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【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】韓国最北の地 高城

初稿:2024.05.31
更新:2024.05.31

(この記事は 9,076文字です)


まず束草へ

 高城統一展望台(コソントンイルジョンマンデ 고성통일전망대)は、江原道特別自治道高城郡にある。
 2005年7月26日、高城統一展望台に行くために、ソウルから高速バスで束草(ソクチョ 속초)に向かった。所要時間を考えると、束草に泊まって、展望台に行くことがよいように思われた。
 (以下の記録は、2005年のものである。そのことをご理解の上、お読みいただきたい。)
 ソウル~束草間は、前半は高速道路、後半は一般道を走る。一般道も高速道路なみに運転手はスピードを落とさずに走るので、ちょっとスリリングだ。
 束草市の高速バス‐ターミナルにつくと、すぐ近くに観光案内所があったので、高城統一展望台への行き方をたずねた。男性職員が地図に印をつけながら、分かりやすく説明してくれた。
 ここ束草から「1」番または「1-1」番のバスに乗り、大仁(テジン 대진)というところにある終点で降りる。そこから10分ほど歩くと、統一安保公園がある。そこに、統一展望台に行くための申請事務所があるので、申請する。以上のような説明だった。
 「そこから展望台行きのシャトル‐バスに乗ればいいんですね?」
 すでに旅行ガイド‐ブックで読んで知っていたことを確認するために私は聞いた。
 「いいえ、シャトル‐バスはありません。昨年(2004年)なくなりました」
 観光案内所の職員の返事に私は驚いた。
 「日本のガイド‐ブックにはシャトル‐バスに乗ればいいと……」
 「シャトル‐バスはなくなったんです。統一安保公園から統一展望台に行くには、タクシーに乗ればいいんですが、それではお金がだいぶかかります。それよりも、あなたは韓国語ができるようですから、統一展望台に行く韓国人を探して、その車に乗せてもらって、いっしょに行くといいでしょう」
 そんなことがうまくできるのか不安もあったが、職員に礼を言って、市内を歩き始めた。今夜の宿を探さなくてはならない。統一展望台に行くのは、明日だ。

宿はある?

 「この海水浴の時期、束草は韓国人であふれていて、泊まるところなんか見つからないわよ」
 2日前の7月24日、ソウルで夕食をとりながら、韓国の友人に言われたことを思い出した。
 束草は、海水浴場や雪嶽山(ソラクサン 설악산)で有名なところだ。夏は涼を求める人々で、ホテルや旅館は満室なのだと言う。友人は続けた。
 「私が友だちと前に行った時にも泊まるところがいっぱいで、海辺で野宿したの。でも、とっても楽しかった」

 それほどまでに泊まるところがないのだろうか。
 場末の旅館なら空いているのではないか。
 思案しながら私は束草市内を歩き始めた。
 市の中心部はホテルの宿泊料が高そうに思えたので避け、ソウルに戻るときのことを考えて、中心部からやや離れたところにある市外バス‐ターミナルの近くで宿を探すことにした。
 旅館はいくつもあり、尋ねると部屋も空いている。値段を交渉して、安くて清潔な旅館を選んだ。

統一安保公園へ

 翌7月27日朝、観光案内所で教わったバスの番号を確認して、束草市内から大仁(テジン)行きのバスに乗った。
 バスは国道7号線を走っていく。
 大仁まで行く間には、いくつもの海水浴場を通り過ぎる。
 民宿をあらわす「민박(ミンバク 民泊)」の看板が何度も目に入ってくる。
 海水浴客の姿があちらこちらにある。海岸線から距離をおいた陸側を、鉄条網が延々と延びている。バスからは、鉄条網越しに砂浜と海が見える。海水浴をするためには、鉄条網のところどころに設けられた出入口の扉を通って砂浜に出なくてはならない。砂浜は、海と鉄条網によって隔離されている。夜間、北朝鮮からの侵入者を防ぐための鉄条網だ。 

海水浴場への出入り口の1つ

 海岸を離れて村の中を走っていると、時々目にするのが、道路の両側にそびえるコンクリートの巨大な塊(かたまり)だ。敵の戦闘車両が侵攻してきた時に、落として道路をふさぐためのものである。
 走っていると、軍用のトラックもしばしば見かけるようになる。
 大仁が近づくにつれ、バスの乗客は徐々に降りて減っていき、最後は私一人になった。
 やがて、バス会社の看板がついた建物の駐車場でバスは停まった。
 「終点ですか?」と聞くと、運転手は、そうだと教えてくれた。

