私の専門学校話Part2~衝撃の学校生活編~

さて、私の専門学校話Part2!今回は私が専門学校に入学し、いよいよスポーツコースとしてトレーニングや栄養学、トレーナーになるための勉強をさっそくスタートしようと意気込んでいたその時に起こった衝撃をお伝えしようと思います。

まず、驚いたのは2年間のスケジュールについてでした。
コロナの影響もありましたが、様々な実習が取りやめになってしまい、説明会の時よりとれる資格が減っていました。

また、スポーツトレーナーとしての仕事に直接繋がる資格は3つ、そのうち2つはアメリカでメジャーな資格で、もうひとつは合格率が極めて引く高難易度な資格でした。

さらに、実習で近くのジムに行く、さらにそのジムが使い放題という噂でしたが。
そのジムは学校から徒歩25分。
さらに、会員になるのは8月からということで、トレーニングを仕様にも出来ない日々が続きました。

スポーツトレーナー系の資格の勉強が始まると思うと、スポーツインストラクター系の勉強が始まり、1部の人はその時点でやる気を無くしてしまいました。

そして、衝撃が訪れます。
1ヶ月半にして、1人目の脱落者(自主退学)が出たのです。
やはり想像と違っていたからでしょうか、今となっては確かめるすべもありません。

そんな学校に対してモチベーションが下がっている時期にこんなことを知らされます。
「電卓検定の勉強が始まります!」
なんだそれ?説明を聞くと、不思議な団体の電卓検定を学校全体でとるそうです。
4級から始まり、段位まであるそうで、2年の最後の検定までに2級以上を取らなければ、補習になるということも聞き、学校に対するモチベーション低下がクラス内に伝播しました。

電卓検定が終わると、漢字検定の勉強が始まりました。しかし、高校などでやる漢検とは違います。「ビジネス漢検」なのです︎。
漢字自体は簡単でしたが、毎朝電卓を40分うち、毎朝漢字の小テストを繰り返す日々。
体を動かすことしか考えて来なかった我々にとってはかなり辛い日々でした。

夏休みはしっかり宿題が出ました。
漢字と電卓とわずかなスポーツ関係のプリントでした。

心の休まらない夏休みが終わり、教室に入ると新たな衝撃が襲いました。
机が2つないのです。
それに伴い席順も変わっていました。
そのうち1人の男子は夏休み前から辞めることをほのめかしていたので、衝撃は軽かったのですが、優等生の女子がいなくなったのにはみんな驚きを隠せないようでした。

その後行われたスキューバダイビングの資格の勉強では、最後に行われるテストでカンニングが横行、またカンニングを行わなかった人は軒並み再テストとなり、場が荒れました。

二学期からはジムでの実習がついに始まりましたが、レッスンパートとトレーニングエリア(自由時間)パートに分けられ、レッスンではひたすら踊るZUMBAというものの度に、途中退出者が出る、レッスンを真面目に受けないなどの問題行為が多発し、そこのジムとの小さな揉め事になりました。

トレーニングエリアパートでは数人がサッカーをテニスボールでして怒られていました。

この頃には、就職活動も動き出しました。
皆さんはこんな言葉聞いたことありますか?
「面接効果測定」
みんなからの反応は「自動車教習所じゃないんだから!」
という切実なものでした。

こうして、面接練習と対策も始まり、企業による説明会が始まった頃には季節は冬でした。

これまで、少々批判的なことを並べてしまいましたが、もちろん学びも多かったのは事実です。
・上級救命講習
・スポーツフェスティバル
・就活のノウハウ
ふざけながらも学べていたので、これは成果だったとおもいます。

最難関資格の勉強も始まりましたが、あまり実のある内容ではありませんでした。
私たちの担任は、まだ若い男の先生でしたが、授業は読み、線を引く場所を指定し、その部分の用語を解説する。
この繰り返しだったため、私は眠気と戦うために自前のノートにひたすら線を引く部分を文字にするという一見無駄とも言える行動を繰り返しました。
1部の生徒や先生からはよく頑張ってると思われていたかもしれませんが、モチベーション低下と、この資格をとりたいという狭間で、揺れていたのも事実です。

そうして長めの冬休みになりました。
この学校でとる最難関資格の練習プリントが大量に配られていました。
地元のジムに通って、自動車教習所にも通って、バイトもして多少充実していました。
1月最初の試験に合格し、車の免許を取得出た来たので、今年はいい年になると勝手に思っていました。

新年一発目の学校でまた衝撃が襲います。
クラスの優等生の男子がなんの前触れもなく消えていました。
また、話題は酒と喫煙(この時20歳以上はいなかったはずです)が中心。
難関資格についても諦めのムードが漂っていました。
授業中の居眠り率、スマホゲーム率は上昇の一途を辿り、ノートをとることもバカバカしく思えてきました。
先生の頑張りに報いる程度に、授業は真面目に受けましたがクラスの状況はかなりひどかったです。

そんな時、3月に予定されている試験の会場が東京ということを知り、クラスの細く繋がっていた糸が切れました。
コロナの感染拡大もあったし、東京まで行くのに公共交通機関では4時間以上かかり、正直行く気が起こりませんでした。

この頃でしょうか。
私の体調がおかしくなったのは、体調不良の影響で難関資格を諦めざるを得ない状況になり、モチベーションも期待も、全てが消え失せてしまったのです。

それから、週1回程の登校しか出来なくなり、2年になってから学校に行けたのはわずか3回。しかも、運悪く午前授業の日の午後に言ってしまい、先生と2人授業の復習をする程度でした。

もっと思い出を作りたかった。愉快な仲間たちと卒業までいたかった。そう思いながら、夏休み明けのタイミングで、欠席日数が100日を超える前に、自主退学をしました。
これが、私にとっても、クラスにとっても最後の衝撃であることを願います。

数人の友人の話では、今はマーケティングの授業をしているそうです。ほとんどの人が内定をもらい、あとは卒業を待つだけ、頑張って欲しいと思います。

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