、金九は上京し、上東教会知事らの条約反対全国大会に参加し、李東寧(イ·ドンニョン 이동녕)、李儁(イ·ジュン 이준)、全德基(チョン·ドッキ 전덕기)などと乙巳条約の撤回を上訴、大漢門(徳寿宮の正門)の前や鍾路で街頭演説をした。大漢門のある徳寿宮(当時の名称は慶運宮)には、その当時、国王である高宗が住んでいた。

徳寿宮大漢門

 1906年(31歳)、黄海道長淵で公立小学校の教員になる。〔12月、崔遵禮(チェ・ジュルレ 최준례)と結婚〕。
 1908年(32歳)、楊山学校の教師になる。海西教育総会を組織し、総監になる。
 1909年(34歳)、黄海道を巡回して啓蒙運動。《10月、ハルピン駅で安重根が伊藤博文を暗殺》。金九は、安重根の事件に関わったと見なされ逮捕されるが、不起訴処分。在寧補強学校校長になる。
 1910年(35歳)、〔次女、化慶(ファギョン 화경)誕生。長女については不明〕。《8月、日韓併合》。
 1911年(36歳)、《1月、安岳事件(安明根事件とも呼ばれる。安明根らが黄海道新川で義兵養成のための武官学校の設立資金を集めていたところ、密告により逮捕された事件。日本はこの資金を、寺内正毅朝鮮総督暗殺のための軍資金であると見なし、関連人物160人余りを一斉に検挙した。)》。金九も関連人物として逮捕される。懲役15年の刑を受け、西大門監獄に移監。

西大門監獄(現在は、西大門刑務所歴史館)

 1912年(37歳)、刑期が7年に減刑される。
 1914年(39歳)、刑期が5年に減刑される。出獄に備え、名前を金九、号を白凡に変える。刑期を2年残し、仁川監獄に移監。仁川港建設工事に動員。

・40代
 1915年(40歳)、〔次女、化慶(ファギョン 화경)死亡〕。8月、仮釈放。
 1916年(41歳)、〔3女、恩慶(ウンギョン 은경)誕生〕。
 1917年(42歳)、東山坪農場の農監(小作人を管理する役)になる。〔3女、恩慶(ウンギョン 은경)死亡〕。
 1918年(43歳)、〔長男、仁(ジン 인)誕生〕。
 1919年(44歳)、《3・1運動》。3月末、上海に亡命。4月、上海で、大韓民国臨時政府樹立。金九は、臨時政府の初代警務局長となる。
 1922年(47歳)、〔次男、信(シン 신)誕生〕。臨時政府の内務総長になる。
 1924年(49歳)、〔1月、妻の崔遵禮(チェ・ジュルレ 최준례)死亡〕。

・50代
 1926年(51歳)、臨時政府の国務領に就任する。
 1929年(54歳)、上海居留民団団長になる。
 1930年(55歳)、李東寧・李始榮らと韓国独立党を結党。
 1931年(56歳)、《9月、満州事変》。10月、日本の要人を暗殺するために韓人愛国団を組織。暗殺計画を立てる。
 1932年(57歳)、1月8日、李奉昌(イ・ボンチャン 이봉창)が東京警視庁前で天皇の馬車に手榴弾を投げる(桜田門事件)。李はその場で逮捕され、襲撃は失敗に終わる(10月10日、市谷刑務所にて絞首刑)。4月29日、尹奉吉(ユン・ボンギル 윤봉길)が上海の虹口公園で行われた祝賀式典で、日本の要人に向けて手榴弾を投げ、多数の死傷者を出す(尹はその場で逮捕され、日本の刑務所に送られた末、金沢にて銃殺刑。金沢の野田山墓地に暗葬)。金九は上海を脱出、この後、数年間に渡り、各地に移動。臨時政府もこの後、数年間に渡り各地に移動をする。

