「神の住む森の奥で」
人は何のために撮るのか
何を残したいのか。
撮った写真をどう扱いたいのか。
野球をするなら球を打つバットは大きく分けて木製か金属製かくらいしかないのに、写真を撮るツールとしてのカメラは種類が多すぎて「何が出来るのか」わかりにくい。
レンズ交換式のカメラになるとレンズの性能も加味されてくるのでなお大変。普通に趣味で撮るのに果たしてフルサイズが必要なのか、など。
答えはそれぞれのカメラマンがそれぞれの答えを明確に持っていると思うし、出来るだけ早くそれを持つことができれば平穏なフォトライフを送れる気がする。カメラやレンズの沼は概ね底なしなのだ。自分もたくさんの沼にはまってきて生還した者なのでよくわかる。溺れながら覚える、を繰り返すことで人は沼から少しづつ這い出していく。
もちろんその沼自体も実は心地よいものだったりするため、うまく運用すれば「快適に暮らす」ことも可能となってしまうから、ちょっと面白い。
時折、カメラ選びの相談を有難くも受けることがある。非常に難しい難題だがひとつひとつの疑問や要求にそっと寄り添っていくことで、その人がカメラで何をしたいのかを想像して空想の中で体験していく。RPGのように。
もし、アドバイザーが無しでカメラ売り場に向かうことは、丸腰で戦場に降り立つのと同じくらい危険だ。お店にもよるが、概ねの家電店では正しいチョイスの相談ができる店員を見たことがない。買って帰った後、使い始めて直後に「あれ、なんかちがう?」
ということは多いと聞く。
某、○屋家電にカメラ選び会で若者を連れて行った際の会話。〜カメラ一級を取得されているという元プロの店員さんが言う。
「X100なんて買ったらダメです」
この言葉はある意味ただしいかもしれなかった。殆ど初めての人が使う場合少し敷居の高いカメラではある。はじめはエントリー機のAPS-C一眼レフかミラーレス機をチョイスするのが無難だと思ったのだろう。しかし、店頭について一言二言交わしただけでその人の何がわかると言うのだろうか。その時自分はかなり不快感を覚えたものだった。
一昨年から昨年までの間、自分の友達、知り合い五人が僕のアドバイスでX100を五台も買ってくれた。別に富士フイルムの回し者ではないのだけれど、初代X100から全シリーズを使ってきた自分には、それがあるひとつの「答え」として自分の中で絶対の自信を持って勧められる理由があったからだ(最新型のX100Vは未体験)。
カメラは気持ちよくなれけばならないと自分は思っている。気持ちいい!が、その気持ちが、写真に写るものなのだからと思っている。
いくら画素数が多くて連写速度も速いし使えるレンズが自由自在に選べるスーパーカメラだったとしても、「気に入ることができない」ものは使いたくないはずだ。どんなに速く目的地に着けるからと行って、高速道路をF-1マシーンで走っても多分心地よくないのと同じように思う。
カメラには、その人々の瞳の延長となる資質が必要なのだ。カメラはカメラマンと被写体の間にそっと介在する相棒なのであって、それ自体が主役ではない(もちろん主役にするのもオッケーだけど)、やはり「写真を心地よく写すためのツール」と、考えた場合、気持ち悪いよりも気持ちいい方がいいに決まっているのだ。
以前友人にX100のハイブリッドビューファインダーの光学式ファインダーのモードで空を覗いてみてもらったときのこと。
「なにこれ!綺麗!可愛い!肉眼で見るより綺麗にみえるんですけど!」
そんな言葉を連発しているではないか。
まさにその通り。
覗くのが酷になるようなファインダーはあまりよろしくない。最近は電子ファインダーも美しくなってきたけれど、僕がオススメするのは素通しガラスに映し出される光学情報(または電子情報)の向こうに被写体をしっとりと重ねること。指で四角を作って写真を撮る真似をしていた子供の頃に還れるあの感覚。。
そんなところに、カメラの魅力と生命を感じてしまうのです。
今日も素晴らしい価値のある一日に。
富士フイルム
X100F
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