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『ナフダ』

一番大きな駅から南に一つ、ただそれだけで黄昏のホームに吹く風が頬に心地いい。

人肌を恋しくさせる秋風というものは、現実の人間関係に対してどのくらい危うく働きかけるのだろうか。

そんなくだらない妄想を風に吹かれながらした。

少し貧相な身体つきをしている私は重ね着ができるこの季節が好きだ。

あれこれと組み合わせを考えるのも楽しいし、何よりふっくらとした見た目になれる。

帰りにセレクトショップに寄って、秋冬物を幾つか買った。
流行りではないスタンダードな色とデザインだけれど、自分の着たいものをちゃんと買った。

店を出ようとした時だった。
私は唐突に名前を言い当てられ困惑した。

確かにこの店で氏名を記入した記憶はある。
でもそれはもう三年は前のことで、ポイントカードか何かを作ってもらった時だったと思う。

当時とは店員も入れ替わっている訳で、何者でもない私の名前を覚えている必要はどこにもない。

しかも、店員は私の名を呼んだあと、軽く会釈をしただけでその場を立ち去った。

怪訝な思いを胸に、二つ三つ路地を曲がる。
洒落たカフェを見つけて、私は中に入った。

すると──。

また名を呼ばれた。
今度も知らない男だ。
焦げ茶色のエプロンをしているから店員なのだろう、と思う。

さっきと同じように、名前だけ。
さんも様もない。
呼び捨てなのだ。
それでも笑顔。
そこが気味悪かった。

どこかに私の写真が名前入りで貼り出してあるのでは? と思ったけれどそんな事もなかった。

思いきって店員に尋ねてみると
「それ」と男は胸を指差して笑った。

私は自分の胸元に視線を落とす。
が、何もない。
社員証をぶら下げている訳でも、悪戯に紙を貼られている訳でもなかった。 

仮にあったとしても、洋服を選んでいる最中に気が付くはずなのだ。

幾らずぼらな私でも見落とすはずがない。

ハートが可愛らしく描かれたカフェ・ラッテは、恐ろしく味気無いものだった。

カフェを出て少し歩いた。
辺りはすっかり夜の装いである。

水色のランドセルを背負った少女にすれ違いざま声をかけられた。

「…マイダ、シズ…」

私ははっとして、振り向く。

「…マイダ、シズ…」

よく聞き取れない。
が、私は名を呼ばれたのだと思った。

「どうしたの? 今、私の名前を呼んだ?」

そう私は尋ねてみた。

「ヤマイダ、シヌゾ…」

今度は、はっきりとそう聞こえた。

──病だ、死ぬぞ。

確かにそう聞こえた。
だが、それは少女の声などではなかった。
聞き覚えも一切ない男の声だった。

声と同期していないその小さな口が、再び言った。

「ヤマイダ…シヌゾ…」

少女は自身の胸をそっと指差した。

その瞬間、私の胸が激しく痛みだした。
息が苦しかった。
動悸が尋常ではない。
私はその場で倒れたのだと思う。
気が付くと病院のベッドの上だった。

医師が顔を覗かせ、何かを言っている。

それは、私の名だった。

私は名を『舞田 静子』という。



〈了〉

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