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家の中にぴんぴんした病人がいないようにしたいものです

 1999年に、「男女が共にその個性と能力を十分に発揮できる男女共同参画社会の形成は、我が国の重要な政策課題の一つ」として、「男女共同参画社会基本法」が制定されました。その当時(平成28年社会生活基本調査「生活時間に関する結果」)でも、家事負担は女性に重く、男性の職業関連時間は、女性の2倍強でした。「家事分担」から「家事シェア」、家事や育児を母親のお手伝いから、夫婦や家族みんなで共有する形へと変えていきたいという提案もあります。
 羽仁もと子の生きた時代は、今とは環境も文化も異なっていますが、それでも家の中における主人(夫)の立場は、現代とも共通する悩みのようです。

家庭に献げる家人の労力

 ものの置き場所が一定して、主婦はもちろん子供たちでも、めいめいにハキハキとものの始末をするように訓練してやりたい、そうしてそれが出来ることだと思いますけれど、さて今まで家人を手足のように使ってきた主人も、そういうようにしてくれるでしょうか。
 ワグナーという人の『簡易生活シンプルライフ』という本がさかんに読まれたころでした。ある紳士が、次のようにその真実な経験を話してくださいました。

“現在日本の家庭において、もっともわがままな、もっとも手のかかる生活をするものは誰であるかというとそれは主人であります。一家の主人たるものが、まずそのわがままな生活をあらためて身をもって家人を率いるというふうでなければ、とても簡易生活シンプルライフを実行することはできません。数年前まで私はご承知のとおり友人のあいだにも名高い不規律な男でした。
 私は長いあいだのいわゆる文士的自堕落じだらくな習慣のために、一家の規律を蹂躙じゅうりんし、家人の幸福を犠牲にすることを当り前のことのような気がしていました。第一、朝起きる時間が一定していません。そうして朝寝をするかと思うと、ときどき無法にはやく起き出して、まだ湯はわかないか、めしはできないかといってどなりたてました。(中略)
 私がワグナーの著書を読んだのが機縁になって、まずこの朝寝をあらためることが必要である。それから大した面倒をせずとも自分に出来ることに家人をよびたてて、それ茶だ水だというようなことは、断然あらためなくてはならない。自分の無精不規律を矯ためて、無用の人手を労しないようにしようと思いました。(中略)
 そしてこのことを家人に語ると、はじめはその実行をあやぶんでいましたが、その後一、二ヵ月のあいだに、私の生活が著しく規律正しくなったことが、家人をして私が多年の自堕落な習慣と苦闘しつつあることに、少なからぬ興味と深き同情をもたせるようになり、そばからも出来るだけ助けるというようなことで、約一年ばかりのあいだに、私の生活はすっかり面目をあらためて、見ちがえるほど健全になったことは、当時交友間にひとつの奇跡としてもてはやされたことでした。
 かくのごとくにして私がまずみずから正しうしたことが、その後私ども一家の生活をだんだん簡易真率しんそつにしていく上に、少なからぬ奨励をあたえたのです。
 今になって白状するわけですが、実際不規律な生活というのは、はたの迷惑より以上に本人自身にとって不愉快なものなのです。(中略)
 第一、家人おのおの適当の仕事をもって忙しく働くためにその健康の著しく良好となったことであります。ことに私は多年の自堕落な生活のために、長く慢性の胃病に苦しんでおりましたが、簡易生活の手はじめとしてまず起臥の時間を一定したためによほどよくなり、それよりすすんで何くれと家内のことをするようになってから、ほとんどぬぐえるがごとくに全癒ぜんゆしました。このことよりして簡易生活はまた同時に健康生活であると口ぐせのようにいっている次第であります。
 第二は、直接には無用の雇人をおかぬために、間接には万事「見え」をすててもっとも正直に暮らすために、著しく冗費じょうひの少なくなったことです。数年前までの私の家計はこれという大した借金をせぬまでも、いつもいつも足らぬがちでありましたが、昨今はさしあたって雇人の食費および給料だけのものがあまるほかに、家人の気風が一体に質素になり、むだを惜しんで忠実まめやかに働くために、どこからともなく多少の剰余じょうよが出るようになりました。それでちょっとした病気にかかっても、すぐに金の工面に出かけるという以前の心配のなくなったのをよろこんでいます。“

 近ごろまたこの方におあいしましたら、「風呂焚きはますます上手になりました。私が今こうしてぴんぴんしているのは、あのときに以前のわがままな生活に打ち勝ったおかげです」といっておいででした。
 方々の主人がこういう決心をしたら、どんなによいでしょう。私がこの本の一番はじめに、われわれ一家の事務的生活は、その家のもっている財力と労力との上に打ち建てられるといったのはこのことです。
 われわれの家に、一人の病人があれば、家中に実に多くの用事がふえてきます。別に大した手当を必要とするほどの病気でなくても、ただその身のまわりに手がかかるのです。一軒の家に自分のことを、自分でしない人があれば、それはちょうど絶えず病人があるのと同じことです。心配はないけれども、手数においては同じことです。どうか家の中にぴんぴんした病人がいないようにしたいものです。また彼の紳士が、私が今こうしてぴんぴんしているのは、あのときに以前のわがままな生活に打ち勝ったおかげですといわれたことが、また大いなる注意に値します。すわっていて人を使っていわゆる縦のものを横にもしない流儀の生活、いいかえれば頭ばかりつかっている生活をしていると、それが長いあいだに、どんなにその人の気分健康に影響するかしれません。はじめのぴんぴんした病人がついにほんとうの不健康者になるようでございます。

羽仁もと子著作集 第9巻『家事家計篇』第6章「家事整理の実際 三 家庭に献げる家人の労力」より抜粋

 家庭内における男女の役割は、共働き家庭の増加などによって、当時に比べればフラットになってきているとはいえ、家事や育児についての役割は、まだまだ母親頼みなところもあるかもしれません。また、上記文章の中には、夫が家族と同じ日常生活を送れない(送らない)ことに起因する、健康への影響についても記されています。
 『簡易生活(シンプルライフ)』という言葉は、現在も多くの人の目標になっていますが、羽仁もと子の文章から読み解くと、家族それぞれが家人の労力に理解を示して、「ぴんぴんした病人」でないことが、第一歩なのかもしれません。誰かにやってもらう意識ではなく、自分の家のことは自分でやろうという意識を、家族みんなが持つことが、シンプルライフへつながっていくのでしょう。

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