『鼻毛和牛暴れ祭(下ノニ)』
鼻の穴から突如として顕現した太い毛。
無意識のうちに抜こうとしていたのだろう。
神崎は僕を見て首を振り「ダメ」という唇の動きをともなってそれを止めた。
僕はまるで親にたしなめられる子どものようだった。
金田は上條の鼻毛を今すぐに引き抜いてやりたかった。しかし、その衝動に塗り潰されるのを拒むように水槽を見つめながらこう言った。
「あなたはどこまで知っているのです?」
それは僕でなく神崎小夜子に向けて放たれた。
青みがかった照明の下、悪戯に弱らせたベタ・スプレンデンスが動きを止める。
金田は二匹のオスをそれぞれ別の水槽に入れ、おもむろにナイフを手にすると自身の指先を切った。
体内の圧力で押し出される血液を確認しその一滴を落とす。
水に浮かんだ細い毛糸のような赤がその色を無くすころ、魚は再び活発に泳ぎだし指の傷跡は消え失せていた。
「金田さん、一体なにを?」と、僕はいくつかの意味を込めて訊いた。
「迷宮器官というのをご存知ですか?」
「め、迷宮ですか?」
知りません、と言った僕を横目に金田は一人話しはじめる。
「このベタという魚は迷路のような構造の器官を持つせいで、コップのごとき小さな容器で売られている。口を空気中に出し、口に含んだ空気から呼吸をすることが出来るからです」
──なるほど、その様子はペットショップで見たことがある。鰭の大きな魚たち。色も様々でその妖艶な美しさが記憶に残っている。
しかし──。
「呼吸ができるということと、生きるということは同義ではないし、それが性質とはいえ激しく闘う魚を愛でることと、大切に飼うということもまた微妙に異なると思っています」
「それと、なんの関係が?」
僕は再び訊いたが、金田は意に介せず、小夜子に至っては先程から金田の質問に答えるでもなく、ただ黙ったまま水槽に泳ぐ魚を見つめている。
──彼女は既に知っているということか。
「どこか自分と似た境遇の存在を側に置くことで心の渇きを補っているのです。全てはこの血のせいなのですよ」
私も所詮は飼われていた、と金田が言ったあと、その場を制したのは沈黙だった。
しばらくして金田は独り言のように呟く。
「八百比丘尼は千年の寿命を得ると、その生の永さを儚んだと云うが、私の寿命は後どれくらい残されているのか──」
「重ねた年月などとうに忘れ、ただ孤独と寂しさだけがこの身に蓄積されている。同じ時を同じように過ごし、永久に認知してくれる存在が欲しかったのだよ」
何の話だ──、と僕は思う。
「私の血は少量ならば薬になるのです。傷を癒し病を治す。だからこそ彼らは私を飼っていました」
「血が薬にですか?彼らというのは?」
「ある時は老夫婦が、またある時は子に恵まれなかった女たちが面倒を見てくれたのです。ですが、私が自らの血で薬を調合する術を獲得するころには居なくなりました。もう一人でも生きていけるだろうと、そんなことを言っていた気がします。本当の理由はわかりません。そして思い立ったんです。比丘尼を私が造り出せばよいのだと──」
「まさか、人魚の肉を与えるわけにもいかなかったでしょうに」
金田の心を見透かすように、小夜子はせせら笑う。
「試しに一人の女に血を分け与えました。彼女は当時の平均より長く"生きてはいた"と思います。しかし、日に当たると肌が焼け爛れるようになり、やがて弱って朽ち果ててしまいました」
「あなたは一体?血を与えるって、それじゃあ、まるで」
「化け物みたい、ですか?」
僕の鼻毛がドクンと脈を打ったように感じた。
「あまりに目立つ行動は村人たちに疑念を抱かせる。私は洪水や日照り、流行り病に乗じてそれを造る試みを続けました。その時分から自身の血で作った薬を売っていたので、村人たちは概ね健康でした。しかし天災の折りには多くの死人が出るのです。無論それは私の血によって──。
闇雲に与えるだけでは上手くいかず、多くはその場で死んでしまいましたよ。
誰も私を疑いはしませんでした。何故なら私の作った薬を飲み続けた村人たちは「私という存在」を認知することが徐々に出来なくなっていたからです。人々は私と言葉は交わせても、暫くすると何処の誰と話したのか、顔すら思い出せなくなっていったのです」
そこに居ながらにして、居ないのと何ら変わらない存在──。
そこで小夜子が口を開いた。
「そうして、その手を隣村にまで伸ばした。でも一人の男によってその望みが打ち砕かれた、とあなたは思っているのね。でも、それは少し違うわ」
金田が振り向いた。
「突如現れた鼻毛の男。その男によって流行り病はおろか、私が血を飲ませた女たちまでもが元通りになったと後に知ったのです」
金田はこちらに歩み寄る。
「私の命の永さは、この躯に宿る得体の知れない血にその所以がある。それは適量ならば薬になり得た。反して私の望みは、孤独と寂しさは、毒でしかなくただ人を殺すのみ。私の意思と関係なく、肉体のみが生き延びていくこの感覚が耐えられなかった」
──私に流れる時は緩やかすぎるのだ。それはある意味拷問に等しい。皆が私を忘れるか、そうでなくても、私だけを残して死んでいく。