・60代
 1939年(64歳)、〔4月、母死亡〕。《9月、第2次世界大戦勃発》。
 1940年(65歳)、韓国独立党・朝鮮革命党・韓国国民党を統合し、韓国独立党を結成。光復軍を組織。臨時政府主席に就任。
 1941年(66歳)、《12月、太平洋戦争開戦》。12月、臨時政府が日本に対し宣戦布告。
 1942年(67歳)、臨時政府と中国政府間で協定が締結され、光復軍は中国各所で連合軍と抗日共同作戦に出る。
 1944年(69歳)、臨時政府主席に再選。

・70代
 1945年(70歳)、〔3月、長男の仁(イン 인)死亡〕。《8月、日本が降伏、終戦》。11月23日、臨時政府国務委員とともに第1陣で帰国。12月、モスクワ3相会議(モスクワ3国外相会議)での信託統治決議があると、信託統治反対運動を積極的に進める。
 1946年(71歳)、2月、非常国民会議の副総裁に就任。6月、尹奉吉(ユン·ボンギル 윤봉길)、李奉昌(イ·ボンチャン 이봉창)、白貞基(ペク·ジョンギ 백정기)の遺骨が日本から韓国に着き、7月、国民葬をおこない孝昌公園に奉安する。
 1947年(72歳) 反託独立闘争委員会を組織。反託運動を展開。《11月、国際連合監視下での南北総選挙による政府樹立決議案可決》。自伝『白凡逸志』出版。

 このあとについて、[출처: 김구 - 한국민족문화대백과사전]([出処:金九-韓国民族文化大百科事典](Web))では、このように説明をしている。

 1948年、北韓が国際連合の南北韓総選挙監視委員団である国際連合韓国臨時委員団の入北を拒絶したことで、選挙可能地域である南韓だけの単独選挙が決定される。しかし、このような状況でも金九は南韓だけの選挙による単独政府樹立方針に絶対反対する立場を取る。その年の2月10日、「3千万同胞に泣告する」という声明書を通じて、心の中の38度線を崩し、自主独立の統一政府を樹立しようと強く訴える。
 分断された状態の建国よりは統一を優先視し、5・10制憲国会議員選挙を拒否することに方針を固め、その年の4月19日、南北交渉のため平壌に向かう。金九・金奎植・金日成・金枓奉などが南北交渉4者会談に臨んだが、民族統一政府樹立に失敗し、その年の5月5日にソウルに戻る。その後、韓国独立党の整備と建国実践員養成所の仕事に力を注ぎ、救国統一の役軍養成に努める。
 南北韓の単独政府が同年8月15日と9月9日にソウルと平壌にそれぞれ建てられた後も、民族分断の悲哀を乗り越え民族統一運動を在野で展開していた中……

[출처: 김구 - 한국민족문화대백과사전]
([出処:金九-韓国民族文化大百科事典](Web))

 1949年(74歳)、6月26日、私邸である京橋荘で陸軍少尉の安斗熙(アン・ドゥフィ 안두희)に暗殺される。7月5日、国民葬として孝昌公園に埋葬された。

京橋荘

 1945年11月23日、金九が臨時政府要人とともに帰国し、入ったところが京橋荘(キョンギョジャン 경교장)である。
 ソウル歴史博物館や慶熙宮の近くに位置している。
 京橋荘はもとは1938年に、金鉱業者であった崔昌學(チェ・チャンハク 최창학)が建てた別荘で、竹添荘(チュクチョムジャン 죽첨장)という名前だった。崔昌學はこの建物を金九に寄付し、金九の私邸であるとともに、大韓民国臨時政府庁舎、韓国独立党本部として使用された。
 1949年6月26日、ここの2階で金九は暗殺される。

京橋荘

金九の死

 暗殺事件2日後の1949年6月28日発行「京郷新聞」は、次のように伝えている。「NAVER ニュースライブラリー」(NAVER 뉴스 라이브러리)https://newslibrary.naver.com/ の「京郷新聞」より引用。

