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「鰻の女」


「鰻の女」(うなぎのひと)概要

恋活をしている真弓の関わる男はケチであったりマザコンであったり碌(ろく)でもない男ばかりだ。今回は勤め先の店舗で声を掛けられたが、またケチでしかもスケベな男だった。その事実が初回のデートで発覚し、今後を敬遠するがストーカー紛いに付き纏われ店の常連であることを理由に半ば恐喝される。
そんな中、アプリで知り合う男に好感を抱くがその男は昔の同級生だった。男は中学の時から真弓に好意を抱いていて、温厚な彼は真弓を助けようとする。
だが真弓には過去に不倫による堕胎の経験があり同じタイミングでその相手と再会し、恋心を引き戻されてしまうのだが─



「鰻の女」(うなぎのひと)

「─どした、ん?早く食べないと伸びきっちゃうぜ─?」それが癖なのか若者を気取ったような語尾を跳ね上げる妙なイントネーションで男が言った。
「─あ、─うん─」そう頷いて見回す店内は遅い時間にもかかわらず賑やかで、皆一様に目の前に置かれた丼から立ち上る湯気の向こう側で笑顔を浮かべている。
談笑の合間に忙しなく箸を動かしながら麺を実に美味そうに啜り上げるその音を聞きながら、真弓はもう一度目を上げ箸を止め不思議そうにこちらを見つめている男に気づくとやっと曖昧(あいまい)な笑みを返した。
無理をして買った純白のプラダのバッグからハンカチを取り出し、これも新調したばかりのシックなダークグレーの色調のダイアンのワンピースの膝の上にそっと掛けた。おもむろに箸置きに指を伸ばすと一膳を取り出し割ってみたが指先に力を入れ過ぎたのか箸は鈍い音を立てて不様なバランスで割れた。
「─ああ、ったく、んだよ。ヘタクソだなあ─」男はそう言って笑うと新しく一膳を引き抜き、
「─ほら、こうやんだよ。いいか─箸を横にすんだろ。そんで下っ側を押さえて─ゆっくり上を引き上げる─ほいッ─」そう言って綺麗な二つに割ると唇を尖らせちょっとだけ目を見開いた剽軽(ひょうきん)な表情を向けてきた。返す笑顔が思わず引き攣(つ)ってしまうのは余りにも意に外れたデートに正直愕然(がくぜん)としているからだろう。
男は真弓の勤めるカーショップの常連で来店の度の強引な誘いに根負けした形で今日初めてデートに応じたのだった。
乗り付けてくる車は旧い型だがいつも綺麗に磨かれたBMWで本人にしても無精髭もなくジーンズにブラウンのジャケットのコーデも違和感無く清潔感を感じる好感の持てるものだった。
迎えに来た車の助手席に乗り込もうとした時ヒールを履いた自分の足元に幾度となく向けてくる視線に首を傾げたが、その時は別段気にも留めなかった。
真弓は間もなく三十路を迎えようとしているが男運の無さに辟易(へきえき)としていた。
容姿で選べば借金だらけでお金に全く余裕のない男だったり優しいと思えばマザコンで頼りのない男だったり、恋に落胆するその度に周囲が次々と華やかな幸せに落ち着く先を見出していく現実に焦りを自覚するようにもなって来ていた。
『─なんでだろうね。ホントに美人なのに、ね』過日招かれた披露宴で自虐的に吐いた言葉を受け、隣席の古い友人が真弓の顔をまじまじと見ながら気の毒そうにそう呟いていた。

「─おろ?嫌いなの?ラーメン」男が差し出した割り箸の行き先に困ったようにぶらぶらと手元を泳がせ言った。
「─あ、ううん。そんなことない。ごめんね─」真弓はハッとして箸を受け取るとワンピースの手元に汁が跳ねないよう気をつけながら麺に絡めた。
「─どう?な。─うまいべ?」満面の笑顔を近づけて男が訊いて来た。啜り上げる麺からも汁が飛び跳ねはしないかと自分の胸元を気にしながらそれでもやっと頷くと、
「こんな時間でも混んでるだろ?昼間なんて二軒隣のビルにまで行列が出来るくらいの繁盛店なんだぜ?」男は満足気に小鼻を膨らませ幾度も頷いた後また独特の抑揚でそう言うと、残りの麺を勢い良く啜り上げ始めた。
一心に箸を口元に手繰り寄せている男を上目遣いで見ながら、
『ねえ、どうして初デートの一軒目がラーメンなの?─ドレスアップもして来たのに─』そう心の中でこぼしてみるのだが男は鼻の頭に汗を浮かべ時折、鼻の下を左の人差し指の甲でこする仕草をしながら食のみに集中していた。
確かにショップの長い常連ではあったが髪を切り染めてみたりピアスを変えたり、そんな変化に気づいたりましてや褒めそやされた記憶も全く無い。
鈍感と言えばそれまでなのだろうが濃い目にメイクアップして明らかなお洒落を歯牙(しが)にもかけぬ対応はそれを超えて失礼と云うべきではなかろうか─。そう考えると意気消沈し、久方振りのデートに構えた緊張もときめきも悄然(しょうぜん)と萎えてしまうのだった。
汚すことを気に病みながら慎重に丼に向かっている間、とうに食べ終わった男は無作法に目の前で爪楊枝を使ったり手持ち無沙汰気にテーブルに置かれたピッチャーから何杯も水を注いでは飲み干していた。
「─ごめんね」漸く食べ終わりルージュが落ちないよう口元をハンカチでそっと拭うと、男は間髪要れずに立ち上がり伝票を持ってレジに向かった。
「─780円、ずつだな─」財布から一万円札を抜いて支払いながら男が独り言の様にそう呟いた。つり銭を受け取ると丁寧に札を揃えて数えた後、振り返り俄(にわ)かに笑みを浮かべた。咄嗟(とっさ)にぎこちなく笑みを返し車に乗り込んだ直後、男が不意に手を翳(かざ)して来た。何をされるのかと瞬間身構えたが男はその手をひらひらさせまた笑みを浮かべ、
「─どうしたの?780円だよ。ラーメン代─」しごく当然の如くそう言った。真弓は一瞬男の眼と対峙したがすぐに顔を俯けると、
「─またぁ─?」うんざりした口調でそう口の中で呟いた。
何故だか付き合う殆どが金に縁の無い男ばかりで、たまに羽振りの良さそうな男だと思えば財布の紐が固く奢(おご)られても安いランチかコーヒー位が関の山だった。
小さく吐息を吐き財布から千円札を出し渡すと男はつりも出さずに今度はジャケットからスマホを出し、やおら真弓に向けてきた。反射的に手で制しようとしたが構わずに連続してシャッターを切ってくる。
「─な、何─?」両掌で顔を隠すようにしてそう言うと、
「─別に。ただの記念だよ。記念撮影」また意味不明な笑みを満面に浮かべ愉快そうにスマホを持ったまま手をひらひらさせた。
真弓が怪訝(けげん)な目線をもう一度上げた時、
「─さて、仕上げを満たしに行こうか」笑みを崩さずにそう言った。咄嗟に意味が解らず首を傾げると、
「ホテルだよ。肌を合わせないとさ、分かんないんだよ。男と女のホントの相性なんて」そう言うと今度は目線を真弓の足元に落として、
「─綺麗な脚してるよね。実は俺、足フェチなんだ─あのさ、もしかしてペディキュアとかしてる?後でいいから、じっくり見せて─」俄かに低く吐き出す声に荒い息遣いが混じっていた。
同時に仄(ほの)暗い明かりの中でその眼線がねっとりと絡みつく様に感じた。おぞましい感覚に思わず眉を顰(ひそ)めると、
「─ねえ、どんなのがいいの?」また不気味な声が耳許に響いた。言葉の意味に検討もつかずまた黙っていると、
「体位だよ、体位─俺はさぁ─」男がそこまで言い掛けた次の瞬間、真弓の右掌が男の頬を叩いた。
ドアを開け無言でそのまま外に飛び出すと慌てた様に男の声が背中を追ってきたが振り返らずに足早にその場を立ち去った。
「─今度は、どケチの変態かあ─」近くの駅に向かいながら折りしも降り出した小雨に夜空を見上げ、一つ溜息を吐き呆れた風に自嘲しそう呟いてみた。
細かい雨粒が睫(まつげ)に当たった瞬間、不意に哀しい気持ちが迫り上げると涙が溢れ出てきた。真弓はそれをぐっと堪え立ち止まるとふと踵(きびす)を返して夜半の繁華街に向かって歩き出した。