「恐らくは、神崎さんの云う蜂だけではない!その鼻毛にこそ秘密があるのではないのか!」
金田は僕を、僕の太く伸びた鼻毛を指差した。
「なのに、あの時代を現に生きた私にすらその男の記憶が無いのはなぜだ。神崎さん、どうしてあなただけが知っている!その鼻毛が、鼻毛が、祭りの"福男"の所以でもあろうに!」
それはね、金田さん──。
「その男の死に居合わせた者にしか、その記憶が残されなかったからよ」
「鼻毛和牛暴れ祭」それは神崎家の先祖が後の世につけた名称であり、もとはただの「暴れ祭」だったのだと小夜子は静かに明かした。
それは同時に、その後、忽然と姿を消した隣村の男、つまりこの「金田」と、いずれ現れるとされた「也彦の生まれ変わり」を探し出すため。そして、悲しい記憶を宿す「小夜子」の呪いを解くためだった。
◼️◼️
「その男はどこの、どいつだい」
そう声をかけてきたのは、三郎だった。
「なに言ってるんだい、あんた。この間、この人の鼻毛を拝みに来たんじゃなかったのかい」
「鼻毛だって。知らねえな。そいつも病か。まさか……死んでんのかい、そいつ……」
見知らぬ男であっても、気の毒そうな顔を三郎はしてみせた。
「よくわからんが、流行り病にかかった連中も、日にあたって肌を焼いた女たちも、地蜂に刺されてみんな治っちまったってよ。不思議なこともあるもんだって村中大騒ぎだ」
「それによ、おさよさん」、そいつの鼻には拝むような立派な毛なんぞ生えてねえ、と三郎は也彦の鼻の穴を覗いて言った。
「それは、さっき──」
爆ぜたのだ。
無数の蜂に刺されて腫れ上がった也彦の体からその毒を吸い上げるように鼻毛は膨らみ、そして爆ぜた。
あわせて腫れはみるみる引いていった。にもかかわらず、この膝の上で也彦は息絶えたのだ。
もしかしたら、とっくの昔に事切れていたのかもしれないと、おさよは思っていた。以前、也彦は小さな一匹の蜜蜂に刺され三日三晩寝込んだことがあった。
「それにしても可哀想な男だ。何かの病であれ地蜂に刺されてりゃ、助かったかも知れんのに。とりあえず、誰であろうと弔わなきゃなるめえ」
村長に知らせてくる、と三郎はおさよのもとを後にした。
──お前さん。お前さんはこれ以上ないくらい刺されたんだ。さぞかし痛かったろう……。
「わたしが、お告げなんて言ったばかりに、ごめんよ、ごめんよ。こんなことなら、あたしは死んだ方がましだった。鼻毛なんて鋏で切ってしまえばよかったんだ……」
三郎が村人を数人連れて帰ってきたが、誰もが也彦のことなど知らないと口を揃えた。
「このお人が……蜂を村まで連れてきてくださったのさ……」
それだけ言うと、おさよは泣き崩れた。
雨がぽつり、ぽつりと降りだす。
ようやくの雨。
おさよは雨などもうどうでもよかった。
膝の上の也彦が「俺のことはいいから、達者で暮らせ」と言ったような気がした。
おさよの涙の本当の理由を知るものは誰もいない。也彦を知る者はおさよを除いて、きっともう誰もいないのだ。
おさよは一人「そういうことなのだろう」と納得する。
「お前さんは、こんなんでよかったのかい」
おさよは也彦の胸にそっと顔を埋めた。
◼️◼️
僕は一瞬、夢を見た。
夢のなかで夢を見た。
これは僕の知るはずのない記憶、なのか。
「也彦、也彦や」と呼ぶ声がする。
「細かいことは気にするな……」
「説明しておる暇はない。わしのことは何とでも呼ぶがよい。まあ聞け……」
「わしの力ではないが雨はじきに降る。が、それとは別の話じゃ……」
「とにかく、聞けと云っておる──」
全身が赤く爛れ、血の滲んだ女がいた。息も荒い。ただ顔だけが蝋のように白かった。
草履を引っ掴み土間から飛び出る男の姿。東の空か、卵の黄身のような朝日が顔をのぞかせている。
「あれが上がりきる前に神社へ行けと」
また男の声が聞こえた。
「ええい、忌々しい鼻毛め」
頬を撫でる鼻毛がうざったい。
弱々しい日の光が一筋木々の合間を抜け崖の一点を指していた。藪の中、洞窟の入り口らしき闇がある。
藪をかき分け穴を覗くが中は闇が広がるばかりで、どれくらいのものか見当がつかない。腹這いになってやっと入ることができた。思ったよりも広さがる。腰を屈めて立つことができた。
見据える。目が慣れようとただただ闇があるばかり。外の光も届かない。
「なにもねえか」
男の声がした拍子、闇が蠢いた。
──何か音がする。
一匹の虫が耳元をかすめ洞窟の外へ翔んでいく。手を伸ばし闇をまさぐると、突然火の粉を浴びたような痛みが走った。
慌てて伸ばした腕を戻し、はたく。手のひらにどこか覚えのある感触。蝿のようだが蝿より硬い。しっかりとした虫。足と羽がある。そして、おそらく針がある。
──蜂か。無数の蜂の群れ。
やがて洞穴は闇を吐いた。
男に群がる地蜂は離れない。黒い塊となった男は立ち上がり来た道を戻り始める。夥しい数の蜂で男の姿は見えない。
歩き出すとちくり、ちくり、と蜂は男の体をあちこち刺しだした。堪らず走り出す。
とにかく、あの女のもとに向かわなければならない!
