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【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】国立4・19民主墓地

初稿:2024.03.11
更新:2024.03.11

(この記事は12,924文字です)


李承晩大統領

 朝鮮半島では、日本の植民地支配が終わって3年後、1948年7月20日、李承晩(イ・スンマン 이승만)が国会議員による選挙で大統領に選出される。8月15日、李承晩は大韓民国政府の樹立を宣言し、初代大統領に就任する。ここに韓国の第1共和国がスタートした。

 1948年7月17日に施行された「韓国憲法第1号(制憲憲法)」および1952年7月7日に施行された「韓国憲法第2号(抜粋憲法)」では、「第55条 大統領と副統領の任期は4年とする.但し,再選により1回重任することができる.副統領は大統領在任中在任する.」と規定されている。この規定に従えば、大統領の任期は4年、但し書きとして再選により1回のみ重任4年が可能であるから、再選されれば最長8年、職に就けることになる。1948年から8年後にあたる1956年までが大統領職に就いていられる最長期間となる。

 また、第1代大統領選挙では、国会議員による無記名投票で選出されたが、憲法改正により第2代大統領選挙は、国民による直接選挙により行われることになった。

 1948年の大統領就任から4年後の1952年8月5日、第2代大統領選挙が実施された。李承晩が圧倒的な得票数で、第2代大統領に就任する。これにより、再任された李承晩の任期はあと4年、つまり1956年までと制限されることが確定する。

 1950年6月25日、北朝鮮の侵攻により朝鮮戦争が始まる。休戦協定が結ばれたのは、1953年7月27日である。

四捨五入改憲

 大統領の任期を迎える1956年を前にして、1954年、李承晩大統領の任期制限を撤廃する改憲案が李承晩の属する自由党から出される。李承晩を永久に大統領にしておくための企てだった。
 改憲案について、国会で投票をおこなった結果は、在籍議員203人のうち、賛成票135、反対票60、棄権7、欠席1であった。可決には議会の3分の2、つまり(203÷3×2=)135.33票以上が必要だったが、選挙結果は賛成票135であり、3分の2には1票足りない結果となった。
 そのとき進行をしていた副議長の崔淳周(チェ・スンジュ 최순주)は、投票結果から改憲案の否決を宣言した。

 ところが、否決された改憲案に対し自由党は「四捨五入」という理屈を持ち出してくる。0.33人という小数点以下の人数は現実には存在しない人数であるから、小数点以下は切り捨てることが正しいという主張を行う。
 自由党はこの理屈で改憲案を再度、国会で議論することにする。否決を宣言した副議長の崔淳周は、「当時は定足数計算に錯誤を起こし、否決を宣言したもので、135は203の3分の2になるということを知ったので、前日の否決宣言を取り消す」と発言した。野党は自由党に反発して議事堂から退席したものの、自由党は数の力で改憲案を通過させた。
 11月29日に公布された憲法が、韓国憲法第3号で、付則として「この憲法公布当時の大統領に対しては第55条 第1項但書の制限を適用しない.」という内容が付記された。「第1項但書」部分、すなわち「但し,再選により1回重任することができる.」という制限を、この憲法公布当時の大統領には適用しない、という内容である。つまり李承晩大統領については再任の制限がなくなり、選挙に当選さえすれば永久に大統領職に就いていられることになったのである。

