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【小説】Silver Rhinoceros 

尚は趣味のカフェ巡りの帰り道にコンビニに立ち寄った。店から出ようとすると目の前に立ち塞がる大男。その場を何とか切り抜けたが、後日再び大男と出会ってしまう。そこから狂い出す歯車、尚の運命やいかに。
11783字



金曜日。それは誰もが待ち望む曜日。この日が毎週楽しみで仕方ない、と思う人間は少なからずいるだろう。

「~っと、言うわけで今日はここまでにします。来週ここの続きからするから。課題は今日の感想をオンライで提出してくださーい」

教員の合図で、金曜の二限目が終わった。この大学に通う『蜂須賀はちすか 尚なお』は今この瞬間を、とりわけ待ち望んでいた。

大学の最大の特徴でもある、自身で授業を自由に組む事。同じ授業を受けていても、人によって一週間の予定は違う。

翌日の土曜日は休日。そのため、一週間の疲れを癒すために尚は、金曜日の午後は何一つ授業を入れていない。

片道二時間かけて登校する毎日。それを癒す至福の時間。そのために生きているのかもしれない。

癒しの対象は、人それぞれ違う。尚の場合は趣味のカフェ巡りだ。

しかし、尚の住む地域にはそんなものはなく、大学がある地域やその周囲にのみ限定し、自分の好みのカフェを見つける。そこで軽い食事をし                         帰宅する。

カフェと言えば、友人と一緒に行くイメージが強い。しかし、尚は大学に入ってからは親しい友人を作ろうとはしなかった。一人でいることは、苦痛ではない。

さっきまで、机の上に出していたノートや筆箱を鞄の中に入れ教室を後にする。

外に出たら、目の前には大きな水溜まりがあった。湿度も高く、蒸し暑い。

今は梅雨。そして、今日は生憎の雨だ。

尚は鞄の中から、折り畳み傘を取り出した。朝の天気予報には夕方から雨と言っていたのだが、そうはならなかったようだ。

幸いにも鞄の中身は少なく、濡れることは無いだろう。

大学から駅までは、さほど遠くない。雨が激しくなる前に移動するべきだ。

駅までの道は舗装されており綺麗なのだが、脇にはこの雨でできた水溜まりが多くあった。

靴が濡れないように、水溜まりの近くは慎重に歩いてしまう。

程なくして、駅に着いた。駅のホームに人影は少なかった。きっと、午後から授業を受ける者が多いのだろう。

尚はこの駅から、直通で帰れる訳分けではない。途中で電車を乗り変えて、自身の最寄り駅に向かう。

電光掲示板によると、どうやら次の電車は十分後のようだ。その数分すら待ち遠しい。この憂鬱からはやく解放されたい。


電車は時刻表通りにやってきた。その正確さには毎度驚かされる。

《まもなく、~駅~駅、お出口は右側です。開くドアにご注意記ださい。》

駅員による車両内のアナウンスで、乗り換えの駅だとゆうことがすぐに分かった。

運良く座れていたので、膝に乗せていたカバンを肩にかけ扉の前に移動する。

いつもなら、ここからすぐに最寄駅に止まる電車に乗るのだが、今日は違う。

昼食も兼ねて、午後の優雅な時間をカフェで過ごす。顔には出さないが、尚にとってこの時間が何よりの幸せなのだ。

この駅の近くには、尚のお気に入りのカフェが多くある。今日はその中でもスイーツが自慢のカフェに向かう。しかし、ホームを出ても雨は止んでいない。傘は手が塞がってしまうので面倒だが仕方ない。

しかし何故だろうか、カフェに向かう道のりは、こんな憂鬱な日でさえも吹き飛ばせるような、何だか不思議な力があるのかもしれない。


海外風のカフェ。外装は明るい配色で目を引くデザインになっている。しかし、中に入って見れば一変してレトロな雰囲気。ドリップ仕立てのコーヒーの独特の匂いが、店内に広がっている。この匂いを嗅いだだけで、早くも幸せな気持ちになってしまう。

「いらっしゃいませ、一名様でよろしいでしょうか?」

「はい」

「カウンター席にご案内となりますが、よろしいでしょうか?」

「はい、大丈夫です」

「では、ご案内いたします」

店内にはテーブル席の他に、ドリップをするマスターを見ながらコーヒーを楽しむことができるカウンター席と、道路に面した大きな窓から外の景色を見ることができるカウンター席の二つがある。店員が案内したのは、窓側のカウンター席。生憎の天気だが、そんな景色も窓越しならまた風情があって良いものだ。