 「ツルゲーネフ」は繁華街の外れにあるが地元では老舗のショットバーで、四十過ぎくらいだろうか落ち着いた風貌のマスターと揃っている豊富な種類の酒が好まれ幅広い年齢層の常連客が定着している。オールワンコイン500円の価格設定と先払いのシステムも面白く真弓も行きつけにしていた。
マスターはカナダのログキャビンに憧れていてヘムロックの部材を仕入れたり実際に行動に起こしてるらしかった。
『─一度切りの人生だからね。どうせ男なんて夢追い人なんだからさ』少し酔うと饒舌(じょうぜつ)になりポアラーからバーボンウィスキーを自分のグラスに注ぎながら笑みを浮かべ口癖の様にそう言っていた。
穏やかだが誰に諂(へつら)うことも媚びることもしない。
バーテン上がりだと云うが長い経験で培われたであろうプロ意識を感じさせるマスターが気に入っていた。
奥にテーブル席が二つあり後は木調のカウンターだけのこじんまりした店で、禁煙を徹底している。
「─煙草を吸いたければスモーキーフレーバーの酒を飲めばいい」いつだったか店内禁煙の不満を漏らした酩酊客を窘(たしなめ)る様にそう言っていた。
 濡れた髪とメイクを気にしながら木製の大きな扉を開けると、その造作に似合った大きなカウベルが乾いた音を立てた。
週中で雨模様であることもあってかテーブル席にカップルがいるだけで珍しく店内は空いていた。
「─遅い時間だね、今日は」グラスを拭きながらマスターが眼を上げた。
店に掛けられているアンティークな柱時計は11時を既に回っていた。
「─うん」短くそう応えるとマスターがカウンターの下を覗き込むようにしてタオルを差し出してきた。
「─ありがと」そう言い差し出したその手に触れた瞬間、また涙が溢れそうになった。真弓は慌ててタオルを受け取ると濡れそぼった髪を拭きながらそっと涙を拭った。