1956年 第3代大統領選挙

 1954年11月に「四捨五入改憲」と呼ばれる改正された憲法を公布し、李承晩の再選(三選)が実現するかどうかという大統領選挙は、1956年5月に実施された。自由党から、大統領候補には李承晩、副大統領候補には李起鵬(イ・ギブン、이기붕)が指名される。李承晩は当初、三選になることを表面上は拒むが、これには李承晩を推す声を高めた上で立候補を表明するという意図があった。
 反李承晩勢力として結成された民主党は、大統領候補に申翼熙(シン・イッキ 신익희)、副大統領候補に張勉(チャン・ミョン 장면)を指名する。
 別政党からも立候補者が出たが、実質的な選挙戦は、自由党(李承晩、李起鵬)と民主党(申翼熙、張勉)で勝敗を争うことになった。
 民主党は、李承晩の独裁政治に対する批判を強めていた多くの国民から支持を集めていた。
 投票日は1956年5月15日。ところが、投票日が迫った5月5日、民主党の大統領候補である申翼熙は、選挙遊説に出かけるために乗っていた列車の中で脳溢血の発作を起こして急死してしまう。
 実質的な対抗候補である申翼熙が亡くなり、投票の結果、大統領には李承晩が他政党の候補に対して票数では圧倒的な差をつけて当選する。しかし、得票率の低さ、無効票の多さなどから、李承晩への批判が強かったことが見て取れた。
 さらに、副大統領選挙では、民主党の候補である張勉が自由党の李起鵬よりも得票を集め当選する。ここでも自由党への批判が表れる結果となった。
 こうして、1956年の第3代大統領選挙は、大統領には三選を果たした自由党の李承晩、副大統領には反李承晩勢力である民主党の帳勉が就任するという結果になった。

1960年 第4代大統領選挙

 1960年の任期終了を前に、1959年1月、李承晩は4選出馬を表明する。
 所属政党の自由党は、選挙準備を開始する。地方自治体の首長に自由党支持者を増やすように画策した。さらに政府内の局・課でも党員を組織した。6月に自由党は、大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬を指名した。
 一方、民主党は、党内の意見を一致するのに時間がかかり、11月になって党大会で、大統領候補に趙炳玉(チョ・ビョンオク 조병옥)、副大統領候補に張勉を選んだ。
 他政党からも立候補をめざした大統領候補がいたが、自由党は公権力や政治ヤクザを使って妨害をおこない、立候補を断念させた。

 さらに副大統領候補に対しても自由党は公権力を利用して妨害をおこない、立候補をあきらめることになった候補者もいた。
 最終的に副大統領には、現職副大統領で民主党の張勉、自由党の李起鵬、統一党の金俊淵(キム・ジュニョン 김준연)、大韓女子国民党の任永信(イム・ヨンシン 임영신)の4人が立候補することになった。統一党の金俊淵、大韓女子国民党の任永信は、大統領として李承晩を支持すると表明した。このことで、副大統領候補の票が割れることが懸念された。

 年が明けて1960年、民主党大統領候補 趙炳玉は、悪化した病気を治療するため、1月29日に金浦空港からアメリカに渡り、病院で治療を受けていたが、2月15日に心臓麻痺で死亡する。
 前回1956年の大統領選挙の時と同じく、民主党は選挙を目前にして候補者を失ってしまった。
 大統領選挙の実質的な対抗候補であった民主党の大統領候補 趙炳玉が亡くなったことで、李承晩の当選は確実となった。
 韓国憲法第3号では55条に、「大統領が欠けたときには副統領が大統領となり残任期間中在任する.」と定められている。李承晩は3月には85歳になる。高齢の李承晩に万一のことがあった場合に、大統領職を継ぐのは副大統領となるため、選挙の焦点は副大統領選挙になった。