「ご注文をお伺いします」

「えっと、Aセットのオムライス、飲み物はホットミルク。デザートはシフォンケーキで」

「かしこまりました、デザートは後からでよろしいでしょうか」

「はい、お願いします」

Aセットの内容はメイン料理とドリンク、デザートがセットになっている。それぞれ好きなものが選べて、九百円なのだから大したものだ。値段が安いからといって、味が良くないわけではない。食べごたてがあり、若者から老人にまで愛されている。

「お待たせいたしました、Aセットのオムライスとホットミルクになります」

「ありがとうございます」

皿の上に丁寧に盛り付けたオムライス。そこから出る湯気は熱いのに、匂いをのせてくるものだから、それがまた食欲をそそる。

「いただきます」

______

「ありがとうございました」

その身に感じるのは、満足感と幸福感。店を後にするのは名残惜しいが、仕方ない。

店を出てみると、先ほどまで降っていた雨は止んだようだ。空を覆う厚い雲の間から光が差し込んでいる。何か良いことが起こる予兆なのかもしれない。

「まだ時間あるし、コンビニでおやつ買って帰ろ」

左手首につけた腕時計。針がさす時間は十三時。十四時にまでに電車に乗れば、いつもより早く帰れる。

先ほどまでいた、カフェからコンビニまでは歩いて五分もかからない。自身の好物を買うもよし、新作を試してみるもよし、尚はその短な道で何を買おうか悩んでいた。

「いらっしゃいませー」

店内に入るとおそらく大学生のアルバイト店員が、元気よく挨拶をしてくれた。尚は今までアルバイトをした事がないため、実際どれほど大変なのかは分からないが、自分よりできた人間であることは確かだ。そんな事を思いながら、足早にお菓子コーナーに向かう。新作は夏を先取りしたものが目立つ。しかし、自分好みのものはなかった。そのため、いつも買っているじゃがりこサラダ味とお~いお茶を手に取り、レジに向かう。

「レジ袋はどうなさいますか?」

「結構です」

「三百五十二円になります」

「これで」

店員はおそらくマニュアル通りに応答をしている。店員と客は、その程度の関係なのだろう。尚は気さくな方が、自分も気楽でいられるのでありがたい。

「さて、帰りますか」

先ほど買った物を鞄の中に入れ、鞄を肩にかけ直す。お気に入りのカフェにもよって、好きなお菓子も買って。今日の出来事を糧に、来週からの学校生活を頑張ろうと思い店の外に足を向けた。

「ありがとうございましたー」

店員の声を背に、店の外に足を踏み入れようとした。しかし、それが目に入り足が止まる。

尚は、足元を見て歩いていたが、それは下を見ていても分かるものだった。人の影だ。そう思って頭を上げようとしたが、勢いのままに上げてしまうのはどうなのだろうか。一度、周囲の状況を理解しなくてはいけない。姿勢の関係上、長くはいられない。今の状況は、自分の目の前に人がいる。太陽の関係で、その影が自分より遥かに大きいものになっている。影から想像するに、男性。その上がたいが良く、身長も大きい。どうするべきか。あっち系の人間かもしれない。もしそうなら、どうしたものか。何はともあれ、顔を上げなければ意味がない。覚悟を決め恐る恐るその人を見た。

「……ひえっ」

「……」

大きい。

初めはその言葉しか出てこなかった。思っていた通り、がたいの良い人。想定外だったのは、褐色肌。日焼けなのか、元々の色かは分からないが見た目と相まって一層怖さが増しているような気もする。

「……あの」

「……」

喋れない、喋ってくれない。この状況をどう打開するべきか。

ぐぅ、とやや大きめの腹の虫が鳴る。

音を聞いて思わず笑いそうになる。しかし、上がろうとする口角を必死に抑える。こんな状況で笑ってしまえばこの後、どうなるか分かったものではない。

それはともかく、お腹が空いているのは分かった。しかし、お金がなくて買えないのか、たまたまここに立ち止まってしまったのか分からない。聞くか。いや、口下手の尚にはそんな事はできない。