金九氏狙撃犯 安斗熙少尉と判明
軍報道課発表
 国防部報道課では、27日、金九翁狙撃者の正体に関して第一次発表があったが、これを取り消し、次のように第二次発表をした。
 一生を祖国独立運動のために奮闘された金九先生が、不意の凶変に遭うことになったのは国家的にも民族的にも大きな損失であり、軍としては忠心から哀悼の意を表わすところだ。
 その真相に関しては目下厳重取調中であるが、これまでに判明したことは概ね次のとおりである。
 一 安斗熙は韓独党党員で、金九氏の最も信頼する側近であること。
 二 安少尉は何度も金九氏と再会し、直接指導を受けていた者であること。
 三 当日は挨拶者の金九氏に会いに行って言い争いになって激怒した結果、瞬間的に殺意を生じたこと
 その他の項目はまだ調査中であり、追って詳細を発表する。

顔見知りなので応対 面会後10分で兇変
被襲経緯
 「私の職業はただ独立運動である」と生涯を賭けてきた白凡金九先生は、26日午前12時45分頃、一韓国青年の凶弾により、先生の体のすべてが「独立運動」それだった74年の数奇な生涯を終えることになり、被襲当時の経緯を京橋荘治葬委員会の発表と目撃者の言葉によって辿ってみると、おおよそこうであった。
 この日は日曜日なので面会をしない日で、必ず教会堂に礼拝を見に行くのが恒例だが、あいにくこの日だけは礼拝を欠いて2階の書斎から窓の外に南山を眺めながら瞑想に浸っていた。
 折しも午前10時半頃、別項のような軍服を着たある青年(犯人=安斗熙)が正門の警備員の検閲を経て本館玄関に入り、金九先生との面会を要請した。
 玄関の接待室にいた鮮于鎭(ソヌ・ジン)秘書が出てみると、普段顔見知りの者だったので応接室で待たせた。
 待っている約2時間あまりの間、青年は鮮于秘書、そして李豊植(イ・プンシク)、李國泰(イ・ククテ)の3秘書とともに軍に関する話などを話題に、盛んにおしゃべりの場ができていた。
 やがて0時45分頃、鮮于秘書の案内で、青年は応接室を出て踏段を踏んで2階の白凡翁の居間(12畳部屋)に入った。
 その時、先生はちょうど廊下のテーブルの椅子に座って本を読んでいた。
 青年との距離はわずか数尺だった。
 先生に紹介した後、鮮于鎭氏は下の階に昼食を食べに降りてきて、李豊植氏は電話室、李國泰氏は正午「ラジオニュース」を聞いていたので、その時翁の部屋には翁と犯人2人だけだった。
 1分、2分、5分ほど過ぎた時、突然前のドアと裏口から警備巡査が飛び入り「銃声がした、銃声」と大声を上げた。その時になってようやく「どこ、どこ」と慌てて2階に駆け上がる途中、さっきの青年犯人はすでに踏段に降りてきた。
 警備員が銃を向け「手を挙げろ」と命じると、犯人は軍帽を脱ぎ捨てて服装の標章をはがしながら「私が撃った」と叫ぶ瞬間に巡査が駆けつけ逮捕した後、続いて入ってきた憲兵の要求で直ちに憲兵隊に圧送された。
 こうして軍服青年は意外な犯人として逮捕されたのだ。考えてみれば、この悲劇的な歴史は白昼、十分間に発生したことになり、0時45分に面会、50分に狙撃、55分に逮捕されたが、以上要旨のような京橋荘側の経緯発表文の中にこんな言葉がある。
 我々の偉大な愛国者、白凡先生はついに悪漢の凶弾にお亡くなりになった。 白凡先生は最も平民的で民主主義的な愛国者であるため、すべての同胞を一様に愛する心で接し、どんな人が訪ねてきても必ず面会した。今回の凶変も白凡先生のこのような博愛精神のために発生した不幸なことだ。
今回の事件の経過は以上の通りだ。この他に何らかの雑音やデマがあるとすれば、これは不純な謀略に過ぎない。