それは自分の見ている光景なのか、それとも僕自身なのか、分からなくなっていた。
ともかく、男は蜂を村へと持ち帰った──。
◼️◼️
「およしなさい!金田さん!」
僕は小夜子の声で目が覚めた。
白昼夢を見ている間に何か起こったのか?
金田の腕が目の前に迫っている。
鼻に手を伸ばし鼻毛を掴もうとしている!?
僕は咄嗟に後ろに退いたが、背中はもはや壁だった。
ドンッ!と激しく背中を打ちつける。壁沿いのチェストから何かが大きな音を立てて落ちたが、それを見る余裕はない。
鼻毛がぽとり、と独りでに抜け落ちた。
「あっ!」
落ちた鼻毛は脈動し金田に取り付くと、足から腕へとするすると這い登り、やがて左の鼻に収まった。
「金田さん!その鼻毛はあなたを救ったりはしないわ!は、はやく!」
「おおぉぉぉぉぉ!!!」
金田はうずくまり、顔を両手で覆っている。
「それは、毒を喰らう蟲なのよ!あなたの血をきっと吸い出すわ。そうなればあなたは、もう──」
金田がむくり、と起き上がる。
鼻の穴から先ほどよりも大きく、太く伸びた鼻毛が垂れ下がっている。
「いいんです。神崎さん。これは単なる鼻毛なんかじゃない。それは私も知っている。そして私もヒトじゃないんです、きっと」
「じゃあ、どうして?」
「鼻毛じゃないモノが鼻毛のふりをし、ヒトじゃない者がそのふりをしていたんです」
そう言う金田に取り付いた鼻毛はすでに膨らみはじめている。
「私もいろいろと調べてはみたのですよ。そしてこのバンコクにたどり着いたのです。この地で、いくつか鼻毛に似た蟲の伝承を発見したのです」
なにより、この国の若者たちは鼻毛が伸び、その毛が鼻から姿をのぞかせようと一向に気にする気配がない、と金田は言った。
──それは、本当なのか?イケメンであってもそうなのか?