2.28民主運動 大邱

 民主党の大統領候補である趙炳玉が亡くなって2週間ほどが経つ1960年2月28日の日曜日、大邱ではこの日に民主党の副大統領候補 張勉の演説会が予定されていた。
 演説会の日が近づいてくると、この演説会に学生たちが集まりそれをマスコミが取り上げることを懸念し始めた自由党は、演説会に学生たちが集まらないようにするために妨害工作をおこなった。その方法として、大邱市内の8つの公立高校(慶北高等学校、慶北大学校師範大学附設高等学校、慶北女子高等学校、大邱高等学校、大邱工業高等学校、大邱農林高等学校、大邱女子高等学校、大邱産業高等学校 以上8校。学校名は当時のもの)に対し、この日が臨時登校日になるように臨時試験や行事を行うように指示した。これが自由党の策略であることを見抜いた学生たちは怒り、学校に対して日曜登校の撤回を求めたが受け入れられなかった。
 演説会前日の27日に、慶北高校の李大雨(イ·デウ 이대우)学生副委員長の家に慶北高校、大邱高校などの学生たちが集まり、日曜登校に抗議するためのデモを組織することを決定した。
 このデモは、単に日曜登校に反対するために行うデモではなく、自由党政権の不義と独裁政権を打倒し、民主化を実現するためのデモであった。
 当日、2月28日、学校に集合した学生たちは集会をおこなった後、校外に出た。慶北高校では学生800余名が慶尚北道庁(現在の慶尚監営公園 경상감영공원 の位置に所在)に向かいデモを始めた。途中で他高校の学生たちが合流していき、最終的にはその数は1200人余りになった。警察は学生たちを殴って、デモを防ごうとした。それを見ていた市民たちは、学生をかくまったり拍手を送ったりして応援した。この日に220余名の学生たちが逮捕され、教師たちは責任を追求された。
 マスコミはこの事件を報道し、このことで全国各地で学生たちのデモが広がり始めた。
 2月28日に大邱で行われたこのデモは、「2・28民主運動」と呼ばれ、この後に続く民主化運動の大きな序章となる。

3・8民主義挙 大田

 3月8日には、大田市でも高校生によるデモがおこなわれた。
 3月9日付の「朝鮮日報」には、つぎのような記事が掲載された。

大田でも学生デモ 警察と衝突 約四百名が1時間半(時間半)の間 負傷数名、61名を連行 学園の政治道具化反対を叫ぶ
【 忠南支社】8日午後、民主党副大統領候補の張勉博士の選挙遊説講演会が開かれている大田市では、約400人の高等学校学生が10人ずつ肩を組み、約1時間半にわたり「デモ」をしていたところ、これを制止する警察官と衝突し、警察側では消防車まで動員し、生徒たちは石で対抗して数人の学生が負傷した。

この日、張勉博士の選挙遊説講演会は予定より45分遅れて、午後1時45分から大田公設運動場で約3万人(警察推算1万5千人、民主党推算5万人)が見えた中で開催された。講演者としては張勉博士をはじめ鄭重燮(チョン・ジュンソプ)、曺泳珪(チョ・ヨンギュ)、朴順天(パク・スンチョン)などの諸氏だったが、鄭重燮議員の講演が終わって張勉博士の「民主党に政権を与えれば、すべての法を少しも破らずによく守る。憲法を勝手に改めない。言論の自由を保障する」という要旨の講演が進行中の午後3時40分頃、大田高等学校の学生約400人が授業中に学校の塀を飛び越え、同校の校長官舎に駆けつけて決議文を朗読し、スローガンを叫びながら10人ずつ肩を組んで民主党副大統領候補の張勉博士の講演会場である大田公設運動場に向かって「デモ」をおこなった。

この「デモ」は「神聖な学園を政治道具にするな」「ソウル新聞を強制購読させるな」「自由を弾圧するな」などのスローガンを叫び、民主党の講演場である大田公設運動場入口に至って警備中だった警察官と10分間にわたり乱闘劇が起きた後、警察官によって解散された。しかし、学生たちはすぐに約100人ずつ集まって大田市大興洞と駅前広場を経て大田橋に至ると、これを制止する警察官と学生たちの間に衝突が生じ、学生たちは石を投げ、数人の学生が警察官の警棒に当たって負傷した。このような「デモ」は約1時間半も続き、警察はこれを制止するために消防車まで動員したが、水を撒くことはなかった。一方、大田市内は同日午後5時10分現在、厳重な警備網が広がっている中、民主党の選挙講演が続いた。 

1960年3月9日付「朝鮮日報」

3・15不正選挙

 与党である自由党は、国民からの支持を失っていた。社会には不正がはびこっていた。公正とは言えない改憲を強引におこなったことで、自由党は反民主主義的な党と見なされていた。このような中、自由党の副大統領候補である李起鵬が当選することは危ぶまれた。そこで自由党は、ありとあらゆる不正選挙を画策していく。

