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風を操り進む帆船 古代アラビア商人の船ダウでの航海で気が付いたこと① ~船長探し~

帆船ダウに乗る。
東アフリカ史の中で古代からヒッパロスの風と呼ばれる季節風を巧みに操り東アフリカからインドまでを約1か月半で航海していたと知ったときからその船で航海するのが「夢」だった

その船は一本の大きな帆でと船体でできている。大きさはものによってまちまち。正確には、ダウ船とは総称もしくは比較的大きさの小さいものを指し、比較的大きいものはマシュア船と呼ばれる。

かつてからインド洋という大海原をアラビア商人が貿易に使っていた船である。

タンザニア ダルエスサラームからザンジバルに行くフェリーに乗ったことがある人なら見たことあるだろう。
大きな帆のあるこの舟だ。

通りすがったダウ船

バガモヨからの出航に際して

タンザニアは南半球 緯度-6度に位置する国だ。
僕が出港したのは19世紀に奴隷貿易の港として用いられていたバガモヨから奴隷が売られるオマーン帝国の本拠地ザンジバルのストーンタウンまで。

その前日に奴隷貿易で使われていた宿舎を見ていた僕は気持ちは半ば当時の「奴隷」だった。

「奴隷たち」と同じ目線でこの地球の青さと美しさに感動し自分が売られていく運命に絶望しよう、そう思った。

「夢」がこれから叶う期待と「奴隷たち」が抱えていたであろう運命に対する絶望が心を入り混じらせていた。
そして、なにより「死ぬかもしれない」という恐怖が胸を大きく締め付けていた。

ダウに乗るまで

僕はダウに乗りたい。この約1,2年ずっと言い続けていた。
だが伝手もなく今使われているかもわからない船にましてやムズング(外国人)が乗るのは到底無謀だという自覚があった。
だが、運命は意外とすぐに解決された。

ドドマでのVillage Stayを終えともにダルにいく4人でバスに乗り向かった。
バスも乗り遅れかけたがマイケルのA-class licenseの活躍でしっかり間に合った。後でみたら朝10時発と思っていたが10時半発だったみたい。そこまで急ぐ必要はなかったらしい。

まあ、その分ドドマ名産のブドウが食べれたから御の字だ。

ひとまずダルから1時間のキバハに住んでいる生理用ナプキンをつくっている友達モアナの家に寄る。彼女のピンチで生産用のグルーがなかった時インドの工場までいってタンザニアにお急ぎ便で届けたからその話もあった。

もう5歳になったKeiちゃんが迎えてくれた。去年も会えたことを覚えてくれるのは本当にうれしい。ピラウをご馳走してくれてKaribuの歓迎のもてなしを受けた、椅子が足りなかったのでスーツケースを横向きにするとピッタリの高さでちょうどよかった。


左からKei、モアナ、ゆら、ヨハナ、やや、くるみ、さき

なぜアフリカは発展しないのか?
答えはSelfishと嫉妬だというディスカッションをかなり長くしていた。
だがそこに関しては、それは日本も同じ、要因のひとつではあるがそれが原因ではないと思う。

夜も更け、次の日、どうしようかダルに帰ろうか。
あんまりアテもないしなと思っていたら一緒にきていたゆらがバガモヨに行きたいと言い出す。モアナのところにインターンできていたさきちゃんも初めてのダラダラでの遠出だという。ヨハナも行くとのこと。

その時、ああこれは行ったら何か見つかる。
何か風が背中を押してきた気がした。
さらに、バガモヨからザンジバルにダウが出ており乗れるかもしれないとヨハナが言い出す。


バガモヨで船長を探す。
賭けてみる価値はあった。


奴隷たちが出港した街 バガモヨ

バガモヨは5年ぶり。2019年に一人できて以来で少し感慨深かった。
奴隷貿易の博物館、バオバブの木に着けられた鎖が木の成長とともに短くなっているのをハッキリと覚えていた。
何年かぶりに同じ場所を回った。

ヨハナは独特のセンスで必ず斜めに撮ってくる
教会
バオバブの木の成長とともに短くなっている鎖
1868年に設置され、1912年時5.44m縮み、2000年時12.50m縮んでいる

あの時は初めて知ったアラビアの痕跡だったが今回はアフリカ史もよく知っている、非常に興味深かった。
そして、バガモヨはよく言ってさびれた観光地のような観光地ではあるが下町感も残っている感じがして好きだった。

