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『TRIGGER - 引き金 - 』

紋峰 忍はコーヒーを飲みながらラップトップを開いた。

「確か、日本ではノートPCというのだったかしら」まあ、どちらでも構いはしない。

二年間のシンガポール勤務を終え、本社勤めに戻った忍はどうにも本社の近代的なオフィスに馴染めず、今日も社員食堂の窓辺の席にいた。

「重装建機株式会社」それが彼女の勤める会社の名だった。土木や建築工事作業に使われる大型建設機械を取り扱っていた。いわゆる重機とか建機と呼ばれるものの開発とリースが主な業務内容だ。

高度経済成長期に建設機械が日本のインフラストラクチャー整備に大きく貢献したのは事実だが、現在の公共事業費削減を叫ぶ声の前では建設機械は更なる効率化を余儀無くされていた。会社はまさに高度経済成長と共に成長し、時代の変化のなかで、また変革していかなければならなかった。

忍は広報部に所属し社内広報を担当していた。毎朝の社長との数分のミーティングの他はデスクワークが殆どだった。社内広報と云っても、建設機械の新しい製品や技術に関する情報は、技術部から上がって来たものをある程度見やすくレイアウトしテキストを載せれば問題なかったから、忍の労力は会社の福利厚生であるとか、一般社員向けの人気の海外旅行特集などの雑多な記事のために注がれている。

そう、あまり忙しくはないのである。何故自分がこの様な仕事に就けているのかが今一つ理解出来ないでいた。しかも給与は良かった。入社して四年目になるが、それでも手取りで40万はあった。更にそれとは別に特別手当として毎月10万が口座に振り込まれていた。何の特別手当なのかは知らなかったが、貰えるものは貰っておこうと単純に考えていた。「そんなにうちの会社、儲かっているのかしら?」と少し不思議に思うのだった。


隣の席から女性社員の話し声が聞こえてくる。

「人事部の山田さん、寿退社したらしいわよ」

「へー、そうなの?人事部って云えば松永さんも海外で暮らすからって、先月退社したんじゃなかったっけ?」

「みんないいわよねー。うちの会社、仕事の割にお給料いいのに入れ替わり激しいわよね、特に女性社員」

「みんな余裕が出来てリア充に目覚めるんじゃない?」

「はははは、ホントそんな感じー」


確かにそうだな、と忍は思った。

自分自身もこの会社の社員に対する待遇に魅力を感じて入社を希望した一人だが、高卒で派遣社員の経験しか無かった自分が採用されたのは何かの間違いだろうと思っていた。

しかし今はこうして働いている。入社してからも、やはり待遇は良いように思えた。シンガポールに滞在中も、何をやっていたかと云えば、視察と称した遺跡巡りだの、新たな観光施設の建設現場の進捗状況の確認だの、別段難しいことは何も無かった。外食がライフスタイルの一部であるシンガポールにおいて、毎晩のように現地の同僚と食べ歩きに出掛けたものだ。勿論、ナイトサファリにも何度か行った。半分遊んで居たようなものだ。


携帯のバイブが着信を告げる。

「もしもし、紋峰くんか?」

「はい」

広報部長からだった。

「大事な要件だから、電話した。明日の広報部のブリーフィングの開始時刻が午後2時から朝の10時に変更になった。その段取りでよろしく頼む」

「はい、わかりました…」

忍は携帯の通話終了アイコンを画面が割れるほどの力で押し続けていた。

──大事な要件? これがか? こんなものはテキストで送ってくればいいだろう。それをわざわざ、この電話野郎が!

