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『桃太郎』芥川龍之介 「暇つぶしに最適」と、片手間に

このnoteは、本の内容をまだその本を読んでない人に対してカッコよく語っている設定で書いています。なのでこの文章のままあなたも、お友達、後輩、恋人に語れます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。

『桃太郎』芥川龍之介

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【芥川龍之介を語る上でのポイント】

①『芥川』と呼ぶ

②芥川賞と直木賞の違いを語る

③完璧な文章だと賞賛する

の3点です。

①に関して、どの分野でも通の人は名称を省略して呼びます。文学でもしかり。「芥川」と呼び捨てで語ることで、文学青年感1割り増しです。

②に関しては、芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学に贈られる賞です。それ以上は僕もよくわかりません。調べてください。

③に関しては、芥川はその性格上完璧を求めるが故に短編が多いです。僕個人短くて凝ってる文章が好きなので、まさに芥川の文章は僕の理想です。


○以下会話

■手軽に楽しめる文学

 「暇つぶしに丁度良い小説か。そうだな、そしたら芥川龍之介の『桃太郎』がオススメかな。この『桃太郎』は、みんなが知ってる昔話の桃太郎を、芥川龍之介のエッセンスを入れて再構築した小説なんだ。正直めちゃくちゃ面白い訳ではないんだけど、3分くらいで読めるし、誰もが知ってる桃太郎を違った視点で見れるから、ちょっとした暇つぶしには最適なんだよ。

ストーリーは、昔話の桃太郎と一緒。桃から生まれた桃太郎が犬猿キジと共に鬼退治をし財宝をとってくる。ここに芥川は「人間のエゴ」というエッセンスを付け足すんだ。

■人間のリアルな部分を描く

そもそも芥川は、「新現実主義」という思想を持つ作家なんだ。新現実主義は「現実をリアルに描こう」という風潮。この新現実主義は、「白樺派」という空想的な理想の世界を描く風潮に対抗して作られたものなんだ。誤解を恐れず言ったら、白樺派は脳内お花畑な人、新現実主義は現実主義な人のイメージ。

新現実主義を代表する芥川は、人間のエゴとか醜さの描写を評価されたんだ。例えば、理想が叶うと急に冷めてしまう『芋粥』とか、人の幸福を妬み不幸を笑う『鼻』なんかは、まさに人間のリアルな部分を描いた傑作だよね。

そんな芥川は『桃太郎』にも人間のエゴを加えていくんだよ。

例えば、桃太郎が鬼退治に行く理由。これを

お爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだった

と書いているんだ。

お爺さんとお婆さんが山に芝刈り、川に洗濯に行ってるということは、この世界には「労働」という概念がある。つまり桃太郎も成長したら働かなければいけない。働きたくないなって思っていた時、どこからか「鬼ヶ島に金銀財宝がある」という噂を聞いて、鬼退治を思いついたっていう論法なんだ。

他にも、少ないきび団子をケチって、犬猿キジに一個ではなく半分ずつきび団子をあげたり、犬猿キジが動物として喧嘩したりするんだ。そして最後には親を退治された鬼の子供が成長して復讐しにくるんだよ。こんな感じで桃太郎という童話にリアルさを付け足して描いているんだ。

でも、確かに芥川の文章は無駄がなくて綺麗なんだけど、正直この程度のアレンジだと、令和の時代、あまり真新しさがないんだよね。なんかどこかで見たように感じるんだよ。

■冒頭と締めのカッコよさ

僕が芥川の『桃太郎』で面白いなって思った部分は、冒頭の書き出しと最後の締めの部分なんだ。芥川の『桃太郎』はこんな書き出しから始まるんだ。

 むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地の底の黄泉の国にさえ及んでいた。<中略>実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核のあるところに美しい赤児を一人ずつ、おのずから孕んでいたことである。

壮大でカッコいいよね。ファイナルファンタジーとかのグラフィックが綺麗なゲームの冒頭シーンみたい。

そして、桃太郎が鬼を退治してなんやかんやあって、最後の締めは、

 人間の知らない山の奥に雲霧を破った桃の木は今日もなお昔のように、累々と無数の実をつけている。勿論桃太郎を孕んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。<中略>ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。……

と書いてあるんだ。

おじいさんとおばあさんを登場させるのではなく、桃の木から始まって桃の木で終わることで、「桃太郎」という一つの話がさらに他の童話とリンクする広がりを感じられるんだ。

■「桃の木」が主人公

童話の桃太郎は「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました。」から始まって、「川で洗濯していると、どんぶらこどんぶらこ、と大きな桃が流れてきました」って桃が登場するよね。

つまり童話の桃太郎は、まず二人の老人が主役として存在して、そこに桃が流れてきたっていう構成なんだ。これがドキュメンタリー映画だと仮定すると、二人の老人にカメラが密着していて、そこに突然桃がやってきた。という状態。

そして、最後は「おじいさんとおばあさんと桃太郎の3人は、幸せに暮らしました」って終わっていくよね。つまり、カメラは3人が幸せに暮らす姿を撮って終わるんだ。

一方、芥川の『桃太郎』は、大きな桃の木があるところから始まっているよね。はじめに桃の木ありきで、偶然、お爺さんとお婆さんのところに赤子を孕んだ桃が落ちたという流れなんだ。つまり、撮影クルーが桃の木を撮っていたら、桃が落ちて、その桃を追ったら二人の老人に拾われた。という状態なんだ。

そして最後は、「大きな桃の木は、尚も赤子を孕んだ桃の実をたくさんつけている。桃の中の赤子は何も知らず眠っている」と終わっているよね。つまり、お爺さんとお婆さんと桃太郎の3人の密着から離れて、元々の桃の木に戻って、赤子を孕んだ大きな桃を映して終わっているんだよ。

桃の木から始まって、桃の木で終わることで、読者はおとぎばなしの世界観の広がりを感じられるんだ。

■定点観察ドキュメンタリー番組のような『桃太郎』

NHKの「ドキュメント72時間」っていうドキュメンタリー番組知ってる?「人々が行き交う街角で、3日間。同じ時代にたまたま居あわせた私たち。みんな、どんな事情を抱え、どこへ行く?」という設定で、自動車教習所とかパチンコ屋さんとかネイルサロンとか、一つの場所で3日間(72時間)取材をして、そこで見られる人間模様を定点観察する番組なんだ。

ドキュメンタリー番組は、特定の人に密着するものが多いけど、「ドキュメント72時間」は、一つの場所を取材してそこに訪れる人を観察するんだよ。例えばネイルサロンだったら、夜の街で働く女性が派手にネイルしたり、孫に連れられて初めてネイルをするおばあちゃんが来たり、ネイルに勇気をもらう性同一性障害の人が来たりするんだ。一つの場所を定点で観察すると、色んなドラマをもった人がそこに訪れるんだよ。

芥川の『桃太郎』は「ドキュメント72時間」に近い物を感じるんだよね。人間ではなくて、桃の木という植物を主役にして観察して、その桃の木を巡る人間模様を観察している感じ。今回はたまたまお爺さんとお婆さんに拾われて桃太郎として鬼退治にいったけど、次の桃は女の子で王子様と結婚するかもしれないし、双子でただ貧しく暮らすかもしれないし、誰にも拾われないかもしれない。

どんな結果になっても、そこには「物語」が存在して、カメラの画角から外れてもその「物語」は続いていくっていう雰囲気を、芥川の『桃太郎』から受け取れるんだ。そこが芥川の『桃太郎』の面白いところだと思う。

とりあえず、短い小説ですぐ読めちゃうから、何かの合間時間にさらっと読んでみて。」


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