 このように野党の選挙戦戦列整備が内部の事情によって遅れると、早期選挙実施が上策だと判断した自由党は、11月から本格的な選挙対策を立て、不正選挙を事前に準備していった。
 内務部長官の崔仁圭(チェ・インギュ 최인규)は全国の警察に対する大々的な人事移動を断行し、一線の警察署長を縁故地中心に再配置させ、続いて全国の市・邑・面・洞単位で公務員親睦会を組織するなど得票のための活動を指示した。
 また、内務部は11月から翌年2月の間に、全国の各級機関長に次のような具体的不正選挙方法を極秘裏に指示した。すなわち、①4割事前投票、②3人組または5人組公開投票、③腕章部隊活用、④野党参観人の追放などを通じて、自由党候補の得票率を85%まで上げるということだった。
 これと共に、自由党は不正選挙を完璧に遂行するために、中央組織に巨額の選挙資金を用意させた。自由党中央組織では選挙資金募金目標を当時の貨幣で50億ウォンに策定、財務部と国策銀行である韓国銀行・産業銀行をはじめとする市中銀行と大手企業から資金を集め、ほぼ70億ウォンを募金した。

 選挙戦が本格化すると政府・与党の野党選挙運動妨害事件が相次いで起き、これに対し民主党は4割事前投票と公開投票など警察の不正選挙指令を暴露した。また、同年3月9日と10日、全羅南道麗水と光山で民主党幹部がテロで死亡する事件まで発生した。
 これに対し緊急招集された民主党拡大幹部会議は不正および不法事態を厳しく取り締まってほしいという内容の「李大統領に差し上げる公開状」を採択する一方、全国民に不正選挙拒否運動に積極的に参加することを訴えた。それは事実上の選挙放棄であり、3・15選挙は投票をする前に終わったわけだ。
 同年3月15日の投票は野党側がほとんど傍観した状態で行われ、民主党はその日午後「3・15選挙は選挙ではなく、選挙の名の下になされた国民主権に対する強盗行為」と規定した後、選挙無効宣言をした。
 開票が始まると李承晩と李起鵬の得票が95%~99%まで操作されて出てきた地域が続出し、このようなとんでもない集計に驚いた自由党は崔仁圭に得票数を下方調整しろと指示した。
 その結果、最終集計は総投票者1,000万人余りのうち、李承晩が960万人余りで88.7%の得票、李起鵬が830万人余りで79%を得票したことが分かった。

韓国民族文化大百科事典(한국민족문화대백과사전)
「3・15不正選挙(3·15부정선거)」

 また、次のように具体的に説明をしている資料もある。

自由党は全国の公務員と警察などの公権力はもちろん、政治ヤクザ、腕章部隊まで動員して野党の選挙運動を妨害し、住民たちに李承晩と李起鵬を支持するよう圧迫した。自由党はまた、野党の参観人をさまざまな理由で投票場から引っ張り出し、投票者を3人1組で投票させ、投票用紙を投票箱に入れる前に自由党側の参観人に見せるようにする公開投票を実施した。有権者に投票方法を教育するのに使うという口実で、偽の投票用紙を作っておいて、投票箱に大量に投入する計画を立てたりもした。
……
選挙前日の3月14日、自由党はすべての選挙箱に李承晩(イ·スンマン)と李起鵬(イ·ギブン)が写っている偽造投票用紙を大量に入れた。
……
3月15日、ついに選挙が行われた。彼らは投票する人々にお金を渡したり、1人当り投票用紙を20枚まで持っていくなどの選挙操作行為を犯した。また、自由党党員が記票所まで入って自由党を選ぶのか、それとも野党を選ぶのかを監視する一方、野党選挙管理人を投票所から追い出す行為まで犯した。このような不正行為には自由党所属の政治暴力団が動員され、その他にも内務部所属の公務員まで組織的に介入した(このことで内務部の次官級と室局長級幹部が拘束され、内務部長官の崔仁圭は死刑を宣告されることになる)。
以上wikipedia