そう心の中で罵った。携帯を細い指で思い切り握り締めると、ケースがぐにゃりと歪んだ。

──このまま携帯をテーブルに叩き付けてやろうか。

コーヒーカップが割れて砕け散る。携帯は茶色の液体にまみれて何処かへ飛んでいき、画面にはクモの巣のようにひびが入る。周りの社員は自分を奇異の目で見るだろう。

そんな事を想像する。

しかし忍はそうはしなかった。
携帯を握った手を弛めると、ケースはゆっくりと元の形へと戻っていった。

忍は自分でもよく分からない「激情」が内側に潜んでいるのを認識していた。それはいつも唐突にやってくる。そんな時、忍は心の中で大いに罵り、悪態の限りを尽くすのだった。心の中ならば問題無いだろう。思い、想像する事は本人の自由だろうと。それを表現しなければ良いだけだ。それが「大人」と云うものであり、多かれ少なかれ人は皆そういうものだろうと思っていた。

しかし、忍のそれは時に人を呪い、殺したい、と願う程のものだった。




明日のブリーフィングの資料作成のため、その夜はオフィスで珍しく残業していた。

「紋峰くん、私はこのあと用事があるから先に帰る。資料の方は任せるから、よろしく頼む」

「はい、わかりました…」

忍は広いオフィスに一人取り残された、というより、漸く一人になることが出来て清々していた。

部長がオフィスから遠退いたのを確認し、忍は吐き捨てた。

「妻子持ちでもあるまいし、なにが用事だ!どうせ呑みにでも行くんだろう。私がこんなことしてるのは、大体お前のせいだろ。あぁホント、ムカつく!殺してやりたいっ!」

その瞬間だった。

パンッと、乾いた音と共にオフィスの照明が突然消えた。パソコンのディスプレイだけが唯一残された明かりだった。

「えっ、何!?消灯時間?まさか──」

呆気に取られていると、デスクの電話が緑色のランプと、いつもではあり得ないほどの音量で着信を知らせている。

「何?」

忍は、恐る恐る受話器を手にした。

「はい、広報部、です──」

「もし、もし、」

「あの、どなたですか?」

「ああ、驚かせてすまない。人事部のタキネだ」

人事部? タキネ? 誰だ?
思考を巡らせる。

「あ、滝根部長」

忍はこの男を思い出した。面接官として入社試験の時に居たからだ。この会社ではあまり見かけない、長身、痩せすぎで、やたらと青白い顔の男だった。しかし、この滝根が私の採用を何故か推してくれたのを覚えていた。

「社内の照明設備の点検に乗じての不手際だ。すまない。今、人事部の者を迎えにやるから、その者と一緒に来てくれ。広報部長には私から電話で話しておく」

「わ、わかりました」

「では、後ほど」

「あっ、あの…」

電話は切れていた。

一分もしないうちに、男が迎えに来た。手には懐中電灯を持っている。見たことの無い男だった。

「紋峰さんですね? 人事部の者です。こちらへどうぞ」

とりあえず、人事部の者と名乗るその男についていく事にした。真っ暗なオフィスに一人で居ても何も始まらない。

──しかし一体何処から来たんだ。やたらと早くないか?

忍は少し不審に思った。そもそもこのフロアに人事部など無い。

男はエレベーターへと忍を誘導し、二人はエレベーターへと乗り込んだ。




エレベーターは階下へと向かう。
B1、B2、そして……B3。忍は自分の目を疑った。このビルに地下三階など存在しない筈だった。

「あの、」

男は何も言わない。

エレベーターのドアが静かに開くと、男は「こちらへ」と忍を廊下の奥へと案内した。そしてやはり近代的な部屋の自動ドアの前に立つと指紋認証に加え虹彩認証で部屋のロックを解除した。

──ここは、一体何なの?

自動ドアがゆっくりと開く。室内の照明は薄暗い。一瞬、目の前に何が広がっているのか判断出来ずにいたが次第に目が慣れてくると、その光景に忍は驚いた。

そこは近代的なオフィスとは程遠い、日本建築的な造りの部屋だった。どこか神社、仏閣の内装を想起させる。磨き込まれた床板。その奥には御簾が半分垂れ下がっている。御簾の向こうに誰かが座っている様子は無く、代わりにガラスで仕切られたその奥では、大型コンピューターのLEDがちらちらと微かな明かりを放っていた。