当時のバスの終点

 バスを降りて、道路を北の方角に歩く。「金剛山コンド」という看板がついたコンドミニアムがすぐの場所にある。10分ほどで、「統一安保公園」についた。
 公園というので広場や遊具がある場所を想像していたが、日本の「道の駅」といった雰囲気で、駐車場と売店の大きな建物が目立っていた。

統一安保公園
統一展望台出入申告所(右の建物が講堂)

観光案内所

 売店のような建物の正面に、「統一展望台出入申告所」という表示がある。統一展望台へ行くための手続きをする場所だ。今から手続きをする人、すでに手続きが済んだ人で、辺りは賑わっていた。家族で来ている韓国人が多いようだ。
 窓口で申告書をもらおうとすると、私が日本人で一人であり、交通手段がないことが確認された。一旦、向かいにある観光案内所に行くように指示された。
 観光案内所には、若い女性職員がいた。私は、ちょっと困ったような雰囲気で話しかけた。
 「日本人ですが、統一展望台へ行くにはどうしたらいいですか? シャトル‐バスがあると聞いたんですが……」
 「シャトル‐バスは昨年(2004年)、なくなりました」
 やはりそうなのだ。束草市の高速バス‐ターミナル前の観光案内所で聞いたとおりだ。私の持っていたガイドブックの情報は、改訂が間に合わなかったのだろう。
 「歩いて行けますか?」
 「歩いては無理です」
 「韓国の人の車にいっしょに乗っていくなら良いですか?」
 「ええ」
 「では、自分で探してみます」
 行き当たりばったりにそんなことができるのか、試してみるしかない。ここまで来たら、そうするしかない。
 女性職員に礼を言って外に出ると、
 「ちょっと待って」
 女性職員も案内所から外に出て、そこにいた人達に向かって、
 「この日本人をいっしょに乗せて行ってくださる方はいませんか?」
 と大声で聞いてくれた。2回言葉を繰り返すと、一人の男性が名乗り出てくれた。
 私は女性職員に礼を言い、その男性によろしくお願いしますと頭を下げた。
 男性は、奥さんと男の子の3人家族で旅行をしているところだった。これから統一展望台に向かうのだ。ふたたび「統一展望台出入申告所」に行き、すでに申請を済ませていた男性の見学許可書に、私の名前を追記してもらい、申請料2千ウォンを払った。書類に記入する時に男性の名前と年齢を読むと、私よりも1歳年上だった。韓国では数えで年齢を表すので、私と同年齢ということになる。私に救いの手を差し出してくれた同年齢の男性を親しく感じた。

統一展望台へ向かう

 数分後、講堂で安保教育の映画が始まる時間になった。家族に連れられて講堂に入り、南北関係を説明する映画を見た。
 その後、駐車場に行き、家族の車に乗り、統一展望台をめざした。
 途中、検問があり、兵士が車内の人数を確認する。
 「統一展望台 車両 出入中」と書かれたプレートが渡された。男性はそれを車のダッシュボードに掲げた。
 車は、男性が運転し、助手席に奥さん、後部座席に男の子と私が乗っている。
 私は韓国の歴史に関心があり、勉強をしていることを伝えた。
 男の子は小学校6年生であることがわかった。
 私が将来の夢を尋ねると、
 「大統領」
 と答えた。聞いた瞬間、私は笑ってしまった。しかし少年の顔には笑いも、はにかみもなく、心に決めているとおり素直に答えているようだった。両親も笑うこともなく、謙遜することもなかった。私は笑った自分を恥じた。少年は本当に大統領になりたいと思っていて、両親もそうさせたいと考えているようだった。
 家族と話をしているうちに、車は統一展望台の駐車場に着いた。

高城統一展望台

 駐車場で車を降り、階段を上っていくと、統一展望台の白い建物が現れてくる。

統一展望台(当時)

 建物の裏手、北朝鮮側に、屋外展望所がある。日本の観光地にもあるような有料の大型双眼鏡が並んでいる。
 すぐ前方が軍事境界線なので、肉眼だけでも北朝鮮を見ることが可能だ。
 海岸線がカーブしていて、左側の陸から右側の海に入り込むように山が見え、島も見える。
 見えている山は、金剛山(クムガンサン 금강산)の一部、海金剛(ヘグムガン 해금간)だ。

