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自然への回帰。
もうだいぶ前のことになるけれど、大学では生活環境系の学科を専攻した。
そのころからすでに、生活する、ということに興味を持っていた。
ぼうっとしているときには、日々当たり前のようにある、全てのものが、誰かがどうにかして作ったものであるということに、少し恐怖を感じていた。そして畏敬の念がそこにはあった。どうやって作るかも全く想像のつかないものの数々に。
コップ一つとっても、材料も作り方も検討がつかない。無骨な焼き物であれば、土をこねて焼いてるのかなと思えても、自分では作れる自信はない。毎日着ている服は、まず糸や生地はどこから何からどうやって作られているのか疑問。家の建材も電球もガスも水も、スマホもネットもテレビも車も、何もかもが、どう作られているのかよくわからないものなのである。
そんな世間知らず状態だったので、鯵の開きはアジノヒラキという名前の魚で、開かれた形で泳いでると思っていたりもした、えいみたいに。点と点が繋がらない。考えることを放棄していたのである。今の子が、切り身で泳いでると思うらしいと笑い話があるが、まったく笑えない。
誰かが作ってくれたものを、お金で買う。
それで全て成り立ってきた。
労働は機械に任せる。掃除は掃除機がする。洗濯は洗濯機がする。機械が作った材料でつくられた大きな建物に住む。
そうやって生きてきた。
子どもを産み、人間というよりは動物のような赤子と接して、ようやく気がつき始めた。
生活は、身の回りを整えること。
生活は、自分の頭で考え手を動かすこと。
生活は、自分自身だということ。
生活は、人と人との関わりであるということ。
生活は、その字の通り、生きて活動することである。
仮想空間でビジネスをして、他は全てお金でアウトソーシングする。それも、たしかに生活かもしれない。
でも、工場で作られた食べ物はまるで餌だし、見えない相手とオンラインのみでやりとりするのは人との関わりとは違う気がするし、お金はただの数字データになりつつあるし、違和感を大切にしたくなってきた。
手を動かし、自然の恵みを感じ、作れるものは自ら作って、不要なものは手放して、人と会話し議論し笑い合って、そんな生き方をしたいと、それが自分にとって心地いい生活なのだと、ようやくわかってきた今日この頃である。
食べているもので、身体も思考もつくられる。
自然からあまりに離れると、不自然になる。
でも、素晴らしい技術を享受するのもやっぱり好き。
なので、ありがたく現代技術の恩恵を受けつつ、バランスをとって、自然へ少し回帰していきたいと、日々の暮らしを少しづつ見直し中です。
サラダでした。
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