https://ko.wikipedia.org/wiki/「3·15不正選挙(3·15 부정선거)」

3・15 馬山

 3月15日の不正選挙に抗議するデモは、全国各地で起きた。
 慶尚南道馬山市(現在の昌原市)では3月15日の投票当日、市の民主党幹部たちが投票所で、40%の事前投票や3人組の公開投票など不正選挙の現場を確認した。彼らは選挙放棄を宣言し、デモの準備にとりかかる。夕方より民主党幹部、市民、学生による数千人規模のデモが始まる。デモの行進につれて、さらに市民や学生が合流していき、夜には1万人を越える規模になっていく。警察はデモ隊に発砲して鎮圧しようとしたが、それはデモ隊の怒りを激しくさせることになった。デモ隊は、自由党支部、ソウル新聞支局、派出所などを破壊した。この日、警察の発砲により7人が死亡し、多数の負傷者が出た。

 馬山産業高等学校(現在の馬山龍馬高等學校 마산용마고등학교)に合格したばかりの金朱烈(キム・ジュヨル 김주열 1944年生まれ)も、このときのデモに参加していた。ところが、デモに参加したのち、金朱烈は行方不明になる。
 行方不明になってから27日後の4月11日、金朱烈の遺体が馬山港の中央埠頭沖で発見される。海に浮かぶ遺体は右目から後頭部まで、警察が撃った催涙弾が刺さっている状態だった。遺体は警察によって海に捨てられていたのである。このことにより市民の怒りはさらに高まり、デモは激しくなっていく。
 4月12日、催涙弾が刺さった状態で海に浮かぶ金朱列の遺体の写真を掲載して、釜山日報は事件を伝える。この事件は全国にも報道され、このことでデモは全国規模で広がっていく。

 3月15日のデモのときに警察が発砲したことにより、馬山合浦区(마산합포구)玆山洞(자산동)にある舞鶴初等学校(무학초등학교)のブロック塀に銃弾の跡が残った。塀が鉄製のフェンスに交換される工事により、弾痕のついたブロック塀は撤去されるが、その後、復元され、上部に「3.15義挙,舞鶴初等 塀銃撃現場復元」という案内看板が設置されている。

 金主烈の遺体が発見された埠頭には、金朱烈死体引き揚げ地を示す記念碑が建てられている。

4・19革命

 4月18日、ソウルでは、高麗大学の学生たちが国会議事堂でデモをおこなった。不正選挙を糾弾するだけではなく、独裁政権の打倒を叫んだ。デモをおこなったあと、大学生たちが大学に戻っていく途中で、自由党が擁していた武装暴力団に襲われるという事件が起きた。このときの襲撃により学生1名が死亡し、多くの学生が負傷した。この事件が起こったことで、翌4月19日、学生たちのデモは一気に拡大する。地方都市では高校生がデモの中心になっていたが、ソウルでは大学生がデモの中心になった。

4·19革命(血の火曜日)
ついに4月19日、数多くの大学生、中学·高校生、市民たちが「不正選挙をやり直せ! 独裁政権、退け!」と叫び、光化門や鍾路など、ソウル市内のいたるところを駆け回った。 デモ隊は10万人を超え、大統領官邸である景武臺に向かった。 大規模デモ隊が景武臺の前に着くと、警察が集団発砲し始め、21人の犠牲者と172人の負傷者が続出した。 李承晩政府の強硬対応にもかかわらず、デモが仁川、水原、釜山、光州など全国に収拾できないほど大きくなると、李承晩政権は全国に非常戒厳令を宣布した。この日、全国的にデモ隊と警察など115人が死亡し、727人の負傷者が発生した。流血事故の責任を負って国務委員と副大統領が辞表を出し、李起鵬副大統領当選者は辞退を考慮すると発表した。しかし、李承晩大統領は自由党総裁職だけを辞退するとし、権力を維持しようとした。