「あの、今、退きますので……」

これが尚にとって精一杯だった。しかし、相手がなにを考えているか分からない今、この言葉が最適なのかもしれない。

ぐぅ、と先ほどより大きな音で腹の虫が鳴る。

男性は一歩も動かない。つまり、お金が無くて買えないということか。さて、状況は分かった。ここで放って置くこと可能だが、大衆の目線が気になる。そちらに目線をやらずとも分かる、重々しく鋭い空気。周囲の状況がピリつき始めたのが分かる。この人に何かを与えてもいいのだろうか。仮に与えた場合のデメリットは自分のお金が若干減ること。逆に与えなかった場合のデミリットは大衆の非難に似た視線、店への間接的な営業妨害もどき。決断は明白、圧倒的前者。自分の数百円で店への間接的妨害を防げるのであれば安いものだ。そうと決まれば、コンビニに向かって足を走らせる。買うものは既に決まっているので、効率的に店内を移動する。先ほどと同じ店員のレジに向かう。

「あの、大丈夫ですか。警察呼びましょうか…」

「いえ、あの人お腹空いてるだけなので…これを渡せば大丈夫かと」

「何かあればすぐ、店内に逃げてきてください。電話の準備はしておきますので」

「ははは、ありがとうございます」

レジ袋を受け取り颯爽と元の場所に向かう。

「あっのっ!」

「……」

その巨体から、目線だけがこちらに向けられる。相変わらずの怖さだ。

「これ、あげるんで、店に迷惑なんで、じゃ!」

「……」

尚はこの場所から逃げたい一心で、足を動かし駅に向かう。こんな体験をしたのは初めてだった。そもそも、こんなものは一生に一度きりにして欲しい。駅のホームに着く頃には、歩いたからなのか汗をかいていた。多少息も上がっているようにも思える。しかし、さっきのは一体何だったのだろうか。新手の業務妨害なのか。しかし、本当になんだったのだろうか。


次の週の金曜日、先週と同じ道を歩く。同じ店に入り、同じものを注文をし、同じコンビニに向かう。今回は、新作商品にチョコミント味の袋菓子が多く陳列していた。ポッキーやキットカット、どれも美味しそうではある。が、今回はブラックサンダーを購入する。それと、定番のお~いお茶。緑茶だけは欠かせない。尚は、あの苦味がくせになってしまっている。

「三百二十二円になります」

「これで」

「ありがとうございました」

今日の店員は先週の人とは違っていた。先週の出来事は店内で共有されているのだろうか。されていると良いのだが。

今日は先週とは打って変わって、快晴。今日は気分良く自宅に帰れそうだ。店を出て、駅に向かって足を動かした。しかし、数分で違和感に気づく。背中から妙に鋭い視線を向けられている。このまま駅に向かって良いものか、尚はこういったアクシデントに対しての対応が苦手で、その場では咄嗟に判断しようとすると、頭が真っ白になって逆に何もできなくなる。

一旦自分を落ち着かせるために、どこか周囲の目が届き障害物が少ない場所に。

歩きながら考えた結果、駅近くの小さな公園に行くことになった。そこは、平日の昼間でもある程度の人がいる。そこしかない。


公園につき、ベンチに座る。今だに視線がある。一体だ誰が自分の後をつけてきたのだろうか。そう考えていた時、ベンチがギシと音を立てた。隣に誰かが座った。しかも、至近距離で。

尚は焦っていた。恐怖心もあったが、隣に誰が座っているのか分からない今、どう行動するべきか。しかし、尚はある事に気づいた。この感じ先週と一緒のパターンだと。尚の体勢は座って前屈みになり、地面を観ている。隣の人が誰かは分からない。何故だろう、この既視感。

さて、どうしたものか。まず鞄からスマホを取り出す。隣の人に見えないように、とある場所に電話をかける。

「もしもし、あの、はい、付き纏いで……。えっと、隣にいます。え、はい。落ち着いています。はい、場所は……」

数十分後、公園に警察官がやってきた。尚は婦警が付き添って、一旦パトカーの中に移動する。

「ここからなら、顔を確認できるから一様確認してみて。知ってる人かな?それとも知らない人かな?それ以外の事でも、何でも良いから話してもらえるかな?」

「はい、えっと……」

パトカーの中から、隣に座っていた人探して見る。先ほどの場所から少し離れてはいるが、すぐに見つかった。そちらに視線をやった時、ちょうどその人が立ち上がった。警察官に取り囲まれてはいるものの、一人だけ頭一つ抜けている。落ち着いて相手を見たが、体格のみで判断すれば先週の男性とよく似ていた。しかし、あの時は恐怖心があったため顔はよく覚えていない。尚は先週のことを含めて話した。そして、全く知らない人と言うことはしっかりと強調して。

