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不登校雑考②学校に行けない理由 22/100

(昨日のつづきです)

「不登校」について、思うところをツラツラと書き残しておく。ただの雑考、雑感だ。

マクロな分析はいろんなところで、いろんな人がやっておられるので、そちらをご参照ください。

例えば↓

とりあえず前回の最後に挙げた問い「一体なぜ、僕は学校に行ってたのだろう?行けてたのだろう?」について考えてみようと思うのだけど、ブリッジとして、まずは一般的な「なぜ行けないのか?」という問いについて考えてみる。

なぜ学校に行けないのか?と問うこと

学校に行けてる生徒が「君はなぜ、学校に行けてるの?」と問われることは、ほぼない。

学校に行けるのは「誰もが当たり前にできて、毎日やってる、めんどうなこともあるけど、難しくはない」と多くの人が思ってるからだ。自分もそうしてたし、できてたからだ。周りもそうしてるし、できてるように見えるからだ。

僕らの脳みそは、自分があたりまえにできてることができない人のこと、できない世界線を想像するのがメチャクチャ苦手だ。アンビリーバブルなのだ。

街中を歩いていて、周りの人に「あなたはなぜ歩けるのですか?」と訊ねる人はいない。

楽しそうにお喋りしてる人たちに「なぜそんな自由に日本語が操れるのですか?なんでそんなに楽しくお喋りできるのですか?」と問う人はいない。

そんなことを訊ねたり疑問に思う人は、非常識な変わり者、あるいは余程の暇人とみなされる。

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学校に行きづらくなった生徒さんがいると、周囲は心配して、彼・彼女の話を聞こうとする。

いろんな話をする可能性があるが、メインの質問は一つだ。

あなたが学校に行けない理由はなに?

聞かれた生徒さんは考える。

なぜ行けないんだろう?何がイヤなんだろう?辛いんだろう?

その生徒さんの話から、彼・彼女が学校に行くことを「邪魔」している要因をリストアップし、それらを解消したり、「そんなもんは気の持ちようだ」「お前ならイケる」と説得し、鼓舞することで、再び学校に通えるようにと方向づけていく。

これが、不登校支援一般のルーティンと言える。

できない理由をインタビューや観察によって特定し、それを潰し、応援すれば、問題は解決に向かうはず

そんな基本スタンスが背景にある。

だって、学校に行くのは、誰もがやるべきことであり、誰にでもできるはずの簡単なことなはずだから。ちょっと目先を変えて、背中を押してあげれば、イケるはず。

多くの人が、そう思っているみたいだ。

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学校に行きづらくなってる生徒さんたちが「行けない理由」として挙げるあれこれに奇矯なものは一つもないことが、ほとんどだ。

「朝起きれない」「ダルい」「不安」「周りとうまくなじめない」「勉強がムズイ」「毎日しんどい」

朝はスッキリ爽やかに起床し、体もすこぶる快調、自信に満ち溢れ、誰とでもスムーズにやりとりできて、勉強もスラスラとこなせる。毎日楽しくて仕方ない。

そんな人はマレだ。多分...

今は元気に学校に通えてる生徒さんに、「しんどいなって思うことは?」と訊ねてみれば、基本的に似通った答えが返ってくる。

違いは、実際のところ「行けてるか」「行けてないか」、それだけだ。頭の中を巡ってること、身体で感じてることは、基本的に同じなのだ。

だから「みんなそうだよ。それでもみんな来てるんだ。お前も頑張れ」

そんな展開になる。

それでも登校しない/できないと、どうなるか?

「皆があたりまえにやってることをしない/できない生徒」

「甘え」「怠惰」「やる気なし」

そんなレッテルが貼り付けられることになる。

自分が「あたりまえだ」「簡単なことだ」と思ってることができない人、しない人を見ると、人はイライラする。

「皆があたりまえにやってることをしない/できない生徒に対して、あたりまえの働きかけをせず、放置している親」

問題の矛先は親(家庭)にも向けられることになる。最近もこんなニュースを見た。「不登校の大半は親の責任」と考える人は、結構多い。

イライラしながら話してると、あたりまえだけど雰囲気は悪くなる。やりとりはギクシャクし、対立が生じ、関係は悪化する。

カウンセラーに回ってくるのは、通常の対処法がハマらず、レッテルがベッタリ貼り付き、友好的やりとりが成立しにくくなったたケースがほとんどだったりする。

ちなみに、不登校がつづいて、心身の不調があからさまになり、日常生活に支障をきたしはじめ、病院に行くと、話が少し変わる。

診断名がついて、「病気」と公式認定されると、そのケースは「不登校」から「病欠」へとカテゴリーが変更されたりする。

こうなると、事態は「あたりまえ」「正常」から「ふつうじゃない」「異常」と位置づけ直される。周囲の対応は、基本スタンス(教育)から特別なスタンス(医療・治療)へと切り替えられる。

起こってることは、実際のところ大して変わってないのだけれど。

●なぜ学校に行けてるのか?と問うこと

さて、どうするか?

同じ常識的な視点で、常識的な方法を繰り返しても埒が開かないのは目に見えている。

とりあえず、医療が絡まないケースについて言えば、カウンセラーは、世間的に見れば「非常識」と見なされそうなアプローチを適用することになる。

生徒さんが「以前のように学校に行けるようになりたい」という希望をクリアに表明してたら、まぁ楽だ。訊ねるべきことが、ハッキリするからだ。

なぜ、あなたは学校に行きたいの?
なぜ、あなたは学校に行ってたの?行けてたの?

いわゆる、ニーズとリソースを訊ねる質問だ。

ちなみに「行きたい」と表明してない生徒の場合は、別の切り口を探す。望んでない話になんて、付き合ってくれるわけがないからだ。

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ここで、フト思う。

僕自身は子どもの頃、ほぼ休むことなく学校に行っていた。

僕は学校に行きたいのか?なぜ行ってるのか?
僕はなぜ、行けてるのか?

たぶん、そんなことを考えたことはなかった。

改めて、疑問に思う。

なぜ、大した疑問も抱かず、毎日飽きもせず行ってたのか?

なぜ、行けてたのか?何が支えとなっていたのか?

ちょっと考えてみたいと思った

なるべく一人称で、個人的な体験や感覚に照らして、書いてみる。カウンセラー(という一応専門家の端クレ)として枠組みは脇に置いて、考えてみたいと思った。

長くなったので、つづきは次回に

【不登校】長期欠席者(年間30日以上の欠席者)のうち「何らかの心理的,情緒的,身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくともできない状況にある者」ただし,病気や経済的な理由による者を除いた者をいう。

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