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読書の方法 27/100

読書が好きだ。

本の読み方は、二つあると思っていた。

一つは「娯楽」、つまり「楽しみとしての読書」だ。本=物語という異世界に飛び込み、ワクワク、ドキドキ、ドユコト?、イライラ、ウケる、ハラタツ、シンミリと、都度都度沸き起こるさまざまな感情を折り重ねるように読み進め、最後の一文字に達したら、「フーっ」と一息つく。旅を終えておウチに帰ってきたような感覚で、本を閉じる。カタルシスを全身に感じ、余韻に浸る。

映画を観たり、ライブを楽しんだりするのと同じだ。

これまでに一番夢中になった娯楽本はなんだろう?

どっちかだな。

二つは「お勉強」、つまり「学びとしての読書」だ。知らなかった事柄や出来事、疑問にさえ思ったことのない問い、自分の常識とはまったく異質な視点に触れ、ナルホド、ナルホドと新たな情報(知識)をインプットしていく。溜め込んでいく。読み終えて、本を閉じる時には、ちょっぴり賢くなった気がして、気分が良い。

今までで一番必死に読んだお勉強本はなんだろう?

たぶんこれだ。

二八歳の頃(二〇年前だ)僕は無謀にも、知識もスキルも経験もほぼ皆無の状態で精神科臨床の世界に飛び込んだ(大学は心理学専攻だったが、臨床の勉強は一般教養レベル。ずっと実験ばかりしていた)。

「まぁ、なんとかなるだろう」と思っていたが、当然のごとく、僕は使い物にならなかった。患者さんと相対しても、何をどう話していいのかサッパリ分からない。

「自分の不手際で、何気ない一言で、患者さんが調子を崩したらどうしよう?死んだらどうしよう?」

毎日怖くて仕方なかった。

大学時代に臨床系のゼミに所属していた同級生に電話して、「何か手っ取り早く使える本はないか?」と助けを求めた。彼女が教えてくれたのが、この本だった。

あんなに必死で本を読んだのは、お勉強したのは初めてかもしれない。教えてくれた同級生は僕の恩人だ。

謝々謝々だ。

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最近になって、三つめがあるなと思いはじめた。

それは「触媒」、つまり「考え、変化するきっかけとしての読書」だ。「対話的な読書」といってもよい。本の中身を楽しんだり、教えを乞い知識を溜め込んだりするというのとは少し違う。読んでいると、ある文章や単語がなぜか向こうから勝手に飛び込んでくる。僕の本能なり無意識なりが、その箇所をピックアップするとも言える。

なんというか、本と対話してる感じだ。本がいろいろ喋ってくれて、僕が特に気になった部分について、「それって何?」「どゆこと?」とツッコミを入れる感じだ。

人間同士の対話なら、相手が直接なにかしら返してくれるのだけれど、本は答えてくれない。ただ黙ってそこにいるだけだ。

なので、一旦本から目を離し、考えはじめる。

「なんでココに引っかかったんやろ?」
「なんでココを"いいな"と感じたんやろ?」

いろんな記憶や問いがムクムク浮かんでくる。無関係とも思える事柄や出来事や気がかりがそこに絡んでくる。なんやかんやが混ぜ合わされ、「ああでもない、こうでもない」と思考が巡り、膨らみはじめる。

ひとしきり考えたら、また本とのやりとりに戻る。本の声にひたすら耳を(目を?脳を?)傾けるフェイズに戻る。そんな感じだ。

以前は、そんな読み方はしてなかった。

「娯楽」として読むのであれば、ただ受け身で楽しませていただくだけ。

「お勉強」として読むのであれば、とにかく与えてくれる情報(知識)を、これまた受け身で溜め込んでいくだけ。

※書かれてること全部理解して、大事なことは全部記憶に刻まなきゃ。そんな強迫的読み方をしてた時期もある。楽しくないし、時間かかるし、皮肉なことに、読み終わった時なんにも残ってなかったりすることもある。

本をある種の「触媒」と見なす、あるいは「他者」と見なす第三の読書は、対話(会話)に似ている。

誰かと対話するときに「お前、オレを楽しませろ」なんて大上段の態度はとれない。相手の言ってることを、正確に、文字通り、記憶しようなんてことは思わない。

お互いに言葉を、考えを、感情を、交換しながら、影響を与え合いながら、対話というプロセスを一緒に編み上げていく。

楽しい時間が過ごせれば、それでいい。新しい思考が回りだすきっかけを一つでももらえたら儲け物だ。好奇心を刺激してくれるお題を一つでももらえれば御の字だ。

この歳になってようやく、主体的かつ気楽に本が読めるようになりつつあるのかもしれないなーと思う(四〇年以上かかった。ヤレヤレ...)

まだシッカリ身についたわけではないけれど。

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