「そうなると、彼自身の持ち物を調べないといけないのか……。ありがとね、話してくれて」

「っ、は、はい」

尚が話した後、婦警は外にいる警官達に無線で何かを伝えていた。尚は先週の男性だった場合、自分のやった事が咎められるのでは無いかと心配していた。あの時の行動は自分の中では最適だと思っていたが、今思い返して見るとどうなのだろうか。

「…はい、保健証と免許がある。はい、薬師丸やくしまるはやと?…薬師丸ですか!?……はい、署まで、ですね」

「えっ…署って」

「ごめんね、一緒についてきてもらえるかな。詳しく事情も聞きたいし」


「どうしようか、これ」

「一旦、財布の中にあった弟さんの番号には連絡したんですけど、すごく慌ててましたね。でも、慣れてそうでもありました。」

「ありがとう。でも、これがな……」

「離れませんね」

警察署につき、尚は薬師丸とは別の部屋に通された。しかし、薬師丸が尚の後をついて行こうとした。それを見た警察官たちは慌てて二人を離したが、それでも尚について行こうとする。

どうしたものかと考えた結果、薬師丸と警官は手錠で繋いだ状態で、尚、薬師丸、警官の順で長椅子に座った。

「えっと、とりあえず、名前と年齢、住所は大体でいいよ。親御さんにもした方がいいかな?」

「えっと、名前は蜂須賀尚で、年齢は二十歳です。そっ、それから…」

尚が警官話している間、薬師丸は無言だった。暴れる様子もなくただじっと、尚の隣に座っていた。

「ありがとね、蜂須賀さん。じゃあ、僕は親御さんに連絡してくるから」

「はい……」

警官は尚のもとを離れ、署の奥に歩いて行った。二十歳にもなって親に連絡されるのは、恥ずかしいものだ。尚は警官や婦警の丁寧な対応で落ち着きを取り戻したのか、冷静に今の状況を整理してみる。にしても、何故あの婦警が驚いていたのだろうか。薬師丸という苗字は珍しい気がするが、それだけでは無いはず。あの驚き方は、薬師丸が著名人であるかのような驚き方だった。

「すっ、すみません!兄が、ご迷惑をおかけしました」

当然、署の扉がバンと勢いよく開いた。その音で尚は、ビクッと体が跳ねた。音のした方に警官を含めた数人が目線を向けた。そこに立っていたのは、美形の青年だった。

「あ、いた、兄さん!また家出して、何やってんの!会社に迷惑かけないでよ、大変なんだよ!家出する時はさ、家出しますってメモぐらい置いといてよ!急にいなくなったから、探したんだよ!」

「……すまん」

青年は尚の隣の薬師丸に対して兄と呼び、心配と怒りの言葉を投げかけた。しかし、尚も含め周囲の人間はそれ以前に、この一件が薬師丸兄の家出、だということに驚いていた。

「えっと、君は……」

「あ、すみません、えっと、薬師丸やくしまる颯はやとの弟、薬師丸やくしまる大河たいがです。この度は、兄がご迷惑をおかけしました!」

「あ、はい、うん。本人と確認できる、免許とかあるかな?」

尚は大河と警官のテンポの良さに、脳が追いついて行かず固まってしまった。大河と対応している警官はおそらくこの中で唯一、今の状況を全て理解しているのだろう。

「うん、確認できたので返しますね、ご協力ありがとうございます」

この数分の間に、沢山の情報が出され尚の頭はパンク寸前だった。尚の視線は天を仰いでいたが、大河と目が合ってしまった。

「ねえ、君だよね?」

「ふぇっ、な、何のですか」

突然話しかけられたせいか、声が裏返ってしまう。その上、まるで加害者のような反応をしてしまった。尚は焦りと恥ずかしさから、額から汗が止まらない。

「警官さんからある程度の話は聞いてるよ、兄さんにコンビニで買ったものくれたんだよね?ありがとね。兄さん、家出する時たまにお金持たない時があって……今回がそのパターンで……本当にごめんなさい」