「─浮かない顔してるね」オーダーしたファッジネーブルのグラスの縁にレモンピールを挟みながら銀縁の眼鏡の奥の穏やかな眼差しを上げてマスターが口を開いた。落ち着いた優しいいつもの物言いが糸口を導いてくれたみたいで、真弓は少しだけカウンターに身を乗り出すとつい先刻の出来事をぽつりぽつり話し始めた。
話しながら次第に感情が昂ぶり思わず声が上擦りそうになったが店内に流れているジャズのスウィングが都合よくその声をかき消してくれた。
一々を頷きながら終いまで話を聞き終えた少しの間の後、
「─価値の無い男だね。男にも色んな人種がいる。早く記憶から消しちゃいな」静かに、だがきっぱりとしたその台詞に漸く笑みを浮かべることが出来た。その表情に安堵した様にマスターは笑みを返し、背を向けて狭い厨房に入って行った。
「─このカクテルに合うつまみよ。シュリンプサラダ。オリジナルのドレッシング、また後でレシピ上げるね」間もなく、にこやかにエプロン姿の早紀さんが華やかな笑顔で料理皿を手に現れた。
拘(こだわ)りだと云う趣(おもむき)のあるアカシアの木皿に収まり良く乗せられた見映えのする料理だ。
料理は早紀さんが拵(こしら)えている。
彼女は元看護師で数年前に大病を患い入院していたマスターを担当していた。単身で上京し、その直後に事故で両親を亡くしてしまい他に肉親も縁者もないマスターの身上を知り何かと関わっている内に情が移ったんだ、と笑っていたが実情は端正で彫りの深い日本人離れした容姿にも惹かれたのだろう、と真弓は確信している。
伸ばし掛けだという髭が整えば自分も大のファンであるマルコ・ボッチにも似ていると思う。
時折、マティーニグラスを挟んであたかも憂いのある感でカウンター越しを窺い見ながらぽつねんと掛けている女性たちは紛れもなくマスターに慕情を抱いているのだろう。
かく言う当人も実はその一人だったのだが、今は妻である早紀さんに魅了されていた。
「─わあ!美味しそう!」真弓が顔を輝かせてそう言うと、
「柑橘系のお酒には、サラダが良く合うのよ。ドレスアップしたまゆちゃんにも似合ってるわよ─聞こえたよ。情けの無い男ねえ、そいつ。今度あんたの店に来たら、かましてやんのよ?いい?女だって舐められたらお終いなんだから─」早紀さんは憤懣(ふんまん)やる方ない、と云った風に色白の美しい顔の目を吊り上げ鼻の穴を膨らませると徐(おもむろ)に皿を差し出した。
「─うん。ありがと。そうする」そう応えると俄かに件の男の愚にもつかぬ動向におかしみが込み上げ、思わず小さく吹き出した。
美味しいサラダをつまみに心地良いBGとほろ酔いに揺れていると先刻の不快も自然に癒えてゆく様だった。
スタンダードのナンバーが切り替わろうとした時、柱時計が乾いた音を二つ叩いた。
「─明日、仕事だろう?そろそろ帰って、休まないと」グラスを磨きながらマスターが言った。
「─うん」真弓は応えたが席を立とうとはしなかった。また感傷的な気分が頭を擡(もた)げ上げ掛けて来ていた。
「─ねえ、マスター?」空になったグラスの縁を人差し指の先でなぞりながら真弓が酔眼を上げた。マスターの目線と向き合うと少しの間の後、
「─どうして理不尽なの?」吐き出すようにそう言った。
「何がだい─?」柔和な笑みを浮かべグラスを拭く手を止めマスターが応えた。
「─みんなが幸せになってくのに、何で─どうして、─わたしだけ」不意に声が詰まるとまた涙が溢れ掛けた。
「─糸の話、知ってるだろう?」カウンター越しにゆっくり向き合った後、自分の小指を立て笑みを崩さずにマスターが言った。
徐に頷くと、
「本当に繋がってるのはね、一人だけなんだ」そう言った。
「─何十億分の一。その中の本当に一人だけが君と繋がっていて、たった今、君の糸を辿り始めてる。─いいかい、目を閉じて─?」その言葉の通り目を瞑ると、
「─想像してごらん?─その人はどこにいるんだろう─。今、何をしてるんだろう─。優しい人だといいな─。どこで自分を見つけ、どうやって出逢うんだろう─」そう続けた。
目を閉じると店内に流れている「ラウンドミッドナイト」の旋律に混じってその言葉に引き込まれるように瞑想の中でふと誰かの存在を感じた気がした。
「─ありがとう。マスター─」目を開け何故か紅潮した頬を両掌で隠すようにし、吐息を吐く様に礼を言った。
「ね、感じただろう?確かにいるんだよ」右の人差し指の甲で眼鏡を上げ改めた笑みを浮かべてマスターが言った。
「なあに?何また気障(キザ)なこと言ってんのよ─」奥からエプロンで手を拭きながら早紀さんがまたにこやかに現れた。
「ホントにこの人は気障ったらしいんだから」にやけ顔を向けて言うと、
「─んっとに何だよ。せっかく取って置きの魔法でまゆちゃんを慰めてたのに」唇を尖らせてマスターが応じた。その様子が可笑しくて真弓が笑うと二人も顔を見合わせて笑った。
「─あ、はい。今日のサラダのレシピよ。コツはドレッシングよ。キャンティドレッシング。それのレシピも書いといたから。お料理好きのまゆちゃんなら、簡単に出来るわ。あ、あと混ぜ合わせの時は軽く、ふわっとね」そう言って大き目のメモ紙を差し出して来た。
「わあ、ありがと。早速作ってみる─」顔を綻ばせて丁寧にメモを畳みバッグにしまう真弓に向かって、
「─あのね。まだまだ若いのよ?あなた、ホントに綺麗だし魅力あるんだもの。もっともっとたくさん恋をしないと。あたしもこの人も、たくさん経験して、傷ついて傷つけて来たの─この人の言うとおり、どこかに必ず縁は結ばれてるの。━あたしも昔痛い目に遭ってね、ずっと男なんて信じてもなかった。でも、出逢えたの─この人も同じであたしと付き合い始めるまで、六年以上も前の女の影引きずってたんだから、ね?」そう言いマスターに目を向けると俄かに何かを思い出した様で可笑しさに耐え切れぬ風に綺麗な紅色の口元を右手の甲で隠し、笑い声を押し殺す様に華奢な肩を揺らした。
「─どんな理想なの?まゆちゃんは」早紀さんの投げ掛けを躱(かわ)すように少しだけ笑顔を引き攣らせてマスターが目を向けた。その時不意に、
『─何だえ─?逢引きに鰻一つもご馳走してくれんかったんか?そないな男はあかん。ウチのじいちゃんみたいに、身銭吐き出したかて美味いもん食わしてくれる男やないと─』昨春、亡くなった祖母の関西訛りが記憶に蘇った。
真弓が二十歳を過ぎた頃、放蕩三昧だった父親が入り浸っていた水商売の女の元から帰ってこなくなり夫婦はやがて離婚した。
その後間もなく生活を思案した結果母は小料理屋を経営する選択をし、その資金を肩代わりして貰うと言う条件で祖父母を呼び同居することになった。
店の仕込を含め当初独りで全てをこなさなければならない母親の代わりに真弓が家事の殆どを担うようになり、以前は大きな工場で寮の賄いも経験したと云う祖母に教わりながら自然と料理好きになって行った。
「─家でこさえるもんは、安いもんで節約してな。けど逢引きん時はうんと贅沢さしたる。奮発して、馳走の出来る男でないとあかん。いつも鰻くらい馳走出来る男やないとな。じいちゃんはな、どないな無理したかて逢引きん時はご馳走してくれた─」そう笑みを浮かべ懐古の目を細めて良く話していた。

「─鰻」真弓がポツリと言った。少しの間の後、
「え─?」マスターがきょとんとした目を向けてきた。
「あのね、─鰻をご馳走してくれる人─」そう繰り返し酔眼を見上げた。

席を立ち財布をしまい掛けた時、スマホが着電のシグナルを点滅させているのに気づいた。確かめると先刻の男からだった。
続け様に幾度も掛け直して来ている様子だった。留守電にもメッセージが入っていたが聞かずに削除すると直ぐに番号も着信拒否した。ついでにラインをチェックしかけた時、画面に白枠で表示が入った。『あなたとお話ししたい男性が待っています─』女性は無料だと云うことで先般加入したマッチングの運営サイトからだった。何故かまた鬱屈(うっくつ)した気分が頭を擡げ上げて来ると内容を確かめもせずまたバッグにしまい込んだ。

『─あなたを待っている男性からのご連絡です』そう再三入るメッセージをやっと確認したのは数日経ってからだった。
加入したサイトは真剣に恋人や婚活に臨む男女を募集していて口コミや評価も高く特に男性が加入の際の審査がきちんとしていて安全だとされていた。
昼の休憩時間、お気に入りのプーさんの絵柄のティーカップのお茶を啜りながら入っていた数件のメッセージと写真を見ている内に一人の男のプロフに目が止まった。
同じ歳で登録の住まいも駅二つしか離れていない。決してハンサムな顔立ちではないが屈託なく見える笑顔が印象的だった。
他の男は皆一様にこなれた感じのポージングで映りこんでいたが彼だけはどこか朴訥(ぼくとつ)な雰囲気でその笑顔に引き込まれるように真弓も思わず写真に向かって笑みを零した。

長身で細身の男は駅前の噴水の前に立っていて真弓の姿を認めると写真と同じ笑顔で深々と一礼した。
「初めまして。八坂です─」初めて聞く声のトーンは思いの外落ち着いていて、笑顔はやはり嫌味を感じさせないものだった。
「─あの、当てて見ましょうか─?ディズニーのキャラがお好きですよね─?」昼の休憩時間が過ぎたからだろうか、割と空いているカフェの店内で向き合い暫く談笑した後男がにこやかに口を開いた。
平日が休みの真弓と男も休日が重なっていて初めてのデートの日に申し合わせていた。
「─え─あ、はい」何か類推できる物でも身につけているのか思わず身の周りを見回しながら曖昧に頷くと、
「─プーさん、だよね?」笑みを崩さずに男が言った。小学生の頃から大好きなキャラクターで今でも新しいグッズを集めては大切にコレクションしている。
「─え」きょとん、と改めて驚いた目を向けると、男は耐えかねた風に声を押し殺し肩を小刻みに震わせ始めた。首を傾げ訝しげに見つめると、
「─憶えてないよなぁ、やっぱり」そう言って小さく息を吐くと少しだけ真顔になり、
「六年の時に同じクラスだった八坂だよ。八坂 一─。漢字の一を書くから、いち、って呼ばれてた─」そう続けるとまた笑顔を戻した。円らな目を上にあげ少しの間思考を巡らせた後、
「─あ─?」見開いた眼差しを向けた。だが記憶にある男の面影はクラス一の肥満体型で男の癖に声が高く頻繁にイジりの対象にされ、ぴちぴちの半ズボンを履いた少年だ。どうしてもイメージが重ならない。暫くの間の後、
「─あの、─ホントに─?」驚きが収まらず半ば茫然と男を指差していた。
「思い出してくれた?」男が再び笑顔を向けた。にこやかなその表情を改めて見つめながら、漸く遠い昔に揶揄(からかわ)れては笑っていたその口元の記憶に思い当たった。