左が北朝鮮に伸びている道路
奥のラクダのこぶのような山が九仙峰、手前の島が松島

 朝鮮半島を代表する名山である金剛山(クムガンサン 금강산)は、東西40km、南北60kmの広大な範囲に広がる1万2千余峰の峰々の総称である。
 それらは、内金剛(ネーグムガン 내금강)、外金剛(ウェーグムガン 외금강)、海金剛(ヘーグムガン 해금강)の大きく3つに分けられる。
 統一展望台から見えているのが海金剛と呼ばれるところで、ひときわ目立って見えるラクダの背のような2つの山が、海金剛のひとつ、九仙峰(クソンボン 구선봉)である。そのはるか手前に見えている海岸から飛び出した島が松島(ソンド 송도)。
 九仙峰よりも右方向(東方向)に延びて見える部分は万物相(マンムルサン 만물산)と呼ばれていて、海金剛の中でも最も有名な場所だそうである。岩、海、松、砂浜、白波が創り出す風景が、美しい上に荘厳ささえも感じさせるところということだが、残念ながら展望台からはその様子はわからない。
 天気はよく、海からの風は暖かく、さわやかな夏の日だった。
 この先には、どんな町や村があり、そこで人々はどんなふうに暮らしているのか。凶作の年に飢餓状態になっている人々のようすをニュースで見たことがある。自由に行って知ることができない国がそこにある。拉致されたままの日本人も、どこかにいるのだろう。空と海の洋々とした景色の中で、秘密に包まれた国を覗いている興奮があった。
 有料大型双眼鏡の設置された展望台から下を見ると、斜面になっている。統一展望台が丘の上のようなところにあるからだ。丘の下、やや前方に、鉄条網で仕切られた区域がある。鉄条網に沿って韓国側の兵士2人が歩いていた。巡回しているのだろう。
 左前方には、国道7号線が北朝鮮に伸びている。真新しい道路で、景色の中でひときわ立派なものに見えた。金剛山観光に行くために整備されたらしい。
 「“現代”が造ったのよ」
 奥さんが教えてくれた。

金剛山ツアー

 韓国から金剛山へのツアーは、1998年9月に海路で開始された。2003年2月にバスで38度線を越えて行く陸路によるツアーが始まった。
 金剛山への観光事業をおこなっているのが、現代峨山株式会社で、“現代”の系列会社である。
 現代峨山株式会社の金剛山観光ホームページの中から、会社紹介の部分を読んでみた。次のように書いてある。(当時)

 現代峨山株式会社は、現代の系列会社として、現代が北側との事業窓口の単一化のために設立した南北経済協力専門会社です。
 金剛山観光開発事業、工業団地開発事業、経済協力事業、文化・体育交流事業等、経済分野を始めとした南北間協力事業を推進していて、交流と協力を通した相互信頼を構築し、事業の安全性を確保して、経済的付加価値を極大化することに力を注いでいます。

 前方に延びる国道7号線を通って、金剛山ツアーのバスは北に進んでいく。ツアーの申し込みは、大仁で私がバスを降りた終点近くにある、金剛山コンドでおこなっているということだ。

付記(2024.5.31):2008年に韓国の女性観光客が北朝鮮により射殺される事件が起きたことで、金剛山観光は中断されている。

祈り

 展望台を離れ、建物に入ってみた。1階には各種資料や北朝鮮の生活用品が展示されている。2階には120席の座席があり、ガラス窓越しに北側を見ることができる。
 建物の周りを歩いてみた。
 撮影禁止であることを知らせる看板がところどころにあった。角度によって、軍の施設が写真に入ってしまうからだ。
 弥勒仏、マリア像、祈念塔、梵鐘、351高地戦闘戦跡碑などが立っている。弥勒仏やマリア像が北を向いて、祈っている。
 戦車も1台、雨ざらしになって置かれている。

北朝鮮の方を向いている弥勒仏

花津浦

 高城統一展望台を後にした。
 帰りに再び検問を通り、人数が確認された。
 統一安保公園の方に戻る途中で、夫婦が私に、他にどこか行きたいところがあるか、と聞いた。
 大仁に向かうバスの車窓から、「金日成別荘」という看板が見えたことが気になっていた。位置としては、統一安保公園から近いように思える。私は金日成別荘に行ってみたいと答えた。
 夫婦はカーナビゲーションを操作し、その場所を探した。金日成別荘という名称の登録はないようだ。夫婦の会話を聞いていると、夫婦も金日成別荘という看板や案内を見たことがあるようだ。
 海洋博物館の近くだろうという結論が出て、夫婦はその博物館を目的地にして出発した。

 車内で少年はタッパーに入ったスモモをつまみ、口に入れ、種をまたタッパーに戻していた。
 助手席に座っていた母親は前を向いたまま、私にもスモモを食べるようにすすめた。
 少年は、自分の口から吐き出した種が接していたスモモをつまみ、私にすすめてくれた。私はちょっとためらいたい気持ちだったが、すすめられるまま食べた。
 母親が振り向いて、自分もスモモに手をのばそうとして、種が混ざっていることに気づき、少年の頭をはたいて𠮟った。