「驚くのも無理はない」

声のする方へ目をやると、そこには滝根が四畳ほどの畳の上に座っていた。

「人事部長、ここは一体?」

「滝根で構わない。それより、よく来てくれたね、紋峰くん。ここが明治初期から続く我が社の本来の姿なのだよ。まあ中身は昔と随分様変わりはしたがね」

「名を呪詛鬼行社と云う」

「じゅそきこうしゃ?」

「そうだ。怪しげな名前だろ? 私も以前はそう思っていたが、今では気に入っているよ。言い得て妙だと思っている。呪詛の代行を行っている」

忍は滝根の言葉が理解出来なかった。

──じゅその代行? 何だそれは…

「あの、社長はこのことを?」

「勿論知っている。彼は我々の傀儡に過ぎない。先代の社長も父の傀儡だった。だが彼らはビジネスパーソンとしては非常に優秀でね。戦後の高度経済成長期に乗じて会社を大きくした。しかし、彼らだけではここまで大きくは出来なかったのだよ。我々のコネクションが無ければ成し得なかった偉業だ」

「これを見たまえ」

そう言って滝根はプリントアウトした紙を忍に渡してきた。

「それは我が社の顧客リストの一部だ。全て本名で記載されている。著名人や財界の大物、勿論政治家も含まれている。そのリストの意味するところが分かるかね。まあ君が政治に興味があればの話だが」

確かに、新聞やニュースで見る名前が含まれていたが、詳しくどの程度の人物なのかは知らなかった。

「ところでここで何を行っているんですか?」

確認しておきたかった。未だに自分の置かれている状況が理解出来ない。

「呪詛だよ。呪いだ」

「呪い?」

忍はまたしても耳を疑った。この2000年代に於いて、そんな前時代的な事が未だに行われているとは俄に信じられなかった。

「信じられない、といった顔をしているね。ビジネスとは常に需要と供給なのだよ。会社も成長し金銭的にも全く不自由の無い今、続ける必要もないのだが、これは私にとって謂わば趣味のようなものだ。一族にかけられた呪いと言ってもいい。需要があるから供給をする、ただそれだけだ」

目眩を感じていた。常軌を逸する滝根の話と、この部屋に立ちこめる香りのせいだ。見る限り煙は漂っていない。とすると精油か、そんなことを忍は感じていた。それにしてもこれは何だ。身体の深部の本能を掻き毟るかのようでいて甘美な香りだった。

「良い香りだろ? この中には過去の能力者たちの脂が入っている。私はこの香りが堪らなく好きでね」

狂っている、気分が酷く悪くなってきた。

「大丈夫かね、紋峰くん。これを飲むといい。少し気分が良くなるだろう。心配はない。ただの漢方薬だ」

怪しいとは思いつつ、この目眩と気分の悪さを何とかしたかった忍は言われるままに赤黒い丸薬を二粒飲んだ。

「部長──」

「滝根でいい」

「では、滝根さん、どうしてここに私が。呼ばれた意味がわかりません」

「他でもない。君を入社させたのはこの私だ。君には特別に目を掛けている。十分な給料を払っているつもりだし、シンガポールも楽しかっただろ?」

──そういうことだったのか。

全てはこの男の仕業と云うわけか。更に気味が悪くなってきた。それでも、分からないことだらけだ。

「では何故わたしを?」

「君には素質が有るからだよ。呪いの才能が」

「呪いの才能?そんなもの私にはありません!多少怒りっぽいくらいは、自覚がありますがせいぜいその程度です。そのくらい、誰にだってあるでしょうに!」

「それがそうでも無いのだよ。君は会社の健康診断で毎回、原因不明の喉の痛みを訴えているね」

「そ、それはまあ。それと一体何の関係が?」

「私は君の事なら何でも知っているのだよ。君はチャクラというのを知っているかね?」

「聞いた事くらいは…」

「そうか、簡単に云えば、人間にはチャクラと呼ばれる7つのエネルギーセンターの様なものが存在する。その7つのチャクラのうち、喉にはヴィシュッダチャクラという感情表現を司るチャクラがある。君は無意識下においてすら感情を極度に押さえ込んでいるのだよ。喉の不調はそれが原因だ。君の精神と肉体は常に悲鳴を上げているの。内なる衝動、激情を解放しろと。それを我々が手助けしてあげよう、と云っている」