「─いくつ─?」シュガーポットに指を伸ばして八坂が訊いて来た。少しの間の後、
「え─やだ、同い歳じゃない─」そう応えると、今度は声を立てて笑い出し、
「─違うよ。ダージリンティに入れる砂糖の数だよ。二つでいい─?」ポットに触れた指先までを震わせてもう一度そう訊いて来た。
「あ─やだぁ─もう─」真弓は真っ赤に頬を染めて俯いた。俯き苦笑しながら目の前の同窓生の変貌振りに改めて驚きを隠せないでいた。
「─男の人って、変わっちゃうのねえ。随分」正直な感想だった。
「─痩せたからね。随分食いしん坊、我慢してさ。─背は高校に入学してから自然に伸びた」八坂がまた笑った。
俄かに懐かしい感情が湧き上がると真弓は久方ぶりに自然に笑みを返した。
「びっくりしたんだぜ?その─あまりにも変わってなくてさ。プロフの写真見た時、一瞬で判った。君だって─」手元の自分のカップにミルクを入れながら八坂が言った。
「─歳、取ったわ─」小さく息を吐いてそう応えると、
「綺麗なままだよ。あの頃と変わらない─まさか、またこうして話せるなんて─」目を手元に落としてそう言葉を重ねて暫らくの間の後、
「─中一の夏休み前、憶えてる─?」口籠る様にそう訊いて来た。
「中一の─あ、─」間もなく思い当たった。
7月24日─自分の誕生日の事だった。
一学期の終業式と重なったその日、誕生日のプレゼントを渡すため昇降口で待ってくれていたのだった。
友達も一緒にいたため恥ずかしくて礼も言わなかった。
八坂は頬を赤らめ黙って赤いリボンのついた包みを差し出すと足早に走り去って行った。
家に帰り包みを解いてみると中には蜂蜜の壷を抱いたプーさんの可愛らしいぬいぐるみと、一枚のCDが入っていた。再生してみると当時流行っていたウルフルズの「明日があるさ」が辿々(たどたど)しいギターの音と野太い歌声で録音されていた。メッセージは入っていなかった。
新学期になるとどうした訳か学校で彼の姿を見ることはなくなり男と同級の女子に聞いてみると夏休みの間に別の町に転校したのだと聞かされた。

「─デブで不細工はイヤだって言ってたって─。ショックでさ─俺。それから頑張って減量したんだ。ま、顔だけは何ともなんないけど、さ─」そう言って苦笑した。
「─え?わたし、そんなこと言ってないよ?誰に聞いたの─?」そう応えた時、テーブルに置いたスマホが震えた。

「─そうか。よかったぁ─何だか、ホッとした」八坂は言うと大きく溜息を吐いた。
「うん。だってホントだもん─」思わず口を尖らせてそう繰り返すとまた笑顔を向けて来少しの間の後、
「─あのさ。何でこんなサイトに入ってるの?」少し遠慮気味な口調でそう訊いて来た。咄嗟に返答に窮(きゅう)していると、
「あ、ごめんね?変な質問した─いや、君ならいくらでも言い寄る男がいるだろうし、─もうとっくに─その─結婚してるかと─さっきの着電も、その─もしかして─」俄かに目線を逸らすと赤く染めた頰を俯けそう口籠った。
「そんなんじゃないよ。─全然声掛けてくれる人なんていないし─」言い掛けながら一瞬件の男の不気味な目つきが浮かんだが慌てて首を振った。
「─縁がないのよ」苦笑し吐き出す様な自分のその物言いに、改めて小さく息を吐いた。
「─ちゃんとした恋愛がしたくて─」もう一度そう言うと、
「信じられないな。─君みたいな人がまだフリーだなんて─」そう言い見つめてくる眼差しが優しく温かに感じた。

「─ちゃんとした、恋愛」駅前で八坂と別れた後夕刻の雑踏を歩く歩調を緩め、水を求めているのか噴水の飛沫に纏わり飛び回る番いと思しきセキレイのダンスをぼんやり見つめながらそう呟いてみた。
丁度帰宅ラッシュに重なりそうな時間で忙しなく行き交う人が増えて来た。
真弓は足を止めベンチに腰を下ろすとまた小さく息を吐いた。
初恋─。
短大を卒業し就活に苦戦していた頃、一度だけ恋愛と呼べるだが誰にも話すことの出来ない哀しく切ない恋を経験していた。周囲が恋バナに色めき立ち殆どの子が華やいで見えたあの頃─。
忘れ難い記憶はいまだにひりひりした痛みを伴い、思い返す度に胸の奥深くで脈打つ様に感じる。
相手はバイト先のファンシーショップの店長で既婚者だった。
容姿はさほどではないが優しい物言いと接客が好評で他の女子社員やお客にも人気があった。
その日はクリスマスを翌月に控えディスプレイを含め商品の陳列を一新する作業をしていた。夜の9時を過ぎ徐々に皆が帰宅する中、通りに面したウィンドウの吹きつけを任された真弓の仕事だけが中々捗らなかった。
「もう遅いから、後は僕がやっておくよ。早く帰らないと─」いつもの温和な笑顔で店長が言った。
「あ、はい─すみません。不器用で─よろしくお願いします─」素直にその言葉に礼を言い頭を下げると店長は改めて笑顔で頷いた。母と約束していた門限は9時まででとおに過ぎてしまっている。
急いで着替え店を後にした。だが足早に駅に向かっている途中俄雨が落ちて来た。冷たい雨だった。ふと置き傘をしていることを思い出し踵を返して店に戻り裏口のドアを開けようとすると、何やらくぐもった話し声が聞こえて来た。電話はレジの横にあり内容は良く聞き取れないが話し振りから相手はどうやら親しい仲らしかった。
「─だから帰ったらちゃんと話すよ!まだちょっと掛かるから!─」初めて聞く憤りを孕(はら)んだ激しい物言いだった。同時に乱暴に置かれた受話器の響く音に真弓は思わず後退りした。
入り口の左側にある傘立てから素早く傘を抜き取り足音を忍ばせて背を向けた時、
「まだ、いたんだね─」穏やかな声が聞こえて来た。振り返り見たその笑顔が少しだけ疲れて見えた。
「─聞かれたみたいだね。実は今、家の中がちょっと落ち着かなくてね─恥ずかしいな─ごめんね─?」店長はそう言うと顔色を曇らせ俯いた。
「あの─だいじょうぶ、ですか─」どこか居た堪まれなさから逃がれる様にそう訊くと、
「─ありがとう。─難しいね、結婚って─。愛だけじゃどうにもならないこともあって─」そう応えて苦笑した。
寂しげなその表情にいつも何にでも真剣に取り組む真摯な人間性を改めて確かめた気がすると、自分の中にあった尊敬の念が徐々にどこかやるせない切ないものに変わろうとしているのを不思議な思いで感じていた。
店長の現状はそのまま自分の家の現状にも当てはまるとも思った。両親に果たして愛があるのかを推し量る術に思いは及ばなかったが。
その晩、二人は食事をし夜半にホテルで結ばれた。当然真弓にとっては初めての体験だった。
それは決して一時的で短絡な感情からの火戯びなどではなく、惹かれ合った男女の間に起きたごく自然な成り行きだったと今でも振り返ることがある。

