自分探し

よく自分の中で「そりゃ無謀だぜ」と諦めようとする節がある。大抵、そう思うのが間違いであることはなくて、明らかに諦めた方が良い事象が多いのは確かである。ただ、そう思うことは自分に何もなくて、取りに足らないからだとも思う。
要するに何が言いたいかと言うと、自分の在り方次第で、その事象に対する希望は生まれ得るのではないか、ということである。

情けないことに僕には全くもって、「自分」というものがない。それはいわゆる「自信」というものや「アイデンティティ」というものに通ずるものでもある。軸として、自分なりの感じ方、考え方、それを組み立てる物差しを確かに持っているはずなのに、それを裏付ける何かを持っていない。何か=自分、であることは決定的なのだが、では、その「自分」をどう裏付ければ良いか分からない。技術や自尊心なのであろうが、それは驚くほどに遠く、高い。手を伸ばしても届く気がしない。

優しくありたい。そう願ったって、伝わらなければ意味がない。自分以外の人間など所詮、全く別の型に流し込まれた魂なのだから、同じ優しさを同じほど感じてもらえるわけじゃない。しかも、問題なのが優しさを振り撒こうとする僕自身がそれを自覚してしまっているところである。優しさの真理を見たような気になっている僕の投げるソレなどただの独りよがりであろう。必死こいて投げつけた優しさは簡単に砕け散る。それを「自分」として据えることは到底できない。

知人は言う。
「俺にだって自信はないよ」と。「それでも俺の周りには人がいて、満たされている。君の周りにも人がいる」と。
そうだ。そうであろう。誰かを愛すことができるほどの力を持った君の言葉の説得力は素晴らしい。そして、そう妬む僕の周りにすら人はいる。
けれど、その人を信じることをできない自分がいて、どうしてもこれ以上頼っては依存に至る、と錯覚して距離を取ってしまう。これ以上そこの貴方に浸かるのが怖くてたまらない。切に信じたい、頼りたい、好きでいたい、と願っているのに。

とんでもなく女々しく、不甲斐ない想いをつらつら綴ってしまった。読み返しても、救いがなく、これを綴っている今この段階ですら解決策は見つからない。ただ、ひとつ言えることは、人に優しさをかけられる自分でいるべきだ、ということだけだ。
どれだけ、自分を失いそうで、儚く、例え喪失感に苛まれたとしても、そこに残る人たちだけは大切にしよう、と思える。身を粉にして、守るべき人たちが僕にはいる。信じてもらえなくても、本当のところで僕が信じれていないとしても。僕にはたったひとつだけ見えた光がある。

一筋の光が。

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