尚の前に来て、目線を合わせるように少し屈んで話しかけた。

「あ、いえ、実質的な被害はお金だけなので……大丈夫ですよ」

「でも、兄さんに付き纏われたんでしょ?」

「あ、えっと……はい、それもあります」

大河の性格なのか話し方がそうさせるのか、嘘をつく事ができなかった。

「さてと、兄さん帰るよ、えっと…」

「蜂須賀尚です」

「蜂須賀さん、この度はご迷惑をおかけしました。ほら、兄さんも」

「…お礼してない」

颯の口から出た言葉は、大河を除いた全員がまた固まってしまった。

「そうじゃん!兄さんの事でいっぱいだったから忘れてた!ありがとう、兄さん!」

大河は目を輝かせていた。しかし、未だ理解ができず他の皆は固まっていた。尚に至っては、五感から入る情報量の多さに硬直し、考えることをやめてしまった。ただただ、上の空。何せ、警察署についてから尚の周辺で怒涛の速さで話が進んでいる。自分は蚊帳の外で。

「蜂須賀さん、お礼を含めて親御さんに話がしたいので…家まで送りたいのですが、どうでしょうか?」

大河の提案に尚は、ようやく脳が働き始めた。

「いえ、結構です。電車乗って帰らなくちゃいけないので」

「大丈夫ですよ!車は用意しますし、何なら警官さんにご協力頂いて!」

「最寄り駅から、自分の車乗るので…!」

尚は後々の面倒さを考えて、今ここでこの二人とは関係を断ちたいと思っている。親に迷惑がかかるだけでなく自分のメンタル面にまで影響が出そうと判断したからだ。にしても、大河は謙虚すぎる気もする。

「どうしよ、でも、うーん…」

「大河、俺たちも電車に乗ればいいだろ」

「それが、できれば良いけど…兄さんの服がなぁー…」

未だ、尚の隣に座ったままの颯を見て大河は少し考え込んだ。なんせ、颯は家出をしていた身。最低でも、一週間ほど同じ服を着ている。そんな状態で公共機関を利用するのは、気がひけるのであろう。

「服…ああ、そうか。なら、この近くで買えばいい。大河、行くぞ」

「ちょっ、兄さん、その前に手錠!」

颯は椅子から立ち上がり警察署から出ようとするが、手首に警官と手錠をしている事を忘れていた。そのせいで、警官の方が力が強く、颯は手首が固定されたままそちらに引っ張って背中がのけ反りドン大きな音をたてて尻餅をついた。

「……すみません、手錠を外してください」

「あはは、薬師丸さん、慌てすぎですよ。でも、何かあっては困るので私服の警官を同行させても構いませんか?」

「はい、お願いします」

警官はこの状態に慣れているのか、対応も完璧だった。


「はい、大丈夫です。薬師丸さん、今後は家出する回数を減らして徐々に慣れていってくださいね。なるべく、僕達のお世話にならないでください。それから、蜂須賀さん、最寄り駅の近くに交番があったのでそちらに連絡を入れておいたので、そこまではここの私服警官が同行しますので、ご協力お願いします。」

「は、はい、ありがとうございます」

「じゃ、蜂須さん行きましょう!」

颯と大河の買い物は30分も経たないうちに終わった。確かに警察署から服屋まではそれほど遠くは無いが、にしても速すぎるのでは無いだろうか。

警官たちは、尚たちの背を見送っていた。

「騒がしかったですね、先輩」

「まあ、薬師丸だからな……初めてではあったがこんな方だったとは……」

「結局、薬師丸ってどんな方なんですか?先輩」

「お前……。視野が狭いぞ、もっと観察しなさい」

「ええ、何ですかそれ」


電車内での席順は、大河、尚、颯、私服警官の順番だった。颯は尚の隣に何の躊躇もなく座ったため、このような席順になった。そして、尚は電車内でこれまでの情報を整理した。本来であれば、この電車には一人で乗るはずだ。しかし、今は自分を含めて四人も乗っている。何故こうなった。

「あの、えっと、たいがさん、でしたっけ……」

「はい、大河です、どうしました?」

「あの、どこまで、着いてくるんですか……?」

「え、蜂須賀さんの、家までですよ?」

その言葉を聞いた途端、尚はまた固まってしまった。きっと最寄り駅までなのだろう、と思っていたからである。家まで来るとなると、親がいる。父親は自営業で基本自宅にいる。母親はその手伝い。そこにこの二人が、家に来るのだ。その後の展開が、尚には簡単に想像できた。