憧れていた「相思相愛」に浸る至福は例えようもなく、父母の不和に項垂れていた日々が嘘の様に華やいだ毎日に変わった。
秘かな逢瀬に相手の家庭が時折見え隠れすることもあったが唇を重ねるだけでそんな背徳の念は霧消した。
抱かれると昂まる欲情は相手の心の奥底までを求め、ただ激しく貪りつくようにその呼応に身も心も任せ切った。そうすることで全てが満たされる気がした。
だが幸せは長くは続かなかった。
倫理の果てにある道理がその愚行に当たり前の罰を下す様に─。
天網は許されざる過ちを決して洩らすことはなかったのだ。
懐妊に気づいたのは二ヶ月を過ぎた頃だった。不順な生理は以前から度々あったがすぐに異状を察知した。
検査薬を試みると明らかな陽性反応だった。だが事実を伝えるべきかを悩み苦しんでいた折突然、別れを告げられたのだった。奥さんが重篤な鬱に陥ってしまったということだった。母親と同居し頻繁に諍(いさか)う内に深く病んでしまったのだと言う。
「─ごめんよ。今、僕が見捨てる訳にはいかない─罰が当たったのかも、な─」それが別れの言葉だった。
店長は間もなく店を辞めた。最後の日、帰り際に手紙を渡された。
「─ごめんよ。君は何も悪くない─どうか、幸せになって欲しい」右肩上がりの癖のある文字でそう書かれていた。涙が自然に溢れてきて、その場にいた誰の目も憚(はばか)ることなく泣いた。
その晩真弓はその手紙を抱き締めて寝た。
切なさが次から次へと押し寄せて便箋に頰をつけると愛した人の匂いがする気がした。

同意書に適当な名の保証人を立て提出し、間も無く堕胎の施術は淡々と行われた。
ガチャガチャと器具の触れ合う無機質な音を遠のく意識の外に聞きながら自然に涙が溢れ出た。
身内にも誰に言える筈もなく、死んでも自分の胸の中にしまい込んで置かなくてはならないことを覚悟した。
尊ぶべき命への冒瀆(ぼうとく)─自分は今まさにその許されざる罪を侵すのだ。自らに嫌気が差し死ぬことも考えたが、ふとした時に意識する胎の内の脈動がそれをやっと思いとどまらせた。
慰めてくれる人間はどこにもいなかった。
鈍く重い痛みが取り返しのつかぬ贖罪を求め自分を詰(なじ)っている様に感じた。
横たわるベッドの隣の薄い壁を隔てた向こう側の部屋で休憩中と思われる看護師たちの明るい話し声が恨めしく、笑い声が上がる度に嗤(わら)られている錯覚に耳を塞いだ。
自分を許せなかった。穢らわしいとさえ感じた。
以来傷心は心の奥深くに燻り続け、だが乙女心は切ないほど恋に焦がれ彷徨(さまよ)い続けているのだった。
取り出したスマホの画面を見るでもなくしばしそんな感傷に浸っているとマナーモードが着電を報せた。
確かめると先刻の記憶にない番号だった。時々掛かる何かのセールスの電話だと思ったが執拗に長く震えている。
怪訝に思いながらも出てみた。少しの沈黙の後、
『─今、どこにいるの?』そう含み笑いを籠らせた声は間違いなく先般のいやらしい男のものだった。

「─あのね。わたし─あなたが思うような女じゃないのよ」にこやかな笑顔を向ける八坂に真弓は顔を俯けて呟くように言った。
「─え?どうしたの─?」八坂は変わらず温和な表情で見返すとのんびりした口調でそう問うて来た。真弓が押し黙っていると、
「三澤は三澤だろ?何が違うの─?」真弓のティーカップに砂糖を入れながらそう言った。
翌週二人は同じカフェで二度目のデートを約束していた。
「─もしかして、過去のことを言ってるの─?」少しの間の後、笑みを崩さずに八坂が言った。
真弓が眼を上げると、
「─当たり前だよ?もう大人だもの、俺たち。色んなことを乗り越えて来て今があるんだ」そう言うと今度は自分のコーヒーにミルクをたっぷり入れながら、
「─人は多分、物心ついた頃から秘密を抱き合わせながら生きてる─誰にだってあるよ。─誰にも言えない─言いたくないことの一つや二つ─知られたくない─心の奥底の部屋に閉じ込めてる─内緒話が─」そう繰り返してまた優しい笑みを上げた。
その眼差しを見つめた時、不意にまた切ない気持ちが迫り上げ危うく涙がこぼれそうになった。
真弓は慌てて顔を俯けると、膝の上に置いたハンカチを取りそっと目頭にあてた。暫くの間の後、
「─俺仕事、辞めることにしたんだ。─もう一度だけ、夢を追い掛けることに決めた─まだ誰にも話してない、俺だけの内緒話─」取り成す様に明るい調子で口を開いた。真弓が驚いた眼を向けると、
「─学生の頃やってた舞台─。どうしても演劇が諦め切れなくて─劇団を主宰することにしたんだ─手話と副音声を前面に取り入れた、誰もが例えば障害を持つ人たちも愉しめる─感じてくれる演劇─。いつか完全にバリアフリーの劇場造って─」俄かに身を乗り出し、まだ再会したばかりの自分に持ち合わせのお気に入りの写真をポケットから取り出しただ嬉しげに見せようしてる様なその無垢さが眩く見えた。そこに理解の強要は微塵も感じられない。
眼差しの輝きが不意に遠い日、昇降口で頰を染め赤いリボンの包みを大事そうに抱えていた面影に重なり真弓は懐かしさに思わず笑みみを返し幾度も頷いていた。
「─すごいね。良く決断出来たね。─ホントにすごいよ─今、わたしには語れる夢も─何の挑戦も決断もないもの─」何故か声が詰まりそうになった。
どこか底の方からゆらゆらと湧き上がる感情が何なのか、誰に向けるべきものなのかその時はまだ見当がつかなかった。
「─あのね─」そう言い掛けた時、バッグの中でまたスマホが震えた。

