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スキー術

スキーを始めたのは、当時、自宅に下宿していた岩崎理さんと言う大阪工大の学生さんに教えたもらったのが最初です。
中学生になる前の春休みに赤倉 池の平スキー場が初めてでした。
スキーの板は木製スキーでエッジはついていませんでした。
スキー板をハの字に開いてのボーゲンから教えてもらいました。
前からスキーには興味があったので、スキーの本を買って、研究をしていました。
ジャンプターンなど、いっぱしの事を話したのを覚えています。
やり出したら楽しくて、昼間だけでは足らず、夜間スキーにも出かけました。
エッジの無いスキーで、アイスバーンの様な所を滑っていました。
旅館の戻ると、よくエッジの無いスキーで滑っているね!と感心されました。
春の太陽は強烈で顔が真っ黒けになったのを覚えています。
最初のスキー行で、大好きスキーとなり、スキー技術本など買い込んで、スキー術の勉強をしたものです。
当時はオーストリースキーメソッドが主流で、クルッケンハウザー教授とか、杉山進さんとか、三浦雄一郎さんのドルフィンスキーテクニック、
フランススキーテクニック へびのターン、
ボーゲン、シュテムクリスチャニア、パラレルクリスチャニア、ウェーデルン、ジャンプクリスチャニア、ドルフィンターン、ヘビのテクニック、マンボ等々、でした。
そんな中でトニーザイラー主演の「白銀は招くよ」がヒットし、トニーザイラーの自由自在の滑りに憧れたものでした。
映画は、日本では初公開時、1959年の洋画配給収入ランキングにて第10位(9848万円)を記録した。主題歌もヒットしました。
映画館でワクワクしながら鑑賞しました。
私、12才でした。

六甲山に雪が積もると、ゴルフ場でスキーが出来るので、出かけたものでした。駅を降りると、乗り合いの白タクが待っているのです。
ゴルフ場ですからリフトはありません。
一日、登っては滑り、登っては滑りでした。
当時はそれが当然のようで、滑るためには歩いて登るが普通でした。
リフトのあるスキー場、函館山等に行くと、なんと楽な、となりました。

高校入学試験にパスした時に、同居していた、お祖母ちゃんがお祝いにと
10万円をいただきました。 高校生にとって大金です。
そのお金はスキー板に化けました。
高くて、とても手が出ない、HEAD スタンダード メタルスキー板でした。
高い板を履くと上手になると当時は思っていましたが、そんなことは無いですね。
当時のオーストリーメソッドは板をいかにズラして回転させるか?
今と比較すると、板をズラすのが大変でした。
正月や春休みにはスキー行が続きました。
岩岳スキー場で、たまたま、1~2級の検定をするとアナウンスがあったので、挑戦してみようと、飛び込みで検定を受けました。
当時はジャンプが検定種目にあり、練習していなかった私は、上手く飛べませんでした。
結果は1級の得点には届かず、2級となりました。
飛び込みで2級は上出来でした。
30歳まで青春は山の中とスキ―と山に給料のほとんどをつぎ込み、遊んだものでした。
結婚を期に仕事と家庭を両立しなければと登山は止めました。
30歳から40才まではラグビーをしていました。
大阪城公園で良く試合をしたものです。
真冬の寒い中、泥だらけになって、楽しんでました。
公園の水道で汚れを落とすのですが、寒い事限りなしでした。
40才の時、モールでタックルを膝の裏側に受け、十字じん帯を切りました。
当時は仕事が忙しく、手術をすると1か月は休まないといけないので、そのまま放置しました。
普通には歩けるので、スポーツをしなければ大丈夫と、その時スポーツをあきらめました。


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