「た、ただいま……」

「おかえりー。あら、お客さん?」

「はじめまして、薬師丸大河です。兄が尚さんに助けてもらったので、お礼をしに来ました」

尚の顔は、大河や颯が喋るたびに悪くなっていく。家に帰ってきたはずなのに、まるでここが自分の家ではないかのように思えて仕方がない。

「……なるほど、そんなことが」

「それから、兄をここに置いて頂けないでしょうか?数ヶ月だけで構いません、その間に発生したお金はこちらで負担します。家や会社にいたら、また家出しそうで…何より兄さんが尚さんに懐いていますし」

「なるほどね、うーん……おとうさーん」

尚はこの場から逃げたかった。話の最中は基本蚊帳の外、自分が話題の中心核のはずなのに何故だろう。話は交番で終わったはずなのに、自分とは縁が切れたはずなのに、なぜ薬師丸兄弟はこんな提案をしているのだろうか。

「客間は空いてるからいいんじゃないか?」

「本当ですか!ありがとうございます」


そこから時間の流れは速かった。この数ヶ月で、尚、颯、大河で出かける事が数十回あった。服を買い、髪を切り、食料を買い……。

尚が連れ出された理由は分からなかった。大河の「行くよ!」の一言で連れ出されるのだ。土日は課題を終わらせたいのに、買い物に付き合わされる。そのため、今までも寝不足気味だったが、今回で睡眠時間が三分の二になってしまった。喉から手が出る、ではなく魂が出てきそうなほど疲労が溜まっていった。

しかし、人は無意識にその環境に適応しようとする。これほどまでに疲れているのに、いつのまにかそれが当たり前のようにないた。

その頃には、颯の家出癖はなくなっていた。

「颯さん、そこの皿ください」

「これか?」

「ありがとうございます」

尚も颯がいる生活は、自分においての悪影響がないため共に深く関わらないようにしている。

「おはようございます、朝のニュースのお時間です」

「先日発売の週刊雑誌にて薬師丸製薬の社長、薬師丸颯さんの熱愛報道が掲載されていました」

「は、え、はや、はあ?ああ?え?」

テレビ番組からの突然の爆弾発言によって、朝ご飯に食べていたものを吹きそうになる。よりにもよって、尚が大学に登校しなければならない日にこの発言。しかも、その番組はエリア放送だった。つまり、この報道は周囲の人間に見られていることになる。こんな美味しい報道を、他の週刊雑誌やテレビ局記者は黙っていないだろう。


「すみません、薬師丸さんにつてどう思われますか!」

「薬師丸さんのお相手さんですよね、一言お願いします!」

大学に登校してみれば、たちまち取材陣に取り囲まれた。勘弁してくれ。尚の本分は学業。こんなことを起こせば学校側から何を言われるか分かったものではない。

「そみません、どいてください」

「一言だけでもお願いします!」

「……なぜですか、答えなくてもいいですよね?それに、私も勿論ですが、学校にも迷惑かけないでください。モラルを守ってください」

記者達が尚の発言に、一瞬だが動きが止まった。その隙に大学の敷地内に入る。敷地内に入ればこちらのもの。たとえ、記者達でも入ればお縄になる可能性が高い。

人の不幸は蜜の味なのだろう、よく言ったものだ。しかし、日常生活や学生生活に支障が出てはいけない。何とか対処を考えなければならない。

「うーん、大河さんに相談してみるか」

尚は鞄からスマホを取り出し、文字を打ち始めた。


その週の金曜日、尚のお気に入りのカフェに大河と二人で相談していた。

「困ったな、スキャンダルの記事が想像以上に広まってるな」

「私だけでなく、お二人にも影響が……」

「僕たちのことは気にしないで、こう言ったのは経験あるから」

今後の対策は、慎重に行わなければならない。尚は成人済みだ。とはいえ、大学生という肩書きが存在する。学生である以上、尚だけでなく親、学校、に影響が及ぶかもしれない。

「とりあえず、兄さんとも連携しないとね。電話してみよっか」

「え、大丈夫なんですか……?社長さんなんですよね……?」

「多分大丈夫だよ、えーと」

大河は器用にスマホに画面を操作しスマホを耳にあてた。その後、プルルルと微かに音が聞こえた。

「あ、兄さん少しだけいいかな……は?え、そんなことないでしょ!今目の前にいるから!兄さん!……切れた」

先程まで穏やかに話していたはずの大河が、急に焦り出した。

「あの、何かあったんですか」

「ねえ、尚ちゃん、彼氏いる」

「いません」

尚は大河の質問に食いつくように答えた。しかし、話の内容が見えてこない。分かることは、颯の周りで何かが起こっているということだけ。大河は電話をしていたスマホを耳から離し、画面を操作し始めた。