「─だいじょうぶ?何か大切な用事じゃないの─?」着電に応じない様子を見て不安げにそう訊いて来た。曖昧に頷く真弓の耳に、
『─何だよ。せっかく仲良くしてやろうとしてんのに。ふふ、─他にも携帯持ってんだ。あのさ、今度着拒なんかしたら何するか分かんないぜ?俺─一応客でもあるんだ。ちゃんとした対応した方がいいと思うぜ?電話くらい出ろよな─』件の男の悍(おぞ)ましい声が蘇る。
「─何かあるの?─何だか急に元気ない、よ─?」曇らせた表情を察知したのかまた心配そうに顔を覗き込むようにして八坂が問うた。
「─ううん─。だいじょうぶ。大したことじゃないの」そう応えながら暗澹(あんたん)とした不安は隠しようがなかった。大きく溜め息を吐いた時、
「─あのさ、話してくれないか─?余計なお世話かも知れないけど─」心配そうにそう繰り返す八坂に真弓はゆっくり眼線を向けた。

広い駐車スペースの一番奥に男の車が停められていた。
スモークの貼られた後部をこちら側に向け、中の様子は判らないがどこかでジッと見つめられている確信がある。そう言えば男の職業の詳細は聞いていなかった。
『自由の効く仕事だから。あくせく働く必要もねえんだ』そんな風に嘯(うそぶ)いていたことを思い返す。
ドラッグストアと敷地を共有している店舗は客の出入りも引っ切り無しでメンテナンスの受付や細かな商品の販売で連日暇な時間がない。
忙しさに注視が逸れた頃、唐突に男が姿を見せた。暫く店内の商品を物色しながら明らかにこちらの様子を窺っていたがレジに並ぶ客が引いたのを確かめるとすかさず真弓の前に近寄って来た。
「─寂しかっただろう?わざわざ会いに来てやったぜ?」また笑いを噛み殺し執拗な目線で全身を舐め回す様にしながら男が言った。嫌悪に頰が上気した。
身を硬くして何も応えずにいると、やがて男の後ろに客が並び始めた。
「なあ、今晩店が終わる頃また迎えに来るからよ。待ってろよな─」男は低い声を抑えてそう言うとそそくさと外に出て行った。
真弓はその後を目で追いながら外のドラッグストア寄りに立っていた八坂に小さく合図を送った。
過日の着電を含め男が既にストーカー紛いの行為に及び真弓を悩ませている事実を知り、その愚劣な行動が必ずエスカレートすることを指摘した上でどうしてもそれを阻止したいと申し出、この数日店の近隣に来ては男の来店を張っていたのだった。
「─何の仕事をしてるかもはっきり分からない人なのよ?わたしが強く拒否して、何かあったら警察にでも相談するから─」そう宥める様に言ったのだが、
「─だいじょうぶだよ。話しをするだけなんだから。きちんと話せば、分かってくれるさ。どんな相手だって。心配しなくても大丈夫だから。俺は今まで喧嘩したことなんてないし、しても勝てる訳ないからね─」そう応えてまた穏やかに笑っていた。
やがて濃紺のBMWの後をついて八坂の運転する軽自動車が駐車場を出て行った。

鬱屈した気持ちで連絡を待ったがいつまで経ってもラインにもメッセージは入らなかった。
やがて閉店時間となりのぼり旗をしまい、レジスターの鍵を掛け不安に駆られながらそっと外を窺い見たがBMWの姿はなかった。
駐車スペースの端から端までを確かめてもそれらしき姿は見当たらない。真弓は安堵の息を深く吐き出すと急いで身支度して店舗を後にした。
駅までは歩いて20分くらいの距離がある。
車の気配を感じる度立ち止まり身構えながらスマホで八坂からの連絡を確かめつつ歩いている時、大通りにあるチェーン店の本屋の入り口の前でふと足が止まった。
通り過ぎようとした眼の端に見憶えのある顔がいた気がした。
少し戻り自動ドアの前に近づき貼ってあるチラシの隙間から見えるその顔を確かめた次の瞬間、凍りついた様に目線が釘づけになった。
初恋の男に違いなかった─。体型は少しだけ膨(ふく)よかになっていて髪の所々に白いものが混じってはいるが確かな面影が直ぐに記憶と重なり合った。
瞬時に頰に血が上ると身体中が火照る様に感じた。
暫く躊躇っていたが平然を装いやっと店内に入ると雑誌に集中する男から少しだけ離れた場所に立った。
皺も増え歳を重ねて来たのは明らかだが長めのヘアスタイルもそのままであの日から数えてみた実年齢よりも若く見える。
じっと見つめていると不意にこちらに顔を向けた。真弓は慌ててその目線を逸らすと顔を俯けた。
ドクドクと胸の高鳴りが激しくなり立っているだけで眩暈を覚え足が震えた。少しの間の後、またそっと窺う眼を向けると男はまだこちらを凝視していた。どぎまぎと開いていた雑誌を閉じさり気なさを意識してその場を立ち去ろうとした次の瞬間、思いもかけず男は真っ直ぐに真弓を見つめたまま少しだけ笑みを浮かべると小さく手を上げて見せた。

「─ごめんね?中々、連絡できないで。本当にちゃんと解決してからと思ってたもんだから─」いつもの柔和な笑みを浮かべて八坂が言った。
ラインを入れても既読にはなるが返信はなく連絡が取れないまま三週間が過ぎたつい先日の夜半、漸く電話が入ったのだった。
「うん─それよりも、どうしたの?その目の下─」青黒く腫れあがった右眼の下を驚いて見つめながら真弓が小さく声を上げた。眼帯で隠し切れない腫れが一層痛々しい。
「─あの、喧嘩─だよね?あいつと─」心配そうに真弓が傷を窺うように眼を向けた。申し訳ない気持ちで身が縮む様だった。
「─俺は喧嘩なんてしないよ、絶対に。言ったじゃない。しても勝てやしないしね─」八坂はまた穏やかな声でそう応えると片方の眼を細めた。
「ごめんなさい。本当に─やっぱり暴力を振るったんだね─許せない─」同時に込み上げて来る憤りに堪え兼ね真弓は形の良い唇を噛んだ。
「わたし、これから被害届を出しに行くから─」すぐに決断し席を立とうとすると、
「─もう、いいんだよ。─もう、話は済んだんだよ。もう君には関わらないって、そう約束してくれたんだ」八坂はそう言いながら真弓を手で制すると、
「─分かったって、ちゃんとそう言ってくれた。この傷は約束の印だよ。ちょっとだけ痛いけど─」そう繰り返して嬉しげに笑みを浮かべ真弓のティーカップにまた砂糖を入れた。
「─え、─でもどうやって?─一体─」驚いた眼を向けると、
「─今度はね。俺がストーカーになってみたんだ」八坂はそう応えると今度は小さく声を立て愉快そうに笑った。