4.25教授団デモ
李承晩政権のあいまいな態度に国民は再び憤った。全国27の大学教授団258人は鍾路でデモを行い、国会議事堂前で時局宣言文を採択した。 「学生デモは正義感と民族精気の発露であり、大統領、国会議員、最高裁判事などが責任を負って退け」と要求した。教授団のデモに力を得た市民と学生たちのデモは一晩中続いたが、警察と戒厳軍はデモ隊を阻止しなかった。教授団デモはしばらく小康状態に陥った4·19革命に決定的で新しい転換点になった。

4.26. 李承晩大統領下野(勝利の火曜日)
デモ隊は4月25日から、李承晩政権の退陣と大統領下野を強く要求し、李承晩の銅像を引きずり下ろした。戒厳司令官のソン・ヨチャン将軍は学生たちの要求が正当だと認め、戒厳軍がデモ隊に向かって発砲することを禁止するよう指示した。国会は「大統領の即刻下野、正副大統領再選挙、内閣責任制改憲」などを決議した。米国大使と一部閣僚が繰り返し下野を説得すると、ついに李承晩大統領は26日「国民が望むなら退く」という下野声明を発表した。 これで不正選挙と長期執権を図った自由党政権は崩れ、(以下、略)

「国立4.19民主墓地」HP 「民主化運動 展開過程」

 李承晩の独裁政権を倒した学生や市民たちのこの民主革命を「4・19革命」という。「4・19民主革命」「4月革命」など、いくつかの呼び名がある。

第2共和国

 4月25日、副大統領の張勉は辞任する。
 不正選挙に対する反発の中、4月26日、李承晩は正副大統領の再選挙の実施を表明する。国会でも再選挙を要求することが決議される。
 翌27日、李承晩は大統領を辞任する。主席国務委員および外務部長官の職にあった許政(ホ・ジョン 허정)が大統領権限代行に就任し、暫定的に政権運営を行う。
 李承晩の側近であった副大統領当選者の李起鵬に対しても責任追及の声は高かった。李起鵬は身を隠していたが、4月28日、長男に銃で撃たれて死亡する。長男は母・弟も銃で撃って殺し、自らも自殺する。(住んでいた家は国に提供され、家の敷地には「4・19革命記念図書館」(4.19혁명기념 도서관)が建設された。)
 5月2日、国会において改憲後までは正副大統領の再選挙を保留することが決議される。
 大統領を辞任後、私邸の梨花荘で生活をしていた李承晩夫婦は、5月29日、ハワイに去る。(1965年7月19日死去。享年91歳)
 6月15日、第2共和国憲法が施行され、第4代大統領の選挙が国会での間接選挙で実施され、尹潽善(ユン・ボソン 윤보선)が当選した。第2共和国憲法からは、副統領(副大統領)の職はなくなり、国務総理がその役目を担うことになる。8月、国務総理には張勉が選出され、大統領に尹潽善、国務総理に張勉のもと、第二共和国が正式に発足する。
 しかし、民主党内部での対立、社会運動の活発化、経済状況の停滞、北朝鮮との接近を求める学生運動等により、危機感を高めることになった韓国軍部は、朴正熙が主導して翌1961年5月、クーデターを起こす。

国立4・19民主墓地

 「国立4・19民主墓地」は、4・19革命における犠牲者を祀った墓地である。ソウル特別市江北区水踰洞(서울특별시강북구수유동)にある。
 以前はソウル中心部からここに行くためには、地下鉄やバスを乗り継いで行かなければならなかったが、ソウル軽電鉄 牛耳新設線(서울 경전철 우이신설선)の開通により、地下鉄を乗り継いで行って「4・19民主墓地駅」(4.19민주묘지역)で降りれば、そこから徒歩10分ほどで墓地を訪ねることができるようになった。
 4・19革命の翌年、1961年2月1日に国務会議で公園墓地設立が決議され、1962年12月21日に再建国民運動本部により起工式が行われた。1963年9月20日に墓地竣工および記念塔除幕がおこなわれている。こうして広さ約3,000坪の墓地が完成した。
 祀られた霊については199位と説明している資料と224位と説明している資料がある。この民主墓地ができあがった後で亡くなって埋葬されていく負傷者もいるので、墓の数は増えていくことになる。(確認時期により人数は異なってくる)。
 1993年10月からは墓地の聖域化事業が始まり、1995年4月に竣工する。これにより墓地の広さは当初の10倍以上になる約40,000坪に拡張された。また、遺影奉安所、象徴門、造形物などが造られた。竣工に合わせ、国家報勲部が墓地の管理をすることになる。

