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『鈴の声』

心が擦りきれていた。

感受性も著しく乏しくなっている。

九月の声が聞こえれば涼しい風も吹くのかもしれないが、京都の夏はまだ暑い。

これは暑さのせいばかりではなかった。

このままではいけないと、恭一は思っていた。


小さなセレクトショップの店員をしている恭一はここのところ、来季の展示会や商品発注といったバイヤーの仕事に加え、店長が気まぐれで行うショップの「模様替え」に付き合わされて、心身ともに疲弊していた。

バイヤーと言えば聞こえはよいが、小さな店だから売り子やその他雑用も当然する。それなりに毎日が忙しい。多少は忙しくもなければ、商売としては立ち行かない。しかし「この類いの忙しさ」の多くは時代と共に消えつつあるのではないのだろうか。そう感じながらも恭一はここ一週間仕事に忙殺されていた。

店に立つのは週に四日ほどだ。
自らセレクトしたブランドから、客の好みに応じてコーディネートをしたり、一緒にアイテムを選んだりするのは楽しかった。客との世間話も嫌いではなかったし、自分に向いている仕事だと感じていた。

しかし、恭一には悩みがあった。悩みというか正確には体質の問題だと思うのだが、感受性が少々過敏なところがあるのだ。

良い方に作用すれば接客中の会話や客の雰囲気から、細かな好みを聞き出すまでもなく、似合いのイメージが自然と浮かんできた。

「こんなのどうですか?」という、こちらの提案がピタリとハマる事も多かった。客の方も「自分でも気がつかなかったよ。いいねえ、これ」などと喜んでくれた。それを目当てに来店する客も少なくなかった。

しかし、それは諸刃の剣でもあった。

この剣がチャンネルも内容も選べない、質の悪い受信装置の呈を表すことがある。

客でなくとも誰かと対話をするとき、相手の仕草や会話の内容、その選択された言葉のニュアンス、そういった様々なものから必要以上に情報をすくい上げてしまうのだ。相手は勿論、無意識だろうし、そんな情報を発信しているつもりもないだろう。
こちらが一方的に受信しているに過ぎないのだが、すくい上げたものが、いわゆる「良いもの」ばかりとは当然限らない。

普段はそれでも上手く取捨選択をし、コントロールしているつもりなのだが、仕事の疲れが増してくるとさすがにキツくなってくる。いらないものまで溜め込んでしまう。仕事とプライベートの精神的な境目も希薄になりつつあった。

そうなると、心は自己防衛をするかのように、外からの刺激をカットしようとする。心が柔軟性を欠き感受性は緩やかに失われていく。仕事をする上でも、これは良くない兆候だった。

定期的にやってくる、この感覚。

やはり「心が擦りきれている」のだ。




午後八時半を回り、恭一は閉店作業をはじめていた。

「こんばんはー。恭一君、いはります?」

「はあい。ああ、こんばんは。どうしました?もう閉店時間なんです、って知ってるじゃないですか」

入り口にはショップ常連の男性客が立っていた。

三軒隣の恭一行きつけの美容院のオーナーである。ショップの店長の「気まぐれ模様替え」なみに突発的に髪を切りたくなる恭一は、無理を言っては予約も無しに押しかけて、髪を切ってもらっていた。

「どうしたんですか?ほんとに」

「恭一君にお願いがあって」

「なんですか、お願いって。気持ちが悪いですよ」

「恭一君、大津やったやろ?この子、家まで送ってくれへんか。瀬田なんや。唐橋の近く。今夜は急な仕事で遅くなって。店から地下鉄で京都駅行って、それからJRに乗りかえて、それからまた乗り換えって、しんどいやろ?そしたら、そうや、恭一君がおったわって、なって。帰りに五分くらい、いつもより余分に車走らせたらこの子のマンションに着くから…ね、たのむわ」

この美容院のオーナーはよく喋る。



オーナーが「この子」というのは、「川村 玲」のことだ。
大体あの美容院にはオーナーと玲の二人しかいない。恭一が美容院に通いはじめてから、かれこれ五年くらいになるがオーナーのセンスと腕もさることながら、なによりわがままを聞いてくれるのがよかった。