物価で言えば15,000Tsh(900円)の宿があるくらい。
僕の旅では15,000Tsh(900円)の宿があるのか20,000Tsh(1200円)の宿があるのかは大きな違いだった。

ガイドさんに英語で説明を受けながら博物館と教会、宿舎に行きビーチに夕方到着。この時には若干焦っていた。果たせて乗せてくれる舟は見つけられるんだろうか。

乗れない!船長を探さねば。

カメラの入っていて微妙に重いカバンを背負っているのでそんなに歩きたくはなかったが、ヨハナがなんとバガモヨビーチ沿いの大学に通っていたからその友達と会うと言い出す。それは行こう。ひたすら歩いた。

途中日が暮れてきていた夕焼けの写真を撮りながら、ヨハナに急かされながら砂浜を歩いた。
バガモヨはアフリカ大陸のインド洋に面した東海岸なので日の入りの太陽は見えないが夕焼けに揺れる波模様が見える。SHOGENさんの夕焼けの海の仲直りの話を思い出した。Bunju村は本当にまさにバガモヨのビーチの近くだった。


これはダウではなくヨット

道中いたるところにダウやマシュア船がある。
まだそんなに使っているんだということに乗れるかもしれないずっと期待は高まっていた。

ビーチをひたすら歩きようやく大学近くでヨハナの友達と会えた。
だが、まだ船長が見つかっていない。ヨハナはそんなに交渉してくれない。
自分で交渉しに行こうと決意しその近くにいた人に声をかけにいった。


再会したヨハナ

声をかけた人は明らかに麻薬に浸かっていた。
大麻だろうか何かしらの麻薬で明らかにやばかった。
だが、その人に聞くとダウに乗せてくれるという。
値段だけ聞きたかった。20,000Tsh(1200円)だと。
いや、それは安すぎる。あまりに危険すぎた。

そうこうするとヨハナからもあいつはやばいからと止めが入った。

そのあと、次に出会ったAnswari号の船長Sureが乗せてくれるという。
値段は100,000tsh(6,000円)、少し高いが安心できた。
ザンジバルに行く正規ルートのフェリーは35ドル(5200円)。
少し超えるがまあいい。

僕はザンジバルではなくその隣のペンバ島に行きたかった。
ザンジバルはすでに観光地化されているがペンバは農業をしている島、少しだけ電気の来てないエリアが残っているという。

だが、ペンバに行くにはとりあえずザンジバルに到着し支度しなおしてから出直さなければならない。というか、ザンジバルーペンバのダウは最近はあまりないらしい。


まあ、仕方ない。
神様の導きだ。くるみの待つザンジバルに行こう。


ピンチ!不法入島になるかもしれない

ところが、ここで一つ問題が浮上。
ザンジバルに入島するにはDocumentが必要。
たどり着いてもザンジバルに入れないかもしれない
暗雲が立ち込めた。

ザンジバル島はもともと本国タンガニーカとは別の国でイギリスからの植民地を独立した後1963年にタンガニーカとザンジバルを合わせてタンザニアと名付けられた。

現在も国としては一つだが政治機能は別にあり、国会も別で行われている。
何よりフェリー(正規ルート)でザンジバルに入る時はパスポートにスタンプを押されるらしい。
もう一度いうが国をまたぐわけではないからVISAが必要なわけではない、スタンプを押されるだけだ。

だが一応、違法入島ということになる。
それのために許可を求めるDocumentを作ると言っていた。
そして出発は2日後の夜9時。
荷物を乗せたら出発するから干潮の時に来いといっていた。
なぜ夜に航海?そしてどの船?
ヨハナたちはキバハに帰り一人になる。
いろんな不安が取り巻いていた。


死ぬかもしれない

風で航海をする嵐などがきたら死ぬかもしれないということ。
ザンジバルまでついて入島できるかわからないということ。
船長Sureがどこまで信用できるかわからないということ。
Sureは信用できそうだったがビーチにいた船乗りたちは麻薬にやられていた人たちもいた夜にここに立ち寄るのは若干の危険な匂いを感じた。
タンザニアはスワヒリ語も話せるし全面的に信頼していたがいつもの一人とはわけが違う。
ここは船乗りの世界。ここで一人になるのは若干の危険を感じずにはいられなかった。


俺死なないのか。


とりあえずいったん、バガモヨで宿を探そう。
Google Mapに載ってないような安宿に泊まりたい。
ガイドしてくれた人に電話して15,000Tsh(900円)の宿を手配してもらった。



さあ、2日後に出発。


いや、果たしてできるのか?


続く…


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