「大河さん、どうしたんですか?」

「当事者を煽る記者が兄さんの周りにいるかもしれない。週刊誌系に多いんだけどさ……あった!」

スマホを操作していた大河の手が止まる。机にスマホを二人の中間地点に置いた。

「『薬師丸の社長の相手は二股していた』『二股相手は清楚系青年』……うわぁ」

「尚ちゃんこの写真見て」

「画質わるすぎ……ん?これ、私じゃないですね。しかも、合成した痕ありますね。それにこれ、大河さんじゃないですか?」

画面越しではあるが、画像の荒さが目立つ。画像を拡大すれば、人物が切り取られたような痕も確認できる。つまり、写真は合成されており偽物。記事もそのようなできごとは無い。完全に捏ち上げの記事。

「恐らくだけど、この記事を書いた本人が兄さんに近づいて嘘を言ったんじゃないかな。しかもこの書き方からすると、兄さんに対しての相当煽った言い方だったのかも……」

「つまり、誤解を解けば解決しますね」

「そう簡単に行くかな……兄さんの性格上、裏切り行為が一番精神的に辛いって言ってたしな」

「とりあえず、本人にあってみないと分かりませんし行きましょう。颯さんは今どこに……」

「今が昼過ぎだから、新幹線の中だな。恐らく、十六時頃にはここの近くに来るはず」

颯が今いるカフェの最寄り駅に着くまでにまだ時間がある。その間に状況整理と作戦会議をすることになった。

現状を整理しよう。颯は自分の会社(本社)で仕事を済ませ、尚の実家に帰ろうと新幹線に乗っている。尚と大河の二人は、尚のお気に入りのカフェで作戦会議。そして、新幹線は十六時頃カフェの最寄り駅に到着する。そこで、颯と合流して誤解を解く。

「でも、週刊誌の記者さんって粘着質なんじゃ……」

「そうなんだよね。彼ら以外と行動力があって、粘着質で躊躇なく待ち伏せとかするし……」

大河の声は徐々に小さくなった。尚がふと顔を見ると大河は青ざめていた。

「今さ、最悪のこと想像してしまった…兄さんが新幹線を降りて乗り換えるじゃん、その間にまた記事書いた人が現れたら……って」

その言葉を聞いて尚までも青ざめる。こんな記事を書く人が美味しいできごとに食いつかない訳がない。

「対策したいですね。でも、どうしましょう……」

「その場で取り押さえならできるかな。そうなると、護衛の人達に連絡しないといけないな」

「大河さんそれで行きましょう。二人だけでは逃げられそうですしね」

二人の作戦会議は終わり、早速準備に取り掛かる。護衛の人達は、大河の護衛で近くにいたらしく事情を説明し協力を仰ぐ。


《まもなく、~駅~駅、お出口は左側です。開くドアにご注意記ださい。》

「……」

一方の颯は、新幹線の窓から外を眺めていた。記者から言われたことは本当か嘘か。どちらにしろ、記事という証拠がある。どうしたものか。先ほどは自身の心情の整理が追いつかず、電話を勢いよく切ってしまった。この時間だと、大河や尚は家に帰っているのだろう。一秒でも早く帰って、本人に直接聞かなくては。そう思い、下車の準備を始める。

大河や尚、その関係者に迷惑をかけないため短時間で素早く仕事を終わらせる。恩人には恩を返すのが礼儀。自分は、それが人よりも強く、重い。迷惑にならない程度に、自分で制御する。それを何年続けてきただろう。そろそろ、壊れそうだ。

「……ん、連絡。大河か。『駅についたら、連絡して。記者を撒くために車で迎えに行く。』……か」

自分の弟からの連絡には信頼がおける。颯は自分のスマホを操作し弟に返信の言葉を打つ。

「『分かった。』……よし、これでいいか」

スーツケースとブリーフバックを持ち、新幹線の出入り口扉に向かう。自分の弟と会った時、どのような顔をすれば良いのだろうか。もし、あの記事のことを知っていたら?大河や尚、その他にも関係している人たちからどのような視線を受けるのか。容易に想像できる。もしその想像が現実なったら、颯はきっと立ち直れない。社長という立場からすれば、繊細すぎる心を持っているが故に。