深夜、ドレッサーの前で自分の顔を映しぼんやり見つめていると先刻の優しい声が耳に蘇って来る。そっと包み込む様に握られた掌の感触がまだ残っていて思い返すと切ない気持ちがまた鼓動を伴って迫り上げて来る様だった。
わたしの心はどうしたのだろう─。あんなに傷ついて別れた筈なのに─。何故またこんなにときめいてしまっているのだろう─。
知らずにいるとは言え、確かに宿した命に対する責任は男にもその一端がある筈だ。
隠し通して及んだ愚行を心の底から悔い嘆いたあの時、恨む気持ちがなかったと言えば嘘になる。
だがあの日の再会からまた残り火に自らの心を焚べる様に既に何度か会ってしまっている。震えながらも甘く切ない温もりの記憶に縋る様に抱かれてしまっていた。
「─もう、独りなんだ。三年前に離婚してね。去年この街に戻ってきて、ずっと探してた─引っ越したんだね─」本屋で再会し向き合ったカフェでそう告げられた時、込み上げて来た感情は紛れもなく熱い慕情だった。
刹那にその腕の中に戻りたい気持ちがやるせなさと一緒に湧き上がると真弓は顔を俯け泣き出したい気持ちを辛うじて堪えた。
だが零れ出た涙を拭おうと目許に右の人差し指の甲を伸ばし掛けた時、爪のすぐ下に当てがわれた絆創膏を見てふとその指が止まった。
つい先刻、カフェで水の注がれたグラスを落としてしまい咄嗟に拾おうと伸ばした指先が破片で切れた。
「─だいじょうぶ?」思わず指を引き痛そうに眉をひそめた様子を見て慌てて駆け寄った八坂が持ち合わせていた絆創膏を貼ってくれたのだった。貼りながら、
「─帰ったら、ちゃんと手当した方がいいよ」そう言って労わる様に上げた温かかな笑顔を思い返した。
もっと昔から好意を寄せてくれていて思いもかけない再会に喜びを露わにし、得体の知れない男のストーカー行為からも怖じけることなく救い出してくれた─。
あの日店から男をつけ、自宅のマンションまでを突き止めた八坂は間も無く男と対峙すると平身低頭、真弓に付き纏うことを止めて欲しいと懇願したのだと言う。
初めは鼻であしらわれ相手にもされず挙句には暴力を被ったと笑っていたが、
「お願いごとは通じるものなんだ、必ず。─同じ人間同士だから、ね─」いつもと変わらぬ穏やかな表情でそう言うとカップのコーヒーを美味そうに一口啜った後、
「─不器用なんだ。あの人も─本当に好きだったんじゃないのかな君のこと─何度も何度も頼みに行ったんだ─もう傷つけないであげてくださいって─そしたらやっと─ちょっと悲しそうな顔して─分かったよ、って─分かったから、もうそのツラ見せんなって─本当は普通に恋愛したいんじゃないのかな─あの人も─そんな風に感じた─」そう言って小さく溜息を吐き手元に眼を落としていた。
『─産まれた時から悪い人間なんていやしない。育ち方や環境が人を変えてしまうんだ─』過日呟く様にそう言っていた優しい笑みを思い返すと、今心のまま引きずっていた昔の恋を再び反芻しようとしている事実が申し訳なく胸が痛んだ。
けれども自分の心に嘘はつけない。嘘を装えばまた誰かを傷つけてしまう。もうこれ以上は無理だ─ちゃんと伝えなくては─。真弓はそう決心すると迷いを拭い去る様に艶やかな紅いルージュを落とした。

「─そう、か─。」八坂は心の内を隠さず寂しそうに笑うと何度も頷いた。
「─ごめんなさい─」消え入りたい気持ちで小さく呟くと少しの間の後、
「謝らないでよ。まゆちゃんが悪い訳じゃないよ。当たり前だけど、本当に好きな人と結ばれるのが一番だから─俺はだいじょうぶだから。そりゃあ、ショックだけど─また、新しい恋を探すから」そう言い取り成す様に向けてきたいつもの笑顔のその頰が上気して見えた。
カフェの店内に流れているモルダウの旋律が悲しく心に沁み入る様に感じていた。
「─あ、だけど一つだけお願いがあるんだ─俺が描いたお芝居。まだ主宰じゃないけど。─一度だけでいいから観に来て欲しい」そう言うと俯けた眼の先にチケットを差し出して来た。
「─うん。ありがとう。必ず観に行く」応えてバッグにチケットをしまうと、
「─ありがとう。まゆちゃん─ちゃんと─真剣に向き合ってくれて。嬉しかった─」その語尾が少しだけ震えたと思った時、八坂は初めて眉間に皺を寄せその顔を俯けた。

舞台は素晴らしいものだった。
袖に手話で内容を説明する劇団員が立っていて、暗闇の中舞台と併せてそちらを注視している人も何人もいた。芝居の内容は戦中の物語で、赤紙が届いた男が出征前日に挙げる結婚式から始まった。男は元々が反戦思想を持っていて、その深夜に妻を伴い逃亡を企てる。男を追い詰める役所が八坂だった。追い詰められ泣いて許しを乞う男の妻を動きを止めじっと見下ろした後男に向き合い、
「─自分だけでいいのか─?─貴様には護るべき大切な人がおらんのか─?生かされている今の、たった今の感謝を忘れ支えの人を裏切り、のうのうと─それでものうのうと、我が世の春を謳歌するつもりか─それが貴様の言う正義か─」低く抑えた声でそう言った。馴染みのある温厚な笑顔の八坂はそこに居なかった。
身体を震わせた真に迫る演技の中でその台詞に込めた自らの作品への想い入れが伝わってくる様だった。
台詞の後三人の演者は微動だにしなかった。
間も無く照明が暗転する直前、一瞬だけ当たった光の中の彼の顔のその目尻から頰に伝うものが見え真弓はドキっとした。
最後に夫婦は囚われ連行される。一人立ち尽くした八坂にスポットライトが当たると背を向けピシッと敬礼したその肩が小刻みに震えていて、その時真弓には小さく漏らしている八坂の嗚咽が聞こえた気がした。
起床ラッパの鳴り響く中、幕が降りた。

ホールに明かりがついても暫く余韻に浸り立てずにいた。
本当に泣いていた─。
いつの時も何にでも真剣に向き合って来たであろう人柄を想い屈託のない笑顔を思い返すと彼に対しての心ない行為を悔やみ、また胸が痛んだ。
劇に込められたひた向きなメッセージは哀しいが温かく新鮮に感じ胸を打たれた。
閉じられた緞帳(どんちょう)を見つめながら真弓は楽屋に挨拶することを考えだがそのまま帰ることにした。

