【猫小説】『メニー・クラシック・モーメンツ』第10章:インマヌエル ①
ダイニングの木目調のテーブルで、ブルーマウンテンの豆をざりざりと挽いていると、リビングから聞き慣れた着信音が耳に届いた。
逢子からの電話だった。
今春、出版予定の ” コラム集 ” のゲラ本が刷り上がったため、それを渡したい、とのことだった。
ついでに、校正作業も一緒に行いたい、とも言っていた。
来週の金曜日であればスケジュールが空いているという旨を彼女に伝え、その日の午後2時、いつもの ” 喫茶店 ” で会う約束をした。
…、それにしても、あのコラムたちが一冊の本となって、この世に生み出されるだなんて。
校閲や製本といった、いくつかのプロセスはまだ残っているけれども、30年以上続けてきた物書き人生の中で最も思い入れの強い作品になる、そんな予感がした。
今にも産声を上げて誕生しようとしている子供を授かった、臨月の妊婦のような気分でもあった。
結局、俺にとって「物書き」とは ―。
淹れたてのブルマンを一口飲みながら、ぼんやりと窓の外の景色を眺めた。金平糖みたいな甘い香りが、鼻をすっと抜けていった。
なんだかあまりにも周りのすべてがまぼろしのようで、淡くかすんだ新宿のビル群の方が、やはり、現実というものを真摯に心得ている。
透き通った水色を二分する飛行機雲は、ほつれた糸状にたなびき、高すぎる空が永遠のようでどこか寂しい。
けれども、その寂しさは蛍火みたいにやさしくて、失いがたいものでもあったし、いつまでも付きまとっていて欲しい影だったし、それ故に文章が書けた。
書き続けることができた。永遠に書いていけそうだった。
…、ふた口めに飲んだブルマンは、何故だかすこし、苦く感じた。
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金曜日。それはとても目覚めの良い朝だった。
シャンパンゴールドの太陽がカーテンの隙間からスティック状に差し込み、健やかな「おはよう」を、寝室に運んできてくれた。
ほら、洗濯するよ、と言って、ベッドからハルを追い出した。
毛布を丸めてバスケットボールみたいにランドリーへ投げ入れた。
彼は「もっと寝かせておいてくれ」、とでも言いたげな、寝ぼけまなこをしていた。
最近、ハルはどうも目覚めが悪い。この日もスッキリと起きられなかったようだ。
それでもかろうじてソファへ移動し、粘土のようにぺったりと平らになって、四角いガラスの向こう側で自動的に始まってゆく日常を、ぼんやりと眺めていた。
そんな彼を横目に、俺はリビングと寝室の出窓をすべて開け、部屋の端から端まで、丁寧に掃除機をかけた。
浴室や洗面所の鏡もピカピカになるまで磨いたし、ベランダに放置されていたトケイソウのクルクルとした蔓も、園芸用のハサミでちょきんと剪定した。
部屋に誰かを招くわけではなかったけれども、この健やかなる一日の始まりが、妙に俺の心をポジティブにさせていた。
すべてがうまくいく、そんな気にさえ、なった。
片付けをすっかり終えると、にわかに右手が疼いた。物を書きたいという衝動が、流星の如く訪れたのだ。
この日は午後から逢子との打ち合わせの予定となっている。約束の時間までだいぶ余裕があったため、残りの時間を執筆にあてることにした。
「あれ、どうした?」
スマトラコーヒーの入ったタンポポ色のマグカップを片手に書斎へ向かうと、さっきまで、お気に入りのあのソファでぐうぐうと昼寝をしていたはずのハルが、俺の足にぐねぐねとまとわりついて、仕事場にまでついてきたのだった。
今日に限って、どうしたというのだろう…。
猫という動物は気ままにそっけなくなるものだが、甘えるのもやっぱり気ままなのだ。
ハルは本当に、めんごいやつだなぁ。
しばらくの間、彼は書斎の中を行ったり来たりしていた。けれども、すぐに疲れてしまったようで、古いオフィスチェアの下に敷かれた黄色いシャギーラグの上で、すうすうと静かに寝息を立て始めた。
そんなハルの姿に、だいぶ老いを感じる。
脚の力も年々弱くなっているようだったし、暇さえあれば寝てばかりいた。
思い起こせば、もう彼とは十数年も一緒に暮らしている。
ハルもすっかり、” おじいちゃん猫 ” になってしまったということなんだなぁ。
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