凶弾は全部で4発 机の上には主人を失くした中国詩選
 翁は四発の拳銃射撃を受けた。一発目は鼻の下を突き抜けて、右の頬を抜いて窓ガラスを突き抜け、二発目は首を正面から突き抜けて、やはり窓ガラスに当たり、三発目の弾丸は右の胸で肺を突き抜けて廊下に出た。 この時、翁は立ち上がった。この瞬間、四発目の弾丸は左側の下腹部を貫通した。終始、翁は正面から弾丸を受けた痕跡だ。
 翁は頭を机の上に乗せ、手は縁取り一丁を握ったまま倒れていた。机の上には見ていた現代中国詩選が開いたままで、まだ開けていない数通の封筒の手紙がそのまま置かれていた。机の上、廊下などに撒いた赤い血はとりわけ濃かった。すると、聖母病院院長の朴秉來(パク・ビョンレ)氏が駆けつけてきて、隣の部屋の寝室のベッドに運び、慌てて手術治療の手を出したが、すでに運命だった。

その後の京橋荘

 主人を亡くした京橋荘は、建物は崔昌學に返された後、1949年11月から1950年5月までは中華民国大使官邸となる。1950年6月に朝鮮戦争が始まると、アメリカ軍の特殊部隊および臨時医療陣が駐屯する。
 1956年10月から1967年10月までは、ベトナム大使館となった。
 1967年11月、京橋荘はサムスン財団が買い入れ、隣接した後側に高麗病院が建てられ開院する。京橋荘は病院の本館として使用される。
 1995年6月、高麗病院が江北サムスン病院に名称が変わる。
 2001年4月6日、ソウル特別市有形文化財に指定される。2005年には、国家指定文化財に昇格する。
 京橋荘全体を復元することになり、建物内にあった病院の施設はすべて撤去され、2011年3月から復元工事に入った。建設当時の設計図や居住していた時の写真資料が残っていたため、ほぼ完璧な復元が可能となった。2013年3月1日に、公開が始まる。

 建物内では、金九や臨時政府について、遺品や資料やパネルを使用して説明をしている。
 地下1階は展示室。
 1階は、応接室や食堂、臨時政府の活動空間。
 2階が金九の部屋があった所で、暗殺された当時のようすについても説明がされている。

1階応接室
金九の居室(執務室)

孝昌公園

 ソウル駅から南西に1kmほど離れたところに、孝昌公園(ヒョチャンコンウォン 효창공원)はある。
 金九の墓は、孝昌公園にある。
 孝昌公園は、朝鮮時代には「孝昌園」と呼ばれていて、王室の墓域になっていたところである。朝鮮王朝第22代王である正祖(チョンジョ)(1752~1800年)。韓国ドラマをご覧になる方には、イ・サンの名で知られている。その正祖の夭逝した長男・文孝世子(1782~1786年)の墓があったところが「孝昌園」である。また、正祖の側室であり文孝世子の生母である義彬成氏(イビン・ソンシ 1753~1786年)の墓、第23代王である純祖の側室である淑儀朴氏(スギ・パクシ ?~1854年)の墓、淑儀朴氏の娘・永温翁主(ヨンオンオンジュ 1817~1829年)の墓もあった。
 日本による植民地時代に、日本軍が宿営や作戦基地として使用するため、このような王室の墓は京畿道高陽の西三陵に移され、「孝昌園」は名前を「孝昌公園」と変えられた。
 孝昌公園内の説明によると、「日帝強占期にはゴルフ場が入るなど公園化された。 1940年に朝鮮総督府が公園として告示した以後、1944年には日帝の侵略戦争で戦死した軍人たちのために忠霊塔を建設するとして墓を高陽市にある西三陵に移した。」とある。