玲は恭一の三つ年下で、実家では母が美容院を開いていた。いつからか恭一は「玲」と呼び捨てにするようになっていた。

幼いころに病気で亡くした妹と同い年だった。ちゃん付けも、さん付けもなんだか照れ臭かった。玲に自分が呼び捨てされていることをとくに気にしている様子はなかった。

いつもはシャンプーだけなのだが、一度だけ玲に髪を切ってもらったことがある。その日も急に切りたくなって、電話もせずに突然押しかけた。

その日、オーナーは不在だった。

「今日先生、出張でいないの。恭一さん、せめて電話してから来てもらえます?」

「ああ、ごめん」

実際はあまり申し訳なく思ってはいなかった。

今日、今、髪が切りたかった恭一は、結局のところ切れるのか、どうなのかを玲に聞いた。

「うん、切れるよ。女の子の髪しか切ったことないけど、それでもいい?」

「切れるんだね。お願いするよ。何か問題でも?」

「えっとね、他のお客さんじゃなくて恭一さんだし、別にいいんだけど。きっと女の子みたいな感じの髪型になっちゃうってこと」

その答えに、少し引っ掛からなくもなかったが、まあいい。

「切れってくれるんなら、いいよ。頼む」

そう言って、切ってもらった結果、まさに女の子のようなボブにカットされたことがあった。あの時の玲は、そもそも男っぽく切ってやろうという気が無かったのでは、と今でもたまに思う。



「わかりました。もうすぐ仕事終わるんでちょっと待っててください」

「恭一君、ありがとな。ほな、玲ちゃんお疲れさま。気いつけてな」

そう言って早々にオーナーは帰っていった。

玲を店のなかで暫く待たせたあと、二人で店を出た。

「店長、お先失礼しまーす」

冷房のよく効いたショップのなかと比べるまでもなく、外は夜というのにまだ暑かった。皮膚がすぐにしっとりと湿ってくるのが分かった。


店がある三条寺町から少し歩いた駐車場にライトブルーの軽自動車が停めてある。以前はシトロエンに乗っていたのだが、実用面を考えて去年買い替えた。

ドアを開け座席に座り、窓を全開にする。見た目より座り心地の悪い座席には、シトロエンのような座った瞬間の幸福感は…無い。

「どうぞ、座って」

「ありがとうございます。今日は無理言ってごめんなさい。先生が恭一さんに頼むってきかなくて。私は電車でも良かったんだけど、先生が飛び込みで受けたお客さんに結構時間がかかっちゃって。先生悪いと思ったのか、恭一さんにたのんであげるって、それで…」

玲は、綺麗な声でよくしゃべった。

「じゃ、いくか。京都から大津なんて、すぐだし、大津から瀬田なんて更にすぐだから」

玲とこうして二人で車に乗るのは初めてだった。


車は三条から河原町、少し南へ下って五条通りへと向かう。繁華街はタクシーや人通りも、それなりに多かったが、五条通りに入るころにはそれも幾分減っていた。

五条河原町の交差点を左へ曲がり、東山から山科へ向かう。山科を抜ければもうそこは大津だ。

京都から大津は、県庁所在地間としては日本一近かったか…でも、京都は「府」だから府・県庁間なのか?などと訳の分からない事を考えながら、恭一は車を走らせていた。

大津市内に入ろうとした時、唐突に玲が口を開いた。

「恭一さん、夕御飯まだでしょ?どこかで食べていったら?」

思考がほぼ停止状態だった恭一は、その提案をそのまま受け入れる事にした。どうせコンビニ弁当で済ませるつもりだったからだ。

「草津に美味しいインドネシア料理のお店があるの。そこ行きましょ。」

「は?草津?対岸だろ。玲、時間は?」

「いいの。独り暮らしだし、明日は月曜日でお店もお休みだから」

「そうなんだ」

気の無い返答をした。
たまには遠回りして帰るのもいいか、と思った。大津に入ると普段はあまり利用することの無い近江大橋を通って琵琶湖を渡り、一気に草津へと向かった。街灯が橋のアーチとともにゆるやかに弧をえがく様は普段であれば感情に訴えかけて来たのかもしれないが、今の疲れきった恭一にはひどく味気ないものに見えた。



草津に入ってすぐに、そのインドネシア料理の店はあった。

黒いウッド調のおしゃれな店だった。
初めて来る店だ。インドネシア料理も初めてだった。

店に入ると聞き覚えのある曲が流れていた。
デレク・アンド・ザ・ドミノスのレイラの間奏部分だ。店のスタッフの趣味なのだろうか。インドネシア料理店には似つかわしくないが、この曲を流すセンスの人間がこの店にはいるようだ。