「国立4・19民主墓地」の入り口のモニュメント「民主の根」
手前が「象徴門」 奥に「記念塔」
中央の等が「記念塔」 右奥に見える屋根が「遺影奉安所」

 2006年には名称が「国立4·19墓地」から「国立4·19民主墓地」に改められた。
 安葬対象者は、「4·19革命死亡者」(1960年4月19日を前後した革命に参加して亡くなった方)、「4·19革命負傷者」(1960年4月19日を前後した革命に参加して傷を負った方で、その傷の程度が国家報勲部長官が実施する身体検査において1級ないし7級の傷の等級に該当する身体の障害を受けたものと判定された方)、「4·19革命功労者」(1960年4月19日を前後した革命に参加された方のうち、4·19革命負傷者に該当しない方で建国褒章を受けた者)と定められている。(国立墓地法第5条依拠)

国立4・19墓地を訪ねて

 「国立4・19墓地」を初めて訪ねたのは、2003年8月2日のことだ。
 ソウル駅からは直線距離で10kmはあり、当時は地下鉄の最寄り駅もなかった。バスで行くのは、どこからどのバスに乗るのかを確かめるだけでも手間のかかることだった。前年の旅行のときから1年ぶりに会った韓国の友人に、行ってみたい場所として話をすると車で連れて行ってくれた。
 正門から敷地に入っていく。
 正義の炎、象徴門、記念塔などの大型の造形物がある。
 墓域にある墓石には、個人名が刻まれていて、ほとんどのものに故人の顔写真がつけられている。学生が中心になったデモであったため、犠牲になった人たちの中には学生も多く含まれている。中には、小学校(当時は韓国では「国民学校」、現在は「初等学校」)の子どもの犠牲者もいた。

墓地のようす 左手前に全漢昇の墓が写っている
鐘岩国民学校4年生 林東成の墓
林東成の墓の裏面

 鐘岩国民学校4年生だった林東成(イム・ドンソン 임동성)の墓石の裏側には、デモ隊列で銃傷死亡(시위대열에서 총상사망)と記されている。
 この原稿を書くにあたって、当時のできごとを調べていたところ、こんなことも分かった。壽松国民学校6年生だった全漢昇(チョン・ハンスン 전한승)は、下校中にデモ隊に歓声を送ったところ、警察に撃たれて亡くなった。(全漢昇の墓は、上の「墓地のようす」の中に写っている)。壽松国民学校の子どもたち約100人は全漢昇の死をきっかけにプラカードを掲げて行進をおこない、軍人に対して、兄や姉たちに銃口を向けないで、私たちを撃たないで、と訴えた。
 墓地のいちばん奥に進むと、遺影奉安所がある。建物に入って、正面に並べられたたくさんの遺影を見ると、民主主義のために流れた多くの血に対して言葉が見つからない。

遺影奉安所

 位置は手前になるが、記念館(四・一九革命記念館)では、展示を通して4・19革命の背景や経過、意義などを知ることができる。
 訪ねたときが2003年であるため、20年が経過していて変わったところも多いのではないかと思う。そのためくわしいことは書けない。近いうちに、再訪してみたいと思う。