週末の土曜日はイタリアン専門の店内も賑やかだった。
「─騒がしくて、何だか落ち着かないなあ─」男はそう言うと店員にリザーブに指定されている奥にあるブース席を半ば強引に案内させた。
だがそこにも少し離れてはいるが家族連れがいて賑やかに談笑していた。
まだ幼稚園生くらいと思われる女の子と、彼女より小さな男の子が歌を歌いながら嬉しそうにフォークを握っていた。
「♬ぐーちょきぱーでぐーちょきぱーでなにつくろう─みぎてがぐーでひだひてがぱーであれ?なんだっけ」そう言うと家族皆が笑った。真弓も思わず笑ったがふと見た男は無表情にメニューを見ている。見ながら、
「─やっぱり週末はダメだね。騒がしくて話もゆっくりできない─」少し不機嫌そうに眉間に皺を寄せそう言った。
「─いいじゃない。賑やかで」笑みを浮かべてまだ兄妹を見ながら言うと、
「─そう?」男は意外なものを見た風に眼線を上げた後またメニューに眼を戻して、
「─僕は好きじゃないからね。賑やかなのも─子どもも─」そう応えた。その言葉に思わず男を見つめ返した次の瞬間、真弓は自分の胎の中にドクン、と確かな脈動を感じた。同時に得体の知れない悲しい感情が押し寄せて来、無意識のうちに席を立つと外に飛び出していた。
ゆらゆら湧き上がる悲しみは涙に代わり溢れ出て来た。
柔らかな陽射しの差す雑踏を顔を伏せるようにしてただ闇雲に歩いた。歩きながら、
『─好きじゃないからね。子どもも─』先刻の男の声が耳の奥で繰り返し響いていた。

「─ありがとう。この間は」八坂は照れ臭そうにそう言うとティーカップにちょっとだけ口をつけ、
「見えたんだ。君の顔が舞台からも。─お礼を言おうとして探したんだけど─もう居なかった─」そうつけ加え優しい眼差しを向け笑った。
その笑顔がひどく懐かしく思えると真弓は不意に湧き上がり掛けた感情を慌てて抑えた。
「─こちらこそ、ありがとう。素敵なお芝居だった─本当に感動した─」やっとそう言いぎこちなく笑みを浮かべた。上手に笑顔が造れなかった。
「─よかった。一番の褒め言葉だよ」八坂はそう応えると美味そうに紅茶を啜った。
「─あら?コーヒー党じゃなかったっけ?」そう訊くと八坂はまた笑顔で、
「─あ。いつも美味しそうに飲んでたろ?この匂いを嗅ぐと、何だか君がいるみたいでさ─俺、引きずるタイプなんだなきっと─」苦笑してそう応えた時、八坂のスマホの着信音が鳴った。
「─マナーにしてなかった。ちょっとごめんね?」そう言い応対したその表情が一層柔らかくなった。
「─うん。うん。─そう。頑張ったねーえらいえらい─うん。分かったよ─はーい。約束ね─じゃ、またね─」通話を終えると真弓に向き合い、
「─兄貴の子どもでね。来年、小学校に入学するんだ」言いながら写メを見せて来た。
画面には可愛らしいお下げ髪の女の子が満面の笑みで写っていた。八坂に似た笑顔だった。
「─俺に懐いててね。今日、保育園で描いた絵が先生に褒められたって。ご褒美にケーキが食べたいって─」嬉しげにそう言った。
「可愛いね─本当に」真弓が言うと、
「─うん。可愛い─触れるとどこもかしこも柔らかくて、抱き上げるとミルクみたいな匂いがするんだ─」そう応えてまた優しく笑った。
胸の内に穏やかな懐かしいものが流れ込んでくる様な笑顔だった。
「─温かいね。あなたの笑顔は─いつも─」言い掛けたその言葉の語尾が思わず震えた。
「─今日は、どうしたの─?─恋人と喧嘩でもしたの─?」そっと労わる様な言い方に真弓は思わず泣き顔になると耐え切れず涙を零した。

「へえ、─あなたが鰻の人─?」早紀さんがいきなり明るい声を上げた。
「─はい?」笑みを浮かべたまま八坂が首を傾げると真弓は慌てて早紀に向け唇に右の人差し指を当てながら首を横に振った。
『あのね、これはって人が見つかったら必ず紹介するのよ?得意の直感で見定めてあげるからね?』その言葉を真に受け今晩初めて八坂を伴って訪れたのだった。
「─優しそうな人だね。笑顔が人柄そのものだよ─」マスターがそっとそう耳打ちして来た。
じっと観察する様に見ていた早紀は徐に真弓に眼を移すと、にこやかに頷いて見せた。

「─あのさ、お腹すいてない?」店を出、繁華街の雑踏を歩きながら八坂が訊いて来た。
「そうね。─うん。ちょっと─」そう応えると、
「─鰻、なんてどう?何だか分からないけどお店で鰻ってワード聞いてから、急に食べたくなってさ─ちょっとだけ昔の虫が─食いしん坊の─」そう言って苦笑した。

焼き立てで、戦中には疎開(そかい)させたこともあると言う秘伝のタレを絡ませた鰻は実に美味しかった。
「─この蓋を開ける時のときめきは、食いしん坊にしか分からない」そう言いながら鰻重の蓋を開け、途端に一層の笑顔になった様子を見て真弓も思わず笑った。
真弓は真弓で初めて味わう肝吸いに恐る恐る口をつける様子を笑われた。食べながら、
『鰻くらい馳走でくる男やないと─』そう言っていた亡き祖母の言葉を思い出してまた可笑しかった。

真弓が言い澱んだ男と別れた理由をそれ以上探ろうとはしない八坂の優しさは温かく胸の奥深くに沁み入る様だった。
あの日の後、執拗に理由を迫る男にとうとう堕胎した事実を告げるとそれ切り音信も途絶えた。
あまりにも呆気ない幕切れに唖然としたが返って清々しく感じた。
「─そうよね。所詮、繋がってなかったのよあの人とは、糸が─」そう呟くと笑みがこぼれた。
決して自嘲ではなかった。
古傷をさらけ出した後悔とまた改めて胸に刻み込む贖罪の覚悟はいずれ話さなければならない真実だが、今はただこうして繋いだ掌の温もりに寄り掛かっていたかった。
「─あのさ。その─何か、プレゼントしたいんだ。─その二人の記念─その─始まりの記念に─」照れているのかた辿々しい口調で八坂が言った。
いつの間にか街から外れた住宅街にまで歩いて来ていた。
小さく灯された街灯の向かいに公園があり、二人はそこのベンチに並んで腰掛けた。
「─その、何かないかな─?」八坂が改まった様子で訊いて来た。緊張しているのか繋いでままの掌が幾分汗ばんでいる様に感じた。少しの間の後、
「あのね。欲しいものがあるの─」真弓が応えた。
「何─?」顔を覗き込む様に八坂がまた訊いて来た。
「枕─。」再び真弓が応えた。
「え、枕─どんな─?」意外そうに言い八坂が眼を向けると、
「─あなたの枕。きっと、毎晩楽しい夢が見られそうだから。そしたらいつも、あなたみたいに優しい笑顔でいられそうだから─」真弓はそう言うと、じっと目を閉じた。
暫くの間の後、八坂の少し大きな両掌がおずおずと華奢な真弓の肩を引き寄せた。
二度目の初恋の味は、ちょっとだけ香ばしい匂いがした─。

      ─了─


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