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そうまでして小説を書く必要があるのか

 こんばんは、りょうこです。
 まだ書き始めていません。いませんが、妙に気持ちは落ち着いています。焦ってません。焦ってないから焦ります。これでいいのか、間に合うのか、焦った方がいいのではないか。
 ぐるぐると、1日に何度も考えますが、結論は出ません。
 ここでふと、思います。そうまでして小説を書く必要があるのか。と。
 そうするとますます、深いところに落ちていきます。

 問題は、必要があるのか、の、必要、という言葉ではないかと思います。
 生きていくには働く必要がある。会社を休むのには連絡する必要がある。美味しいごはんを食べるにはがんばってお金を稼いで素敵なレストランに行くか努力して自分で美味しいものを作れるようになる必要がある。
 小説がなかなかはかどらないので悩んで悩んでその時間仕事を増やす努力をしたほうがいいはずなのにそうはいかなくて、そうまでして、小説を書く必要があるのか。
 必要、ではないけれど、そうまでして小説を書きたいか、と問われたら、書きたいですと、答えることができるでしょう。
 なにをやっているんだろうかと思います。趣味にしては辛すぎる。仕事にしてはお金にならない。満足が得られるかと言われるとそれもちょっと違う。
 じゃあなぜなのかと思うとそれは、書いているときにだけ湧き上がる、「自分は生きているのだ」という実感、感覚。とても大げさで恥ずかしいのだけれど、それが自分の中で小説を書きたい理由として、一番しっくりきます。あの感覚は、小説を書いているときにしか感じることができないので、ほかに表現がしにくいのです。“「自分は生きているのだ」と感じられるから嬉しい”、のでもなく、ただただ、そう実感が持てる、淡々とした気持ち。心臓が動いているのを実感できないように、無意識に呼吸をしているように、私は生きていると感じるのは難しい。難しいのに、それができる。そういう感覚なんです。
 うーん。うまくやはり表現ができません。高揚感とも違います。

 私は7年以上書き終えられなかった。そして、先日書き終えて、久しぶりにまたこの感覚を手にして、良かったなと思ったんです。自分に軸が戻ってきた。だからまた、書きます。苦しいけれど。

 さて。
 こんなことを語っている場合ではありません。容赦なく締め切りは迫ってきます。ちょっと今週来週で、いつもと違った生活リズムを試そうと思います。なにかきっかけがあるかもしれない。

 それではそろそろ寝ます。
 明日の自分に期待しながら。
 おやすみなさい。また明日。

前回→今回:0行まま。内容はぼんやり決めたけどもまだまだ不安定。→まだ0行。きっかけ待ち。

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