国立3・15民主墓地

 現在は慶尚南道昌原市になっている、当時の馬山市には「国立3・15民主墓地」がある。
 ここは未だ訪ねたことがないが、今回、4・19革命について調べる中で、存在を知ることができた。
 ここは、3・15義挙から8年後の1968年、亀岩洞(クアムドン 구암동)の愛妓峰(エギボン 애기봉)・玉女峰(オンニョ峰 옥녀봉)の山裾に1,200坪の広さで墓地が造成された。
 翌1961年1月に、あちらこちらに埋葬されていた3・15義挙の犠牲者の墓13基をここに改葬した。
 1998年3月から2003年3月まで、3・15聖域公園造成工事が行われた。総敷地面積43,390坪になる。
 2002年8月1日に、国立3・15墓地に昇格した。
 2006年1月30日に、「国立3・15民主墓地」に名称が変わった。
 安葬対象者は、国立4・19民主墓地と同じである。
 「News1Korea」2023年4月24日の記事「'3.15 부정선거 항거' 한경득 열사, 3·15민주묘지 영면」('3·15不正選挙抗拒' ハン·ギョンドク烈士、3·15民主墓地永眠)によると、この時点で安葬者は54位だと紹介されている。https://www.news1.kr/articles/?5025571
 造形物のほかに、記念館、遺影奉安所などがある。

大韓民国憲法前文

 「大韓民国憲法」の前文では、1919年の3・1独立運動のことが記されている。これは、1947年制定の「韓国憲法第1号(制憲憲法)」からずっと継続している。「韓国憲法第1号(制憲憲法)」の前文は、
 「悠久の歴史と伝統に輝く我ら大韓国民は己未参一運動により大韓民国を建立し世界に宣布した偉大な独立精神を継承し」
 で始まる。

 朴正煕大統領時代の韓国憲法第6号(第三共和国憲法)では、前文に、
 「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は3·1運動の崇高な独立精神を継承して4·19義挙と5·16革命の理念に立脚し」
 と、4.19革命と5.16革命が並んで初めて憲法前文に登場する。
 朴正煕は1961年に5・16クーデターを起こして軍事政権を発足させ、国家再建最高会議が主導して、全国的な意識改革運動を展開する。その運動の中心となる再建国民運動本部が主催して、1962年に4・19墓地の起工式を行っている。朴正煕においては、5・16クーデターは4・19革命から引き継いでいる革命と意味づけをしたのだろうか。

 1980年に大統領になった全斗煥の時代には、韓国憲法第9号(第五共和国憲法)の前文は、
 「悠久の民族史,輝く文化,そして平和愛護の伝統を誇る我が大韓国民は3·1運動の崇高な独立精神を継承して」
 と変わり、4.19革命と5.16革命の記述は消える。

 1987年、韓国の民主化が実現したときの韓国憲法第10号(第六共和国(現行)憲法)では、前文は、
 「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は3·1運動により建立された大韓民国臨時政府の法統と不義に抗拒した4.19民主理念を継承し」
 と4・19についての記述が復活し、今日まで続いている。

 (以上、文中の大韓民国憲法の名称、日本語訳については、次のホームページの資料を利用させていただいた。「法律事務所のアーカイブ(資料棚)」http://justice.skr.jp/index.html


 なお、いずれの場所も一般的な観光地ではない。
 民主化のために命をささげることになった方々の墓であることを忘れず、敬虔な気持ちで訪ねたい。中級程度の韓国語の読解力があれば、各所の説明分の内容の理解はできると思われる。


地図(naver mapへのリンク)

・国立4・19民主墓地(ソウル)

・国立3・19民主墓地(慶尚南道昌原市 旧:馬山市)

・舞鶴初等学校 銃弾の跡が残るブロック塀(昌原市 旧:馬山市)

・金主烈死体引き揚げ地(慶尚南道昌原市 旧:馬山市)

Naver Map で「金朱烈死体引揚地」(김주열시신인양지)として検索すると、正しい位置が表示されないようである。そこから近い「馬山郵便局物流センター」(마산우체국 물류센터)の南の海の脇に碑が建っている。

赤い〇印が、金朱烈遺体引揚地




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