 金日成の別荘が保存されているところは、統一展望台から南に15kmほど行った花津浦(ファジンポ  화진포)というところだ。花津浦湖と、そのすぐ外に広がる海を中心にして、リゾート地になっている。
 夫婦は花津浦の駐車場の入り口付近で車を停めた。私は礼を言い、こっそり支度をした紙幣を包んだ紙を少年に渡した。
 「アイスクリームでも召し上がってください」
 中身に気づいた両親は受け取りを拒んだが、最後には遠慮がちに納めてくれた。
 私は丁寧に礼を言いながら、車を見送った。

 駐車場の中を横切って歩いて行くと、その先にホテルや店があり海水浴を楽しむ人々も見えた。
 案内板を見ると、ここ花津浦には、金日成、李承晩、李起鵬の別荘がある。花津浦は、保養地としてよいところのようだ。
 海岸に近づいていくと、ここがテレビ・ドラマ「秋の童話」の撮影地になったことを記念して設置された案内板がある。

「秋の童話」撮影地

 花津浦湖と花津浦海水浴場は、2000年秋のKBS‐TV人気ドラマ「秋の童話」を撮影したところだ。
 ドラマの主人公である「ウンソ(ソン・ヘギョ)」と「チュンソ(ソン・スンホン)」が幼いころに海岸で絵を描き、思い出を積み重ねたところで、チュンソが愛する恋人ウンソを背中に負ぶって海岸を歩く幻想的なラスト・シーンの背景でもあった花津浦は広く白い砂浜と湖、青々した海、そして海に浮かんでいる寂しい島「クムグ(金亀)島」が調和をなした天恵の美しい自然が生きて呼吸をしているところだ。

「秋の童話」撮影地案内板

 ドラマの案内板の左には海水浴場が彼方まで広がっている。ちょうど7月末の暑い日のことで、たくさんの海水浴客が砂浜で遊んでいた。
 案内板の右は小さな山のようになっていて、登っていく道がある。道と海岸の間は高い鉄条網で仕切られている。鉄条網の上部には有刺鉄線が巻かれていて、海岸からの侵入者を防いでいる。水着を着た人々と鉄条網が同時に視野に入ってくる。

金日成別荘

 その鉄条網に沿って小さな山をめざすように行くと、「花津浦の城(別名 金日成別荘)」という説明板がある。

 日本強占期である1937年、日本が日中戦争を起こして、元山にある外国人休養村を花津浦に強制移住させて、ドイツの建築家であるH.Wberが1938年に建立して礼拝堂として利用し、海岸絶壁の松林の中に優雅にあった姿から“花津浦の城”と呼ばれて、1945年以後には北韓が貴賓の休養所として運営し、当時キム・イルソンの妻キム・ジョンスクとキム・ジョンイル兄弟が泊っていったことがあり、今まで“キム・イルソン別荘”として広く知られている。

右上に見えるのが「キム・イルソン別荘」

 さらに進むと、今度は「キム・イルソン別荘」という説明板があらわれる。

 キム・イルソン別荘
 本別荘は、韓国戦争以前に北韓地域として周辺の景観が秀麗で、共産党幹部たちの休養地として使用した。
 1948年から6・25南侵以前までは、キム・イルソンと彼の妻キム・ジョンスク、息子キム・ジョンイル、娘キム・ジョンフィたちが夏季休養をしていたところとして、当時地上2階地下1階の建物の別荘があったところだ。
 現在の建物は1964年、陸軍で毀損した本来の建物を撤去して再建築して、1995年、陸軍福祉団で改補修して将兵休養施設として運営してきて、1999年7月、陸軍で既存の建物を用途変更、改修して歴史安保展示館として運営している。

 ところで、韓国に金日成の別荘がある理由はこうだ。
 1945年の光復後、朝鮮半島は北緯38度線を境に、南北に分けられる。38度線は、アメリカとソ連が、朝鮮半島を暫定的に管理するための境界線だった。北緯38度以北にある花津浦は、その時点では北朝鮮側に入っていた。
 風光明媚なこの場所にあった建物を、金日成は別荘として使用した。
 1950年に始まった朝鮮戦争が、1953年に休戦したとき、南北を分断する軍事境界線は、日本海側では北緯38度線よりも北に設定された。その結果、金日成別荘は韓国側に入ったというわけだ。