「……大丈夫だ、きっと……大丈夫」

駅に到着する間際、新幹線の扉のガラスに映る自分に向かって呪まじないをかけた。


「兄さんから連絡きた!『駅のロータリーに向かう。中央出入り口付近に』だって、車出して」

「何もないと、良いんですが……」

「そうだね……。でも、油断はできないね」

二人を乗せた車は、駅のロータリーに向かって動き出す。駅まではそう遠くない。

黒塗りの外国車の車内は、重い空気が漂っていた。何もないに越したことはない。しかし、

週刊雑誌のゴシップ好きは異常だ。侮ってはいけない。


駅のロータリーに着いた。時間が時間だ、タクシーが多く止まっており出入口付近に車が停められない。それだけではない、仕事帰りの会社員、部活終わりの学生など多くの人が行き交っていた。

「まずいな……。尚ちゃん、ここで降りよう」

「そうですね。でも、颯さんがどこにいるか分かりませんね……」

「それは、大丈夫だよ。兄さん、デカいから」

二人は素早く車を降りる。そして、大河が言っていた通り颯はすぐに見つかった。遠くからでも分かる、周りの人より頭一つ抜けていた。それを見た尚は、目立ちすぎでは?少しくらいは変装しようと思わないのか?と一瞬脳をよぎった。が、すぐにかき消した。二人は、足早に颯の元へ向かう。

「よし、兄さん一人だ!」

颯は目と鼻の先。週刊誌の記者もいない。何事もなく、家に帰れる。そう思った。

「あのー、薬師丸颯さんですよねー?例の記事見ていたでけましたかー?」

「……何か」

「そう、怖い顔しないでくださいよー。……で?その後いかがですか?」

「……何が目的だ」

一足遅かった。あと少しだったのに。

「兄さん!」

「っ!大河……」

大河が人混みの中から、大声で颯を呼んだ。その大きさは、周りの視線を引いた。一気に視線が集まったことによって尚はその空気感に押し潰されそうだった。しかし、弱音を言っている場合ではない。何とか耐えなければ。

「ちっ、弟か」

「あの、兄さんに付き纏うのやめてもらえませんか」

「何のことですかねー?私はただ書いた記事の感想を……」

「画像加工までした、嘘八百の記事のですか?」

大河は記者に向かって、ずかずかと歩き正面に立った。尚は、大河の後ろを付いて行く。背中しか見えないが、とても怒っているのだろう。彼の周りの空気だけが重たくなっていた。

「やめてくれませんか。迷惑なんです」

「いや……。まあ、その……」

「落とし前つけてもらえます……よね?」

「え、あ、あ、はい!記事、消します!」

尚は、大河の後ろにいたせいで、当の本人の顔が分からなかった。しかし、兄である颯が少し青ざめ記者同様に怯えて固まっていた。般若のような顔を想像したが、おそらくそれ以上に怖い顔をしているのだろう。


今回の一件で、週刊誌を発行している会社からは謝罪をもらった。記事を書いた記者に関してはそれ相応の処罰をしたとのこと。何とか、丸く?おさまった。

その数週間後の休日の昼、颯や大河、尚や尚の両親たちと昼ご飯を食べていた。そんな時に流れたニュース。

「先日から騒がれていた薬師丸製薬の社長、薬師丸颯さん一件が落ち着きを取り戻し、当人の関係は良好と言う記事が発表されました」

テレビからの音声に、固まる尚。軽く驚く両親。何事もなく食事をする薬師丸兄弟。

「あの、颯さん。この前の取材って、まさか……」

「ん?取材?……ああ、そんな仕事入っていたな。あまり覚えてないが、多分これだ」

「兄さん、仕事はできるのに仕事内容を覚えてないこと多いよね~」

お気楽な兄弟を他所に、ワナワナと震える尚。また、自分は記者に追われるのかと思うと辛い。

「安心しろ、電車に乗りにくいのであれば車を出す。それとも、学校の近くの家を借りるか?」

「なんで、その二択になるんですか!?うう……、私は普通の大学生活を送りたいのにー!」

「ははは!兄さんは相変わらずだね~。尚ちゃ~ん、諦めた方がいいよ兄さん頑固だから!」

「別に頑固ではないだろ、恩を返すだけだ」

和やかな昼下がり、三人の関係が今後も続くことを願う。

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