自分ですら自分のものではないよね。

征服するなら世界よりも、自分自身だ。
Conquer yourself rather than the world. 

ルネ・デカルト
René Descartes

Chief note Officerのカジケンです。

昔、自分の子どもがまだ0歳児だった頃、寝転んでいる赤ちゃん自身が自分の指が動くのを不思議そうに眺めているときがありました。

あれ? なんかこれ動くぞ? みたいなそんな感じの顔。

身体を自分の意志で動かせる大人からすると、不思議そうなその顔が本当に面白くて、今でも鮮明にそのシーンを思い返せます。

自分の身体と周囲の世界はある意味等価というか地続きで、ただそれを自他で分けずに丸ごとそのまま観察しているような感じ。不思議な顔をしていたのは、観察できる範囲の中で自分の身体だけは動くたびに感覚のフィードバックが返ってくるので、なんやこの感じは?みたいなことだったのではと勝手におもろいなぁと感心してました。

あのときはっきり腹落ちしたのが、自分の身体ですら自分の所有物ではないということ。

所有ってそもそもなんだろう、と考えると、ある特定の対象物を自分の意志でコントロールできる確度が極めて高いこと、と自分の中では捉えています。

例えば、「シェア」という概念と比べると分かりやすいかも知れません。

車を所有していれば、「いつ」でも乗れる。「どこに」でも置けるし行ける。「誰と」でも乗れる。譲渡もできる。管理コストが維持できないみたいな話を除けば、実際コントロールできないのは経年劣化ぐらいじゃないでしょうか。

カーシェアの場合、もちろんいつでもどこでも誰とでも「車」には乗れますが、「ある特定の」車自体を選び続けることはまず不可能です。

駐車場に停めてある自分の車が、毎日のように車種や内装が勝手に変わってたりしたら、それ自分のものって感覚にはならないですよね。

心理学の専門的な解釈は分かりませんが、子どもを見ていても、最初は身体が自由に動かせるようになる(=コントロールできる)ことで、(必ずしも思う通りにはならない)世界と自分を分け始め、周りで自分が自由に動かせるもの(例:おもちゃ)に対して「自分の」ものという感覚が芽生え、みたいな過程で所有の概念が身についてるように思います。

そうすると物心ついた頃には身体は自分の意志で動かせる感覚ってなんとなくあるので、自分って完全に自分のものって思い込みがちなんですが、実は人間って水平に腕を伸ばすことすらままならないんですよね。

以下、武井壮さんの有名なスポーツ万能になる方法の一部分(該当箇所から再生します。4:10 - 5:25ぐらいがそれ)。

身体のみならず、ましてや自分の心なんてなおさらです。

もし自分の気持ちや精神も完全にコントロールできるなら、自分の感情だって自由自在に変化させられるはず。

あー今日の打ち合わせマジで出たくないなぁという憂鬱な気持ちを一瞬で笑いが止まらない精神状態に出来るのか?(できたらできたで怖いですね笑)

自分ですら自分のものではない。環境の一部である。

そう捉えてしまうと、自分の意志の強さに頼ることが如何に無謀なことかというのが、意志が弱い自分の中で腹に落ちたんです。

何かが出来なかったときとかに自分自身を責めるのではなく、あーこのやり方だと自分という存在は動かないんだな、じゃあうまくいくやり方を他に探してみようと考える。自分という存在を探索して征服する。そんな気持ちでいると良いかも知れません。

ということで、月木更新するという宣言によるプレッシャーで自分を動かすことによって自説を証明してみます!(笑)




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