孝昌公園の写真

 私が2023年5月に孝昌公園を訪ねた時には、公園内に、歴史を伝える写真パネルが何枚も設置されていた。

孝昌園の大岩と密林
「日帝は1921年に孝昌園の森を掘り返しゴルフ場を作った」
尹奉吉、李奉昌、白貞基の遺骨が帰る
尹奉吉、李奉昌、白貞基の遺骨が埋葬され、安重根は仮墓がたてられた

孝昌公園にある墓

・三義士墓
 1932年1月に東京警視庁前で天皇の馬車に手榴弾を投げた(桜田門事件)李奉昌(イ・ボンチャン 이봉창)は、10月10日、市谷刑務所にて絞首刑となった。
 同年4に、月29日、上海の虹口公園で日本の要人に手榴弾を投げ、多数の死傷者を出した尹奉吉(ユン・ボンギル 윤봉길)は、金沢にて銃殺刑となり、金沢の野田山墓地に暗葬された。
 1933年3月、上海で駐中公使有吉明の暗殺を実行しようとした白貞基(ペク・チョンギ 백정기)は、仲間の密告により日本兵に逮捕され、日本で獄死した。
 1946年6月、3人の遺骨は韓国に帰り、7月に国民葬が行われ、孝昌公園に埋葬された。
 安重根は、1910年3月26日、旅順監獄で絞首刑となった。遺骸は旅順監獄の共同墓地に埋葬されたが、戦後、埋葬された場所が不明となっていて、遺骨が発見されていない。そのため、孝昌公園には仮の墓がたてられている。

左から、安重根(仮墓)、李奉昌、尹奉吉、白貞基の墓

・臨政要人墓(臨時政府要人墓)
 大韓民国臨時政府の役職についていた、李東寧(イ・ドンニョン、이동녕)、曺成煥(チョ・ソンファン 조성환)、車利錫(チャ・リソク 차리석)の墓がある。

左から、曺成煥、李東寧、車利錫の墓

・白凡金九墓
 1924年に中国でなくなった夫人の崔遵禮(チェ・ジュルレ 최준례)と、1999年4月12日に合葬された。

白凡金九記念館

 孝昌公園内には、白凡金九記念館がある。金九の生涯、臨時政府の活動等について、写真やパネル、遺品などで説明がされている。

白凡記念館の窓から見える金九の墓

尹奉吉のもうひとつの墓

 金沢で銃殺刑となった尹奉吉(ユン・ボンギル 윤봉길)の遺骸は、金沢で銃殺刑となり、金沢の野田山墓地に暗葬される。埋められた場所は通路の真ん中で、通る人々に踏みつけられるような状況になっていた。
 戦後、遺骨を韓国に帰すために、1946年3月から在日朝鮮人により発掘作業が始められた。ほとんどの骨片を収集することができたが、7片は見つからなかった。
 現在、野田山墓地には、尹奉吉の暗葬の地として保存されている場所がある。
 『尹奉吉 暗葬の地・金沢から』(山口隆:著 社会評論社)に、詳しい経過が説明されている。


 日本が支配していた時代について知るために、訪ねてみてはどうだろうか。 
 「京橋荘」「白凡金九記念館」には日本語の説明が若干ある。
 「孝昌公園」には日本語の説明はない。
 墓、展示物ともに、韓国語の詳しい説明がある。中級程度の韓国語の読解力があれば、内容の理解はできると思われる。
 また、その時代について予備知識をもって訪ねると、より深く理解ができるだろう。金九の自伝『白凡逸志』を読んでから、訪ねてみるとさらによいだろう。


地図(naver map、google map へのリンク)

・京橋荘

・孝昌公園

・白凡金九記念館(孝昌公園内)


・尹奉吉義士暗葬之跡(日本 石川県金沢市野田山墓地)google map


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