「私は人間たちに愛情というものを与えられ、いつしか自分も同じ人間のような気になっていたのかもしれません。溺愛されるペットのようにね。この出会いが全て神崎家の思惑だったとしても、こうしてあなた方に会うことが出来てよかった、決心がつきました」
今、私の時が激しく流れ始めるのを感じるよ、と吐露する金田の白い肌は赤みを指し、指先からは鮮血が滴り落ちている。
先ほど切りつけた傷口が開いているのだ。
そして、鼻毛は大きく膨らみつづけ、やがて黒い粘性の液体を趣味の良い部屋にぶちまけた。
「うわっ!」
僕は思わず声をあげた。
顔と体を黒い液体で染めた金田が手を差し出す。そこにはカプセルが二つ握られていた。
「さあ、これを飲んで帰りなさい。飲めばあなた方の記憶に私という存在はいなくなります」
「そ、そんな──」
僕は会ったばかりのこの男に、何とも言い難い感情を抱いてた。同情でもない、哀れみでもない。この感情に名はあるのか。
彼は誉められるような行いをしてきたわけではないのかも知れない。
──そうであっても、それは。
「金田さん、あなたはただ──」
「わかったわ」
小夜子はそう言ってカプセルを受けとると、一つを僕に渡し、残りの一つはハンカチに包みポケットにしまった。
「小夜子さん、いいんですか?」
「いいのよ。これは、彼自身が決めたことなのよ」
そう言い放つ小夜子の表情は、言葉とは随分そぐわないものに僕には写った。
*
金田を部屋に残し、僕達は外に出た。
初めてのバンコクの夜が明ける。
朝日が空を赤く染めていた。
今日もどこかで激しい雨がふるのだろうか。
「民族学者をしてるとね、現代では祭りだったり、一見滑稽に見える風習や風俗の背景に悲しい物語があるなんてことはざらなのよ」
「そうなんですか」
黒い液体をぶちまけた金田の姿が頭から離れない。どうしてこの女性は平気でいられるのだ。
いや、平気なはずはないのだ。
僕が也彦の生まれ変わりなのだと小夜子は言ったが、ここまで来た理由は単なる好奇心に端を発している。
一瞬の白昼夢とて、僕自身の記憶なのか、あの鼻毛に見せられたものなのか判断がつかない。
しかし、僕はそれを見たのだ──。
そして、彼女はおさよという女の記憶を繰り返し見ているはずなのだ。
「わたしたち"小夜子"は何度も何度も"おさよ"の記憶を見たわ。でも記憶の全てではないの。"也彦"という男に纏わる記憶だけ」
きっと悲しくて、さみしくて、悔やんだんだと思う。そして普通に彼を愛していたんだと思う、と小夜子は言った。
それはきっと彼女自身の記憶ではない、が、彼女しか知り得ない女の記憶ではあった。
そして、それを探し求めた金田という男。
「鼻毛和牛暴れ祭」は僕の陳腐な想像とは随分違った物語だった。
小夜子はバンコクの朝の空気など、いつも味わっているという風にただ歩きながら呟いた。
「あの蜂は神様の化身に違いない」って、人々は感謝し大きな切子灯籠をつくり、御輿を担いで盛大に村を練り歩いたのよ。それこそ暴れるようにね」
「それが暴れ祭?」
「そうよ。その影にあの男がいて、おさよがいて、あなたがいただけのこと、なんだけどね」
「ごめんなさい。あなたを巻き込んで。でもあなたがいなければ何も解決はしなかったの。そうでなければ、あの金田も、私たち小夜子も、あの時の牢獄に囚われ続けていたわ」
小夜子は顔を僕にそっと近づけた。
「ほんと、ごめんなさい」
そう言って、小夜子は僕の短い鼻毛を引き抜いた。
「いたたっ!な、なにを!」
「だから、ごめんなさいって」
小夜子は笑っている。
「鼻毛は抜いてはいけないのよ。そこから化膿したりするから」
本当はハサミで切るのが正しいの、と小夜子は笑ってみせたが、その顔はとても悲しそうだった。
「ああ、やっと夢がかなった気がする。すっきりしたわ。あの薬をどうするかはあなたに任せる。どうとでも好きなようにするといいわ」
小夜子さんは、と言いかけて僕はやめた。
それこそ彼女の問題なのだ。
記憶を宿してきた"神崎小夜子"の権利でもある。
「お腹が空いたわ。わたし、お肉が食べたい。和牛はないと思うけれど」
「肉だって?しかも朝から」
僕はショッキングなあの光景から未だ抜け出せずにいた。肉どころか、食欲なんてまるでない。
どこからかモーニング・チャントが聞こえる。ここはタイのバンコクなのだ。僕はすっかり忘れかけていた。
*
きっかけはたったひとつのネットに放たれた投稿だった。いや、それはもう違う。
遥か昔、誰も知らない「ひとつの存在」の孤独と寂しさが始まりだったのかもしれない。
それは人ではない何か。
その後、金田という存在が、あの鼻毛が、どうなったのか僕は知らない。
ただ、あのカプセルは今も僕の部屋の引き出しの中にある。
日本に帰ってきた僕は、やはり安逸をむさぼっていたわけではないが、日々の生活にはそれなりに気を配ろうと心がけた。
気を配るといっても具体的に何をしてよいか分からず、とりあえず鼻毛の手入れでもしようと鏡の前で鼻の穴をさらしていた。
携帯が着信を告げる。見ると"神崎小夜子"の表示。今時めずらしく電話をかけてくるような女性なのだ。
電話口で小夜子が言う。
「鼻毛、伸びてない?わたしが来るまであなたも含め、誰にも切らせちゃだめよ。わたしが切るんだから」
僕の姿をどこからか見ていたかのようにそれだけ言うと、小夜子は一方的に電話を切ってしまった。
その資格が彼女にはある、と僕は思った。
もう少し鼻毛を伸ばしてから彼女に連絡をすることにしようか。
それが今の僕に出来る唯一のことのように思われる。
とはいえ、鼻毛などと云うものは、やはりそれを生やす人間の意思とは関係なく粛々と伸び続けるものなのである。
〈了〉
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