 場所は離れるが、駐車場の近くにも説明があった。

 「花津浦の城(キム・イルソン別荘復元)
1.金日成別荘の由来
 1937年、日本強占期に日本が中日戦争を起こしながら元山港の外国人休養村を花津浦に強制移住させて、ドイツの亡命建築家H・ウェーバーにより1938年建立され、礼拝堂として利用され、海岸絶壁の松林の中に優雅にある姿が領主の城のようだと言って、“花津浦の城”と呼ばれ、“石の家”とも呼ばれた。
 1945年、光復以降には北韓当局から休養林を静養所として活用して、礼拝堂は貴賓館として利用したと言う。当時、最高権力者 金日成の妻キム・ジョンスクと金正日兄弟が利用していたこともあり、今まで“金日成別荘”と呼ばれている。
 1948年8月当時、6歳だった金正日がソ連軍の政治司令官レベチェフ少将の息子と別荘の入り口の石の階段で撮った写真が残っている。
2.歴史安保展示館活用
 6.25動乱で焼失
 1960年 軍の休養所再建築
 1999年 歴史安保展示室として改築運営
3.花津浦の城(別荘)復元
 施設規模:2階258㎡(床面積130㎡)
 工事期間:2004.3月~2005年4月
 事 業 費:675百万ウォン
 施 行 庁:高城郡庁」

 鉄条網に沿って歩いて行くと、金日成別荘にたどりつく。
 途中、石段に写真が設置されている。古い白黒写真を展示用にしたものだが、写っているのは別荘とその前の石段に座っている3人の子どもだ。子どものうちの1人が金正日で、ここが金日成の別荘であること、金日成一家がここで過ごしていたことを示している。

 そこからさらに登ると、すぐに別荘だ。
 別荘と言っても、建物の中には別荘らしい調度品はない。安保教育のための資料が展示されている。

李起鵬別荘

 「花津浦の城(別名 金日成別荘)」を降りてくると、次に「李起鵬別荘」がある。
 李起鵬(イ・ギブン 이기붕)は、李承晩の側近ともいえる人物で、大統領秘書室長、ソウル特別市長、国防部長官を歴任。1960年の不正選挙で副大統領に当選したものの、4・19革命の中、長男に射殺されている。

李起鵬別荘
1920年代、外国人宣教師たちによって建築され使用された建物として解放以降、北韓共産党の幹部休養所として使用されてきたが、休戦以降、副大統領だった李起鵬氏の夫人パク・マリア女史が個人別荘として使用していたが、閉鎖され、1999年7月歴史安保展示館として改修し、観覧客に展示している。

「李起鵬別荘」説明板
李起鵬別荘

李承晩別荘

 さらに、しばらく歩き、花津浦湖にかかる橋を渡っていったところにあるのが、李承晩別荘である。
 李承晩(イ・スンマン 이승만)は、大韓民国の初代大統領。

李承晩別荘
李承晩初代大統領別荘は1954年新築した後、管理しないで、1961年廃墟で撤去されたが、1999年7月陸軍福祉団で別荘本来の姿に復元して、李承晩大統領の遺家族から遺品の寄贈を受け、観覧客たちに展示している。

「李承晩別荘」説明板

 別荘の見学は、かけ足になった。

 高城統一展望台の緊張感に対し、そこから15kmほどしか離れていない花津浦ののどかさ。
 青い海と青い空が広がっていて、水平線の彼方は空に吸い込まれていた。平和で穏やかな景色が視界を埋めつくしていた。
 ただ一点、有刺鉄線の巻かれた鉄条網が、この場所のもつ安保上の位置を教えていた。


 高城統一展望台に行くには、ソウル市内からだと、東ソウル総合ターミナルからバスを利用することが手軽な方法となるだろう。ただし、全行程の所要時間を考えると、束草に1~2泊して、展望台や花津浦を巡るのがよいだろう。束草およびその周辺には見どころが多い。雪嶽山も近いので、訪ねてみてはいかがだろう。
 ただし、統一安保公園から先に行くには車が必要になるので、交通手段を考えておく必要がある。

・高城統一展望台のすぐとなりには、2018年12月に新しく、高城統一展望タワーが完成している。
・高城統一展望タワー(高城統一展望台)から先、片道1.8kmを歩いて南方限界線(非武装地帯の南の境界線)まで行くツアーがある。手続きが必要だが、関心のある方は、「DMZ 평화의 길」で検索してみてください。

いくつものコースが紹介されているが、「통일전망대 코스」がそれである。


地図(naver mapへのリンク)

・統一安保公園

・高城統一展望タワー

・花津浦の城(キム・イルソン別荘)

・李承晩別荘

・李起鵬別荘





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