──いい店かもしれない。

恭一は以外と単純にできていた。

二人で奥のテーブル席についた。

玲は座るとすぐに「はいっ」と言ってメニューを手渡してきた。

「玲は?」

「わたし、さっきサンドイッチたべたから、飲み物だけでいいの」

恭一はてっきり玲も夕食を食べていないと思っていた。

──どうゆうことだ、まあいい。

メニューを開いて、適当に上から順に二つを指差した。

「これでいいの?」

玲は笑っている。

「恭一さん、お腹空いてる?」

「まあまあ」

「じゃあ、いいね。」

「すみませーん。これとこれと、あとビンタンとエスチェンドルください」

──手際がいい。

程なくして料理と飲み物が運ばれてきた。

「お待たせしました。ナシゴレンとミーゴレンと、ビンタンは?」

「はい、わたしです」

「ごゆっくり、どうぞ」

そう言って若い男性スタッフは去っていった。

目の前には、焼き飯と付け合わせが載せられた皿、焼きそばのようなもの、そして初めて見る緑色の飲み物がグラスに入っている。ビンタンというのは、どうやらビールらしい。

「お腹空いてるんでしょ?食べて食べて」

「ナシゴレンのナシはお米、ミーゴレンのミーは麺なの。ゴレンは炒めるって意味。ダブル炭水化物だけど、恭一さん、最近少し痩せたみたいだし、それくらい食べたっていいよ」

食べてみると、これが旨かった。甘めの味付けがいい。グラスのエスチェンドルとやらも飲んでみる。

「あまっ、ゼリーか?」

玲が口に手を当てて、くすくすと笑っている。

「恭一さん、甘いの好きでしょ?」

「デザートだろ、これ?」

「そう、でも美味しいでしょ?わたし、好きなの」

玲に少し食べるのを手伝ってもらって、ようやく完食した。恭一が食べている間は、玲がずっと一人でしゃべっていた。

「どうだった?」

「ああ、旨かったよ。じゃ、行くか」

「うん」


「夜景でも見てかない?」

車に乗ると、玲が話かけてきた。

「別にいいよ、どうせ同じ方向だ」

相変わらず、素っ気ない返事をし、恭一は湖岸道路沿いにある駐車場へと車を向かわせた。

週末ということもあり、駐車スペースには寂しく無い程度に車が停まっている。キャンピングカーも数台あった。空いている場所に、対岸の夜景が見えるように駐車した。

「恭一さん、元気でた?」

「どうして?」

「最近忙しそうで、疲れてるように見えたから」

「バレてたか。それでドライブって訳か?」

「ううん、これは成り行き。恭一さんの車に乗ってから思い付いたの」

「そうか。ありがと。元気でた、と思う」

「なんです、それ」

玲はまた笑っていた。

それからしばらく、二人で対岸の夜景を眺めていた。

「そろそろ、行くか?」

「うん…」




玲のマンションへと向かう途中、彼女はずっと黙って琵琶湖の夜景を眺めていた。

いつしか琵琶湖は瀬田川へと姿を変え、玲の住む唐橋近くへは、あっという間に着いた。

「さっき思ったんだけど、あの時間なら三条京阪で割と簡単に帰れたんじゃないの?」

玲は一瞬、いたずらっ子のような顔をしてから
「恭一さんて、単純なわりに細かい所によく気がつきますよね」と言った。

「俺の何が分かるって言うんだ」

「五年も同じ人の髪洗ってたら、大抵のことはわかるようになるんです。ゆうべ何食べたかとか、どこで何してたかとか。あんまり美容師、なめちゃいけませんよ」

「そ、そうなのか?」

「、、、うそです」

「う、嘘?一瞬信じたぞ」

くすくすと笑ってから、玲が言う。

「今日は送ってくれてありがと、恭一さん」

「ああ、久しぶりに俺も楽しかった」

「良かったー、じゃまたね。お休みなさい」

「お休み、またな」

玲は少し慌てたように車を降りるとマンションへと走って行った。

マンションの入り口に近づくとこちらに振り返った。
「今度は、恭一さんの好きなお店、つれてってー」

大きく手をふっている。

「ああ、気がむいたらなー」

恭一も手を振り返す。

玲はマンションのなかへと消えていった。




「りーん、りーん、」


どこからか、涼しげな風鈴の音が聞こえてきた。

夜の唐橋を見るのはいつぶりだろうか。
建造物としても美しいが、唐橋の持つ悠久の歴史が人々を魅了する。恭一もその内の一人だった。

「いいところに住んでるな」

そう言って車に乗り込むと、自宅へとつづく1号線ではなく、今来た道をそのまま戻る事にした。

明らかに遠回りだった。

車を運転しながら、鈴を振ったような玲の声をもう少し聞いていたかった、と恭一は思った。


──秋風が吹く頃になったら、どこかへ誘ってみるか。


対岸には当たり前だが、先ほどと同じ夜景がひろがっていた。しかし、さっき見たよりも随分と眩しく恭一の目には映った。

湖岸の道路を北へと向かう。
この道は何処まで続いているのだろう。
知ってはいるが実際に走った事は一度も無かった。


「玲、か…」


そういえば、

「玲玲と鳴るのも…鈴の声…」だったか。

そんなことを考えている自分がなんだか可笑しくなってきた。


この旅は長くなる、そんな予感がした。




おわり








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