「そんな!私は少し怒りっぽいくらいで、別に!」

忍は声を荒げた。

──感情が高ぶっている。さっきの薬のせいか、それとも、この部屋の香りのせいか。

「紋峰くん、君は履き違えている。怒りと憎しみを混同している。怒りは常に突発的なものであり感情としてより純粋でより深いものなのだよ。時にそれは人にとって重要かつ必要なものになり得る。それに対し憎しみとは極めて個人的な負の感情なのだよ」

「我々は君の深い憎しみの感情を欲しているのだよ!」

更に滝根は続けた。

「人を呪わば穴二つ、という言葉を知っているかね?言葉の通り穴とはつまり墓穴だ。呪われた者、呪った者、双方のね。我々はこの墓穴を呪われた者だけの穴にする事を目的の一つにしている。以前は巫女だの、霊能者だのを囲っていた…。我々はそれらを鬼と呼んでいたがね…」

忍はもう立ってはいられなかった。崩れ落ちるように床に座り込んだ。何処からともなくか男が二人やって来て、忍を安楽椅子に座らせた。

指先に電極か何かセンサーの様なものが取り付けられた。そして首の後ろには金属的な器具を装着される。

チクリ、と首筋に微かな痛みが走った。
忍にはもはや抵抗する意志も力も残されてはいなかった。

滝根はさらに続ける。

「しかし、それではコストが合わないのだよ。呪詛返しを受ければひとたまりもない。かけた呪詛が何倍にもなって返ってくるのだからね。返された術師はよくて廃人、悪ければ死だ。術師の維持には金と時間がかかるのだ。そこで我々が結論に至ったのはSNS、つまりソーシャルネットワーキングサービスを利用することだ」

「日本人口の約80%が何らかのネットユーザーだ。その更に80%がSNSを使っている。数にして約8000万人弱。世界の総人口ならばネットユーザーは約45億7000万人だ。この数字の意味するところが分かるかね。これはもはや集合的無意識なのだよ。その人々が常に誰かを妬み、憎しみ、傷つけている。これを我々が利用しない手は無いのだよ」

「しかし、問題もあるのだ。この人々全員が常に憎しみから誰かを傷つけている訳ではない。わかるかね?それは正義の名のもと、正しさという暴力を振るっているに過ぎない」

「これでは足りないのだよ。そこで君の出番と云うわけだ。ある特定の一個人に対して、君のありったけの憎悪と憎しみをぶつけてもらう。そして、それを増幅したものをトリガーに対象に対して8000万人の集合的無意識を利用して呪詛をかけるのだ。そのシステムが漸く完成したのだ」

「前任者の人事部の女性、確かヤマダともう一人いたか、はシステムに耐えられなくて、廃人になってしまったがね」

「彼女らは私の見込み違いだったようだ。しかし君ならば大丈夫だろう」

そう言うと、滝根はシステムのエンターキーを押した。

瞬間、怒涛のような負のイメージが忍の内側から沸き上がってきた。

溢れだし、暴れだす、憎悪と憎しみの負の感情。

「ううっ、何これ!あぁぁぁぁ!やめて!」

「ふふふ、心配ない。それが本来君が持っている物だよ。君の憎悪と憎しみの念だ!君に住まう怪物の正体だ!」

「さあ、存分に呪うがいい!紋峰 忍!」

「あり得ない、あり得ない!こんなものが私の中にあるっていうのー!」

「うぅぅぅ、、、」

「…………」

忍は気を失っていた。

「滝根さま、大丈夫なのですか?前回のようには──」

滝根の背後から現れた女が声を掛ける。

「──ならんさ。問題ない。彼女ならきっと我々の期待に応えてくれるだろう。どうせ、薬のお陰で目が覚めれば何も覚えていまい。それに彼女のもつ本質的、根元的な人を呪う才能を利用しない手はない。何度でも使ってやるさ」



忍は激しい頭痛で目を覚ました。

「ここは……痛っ!」

忍はベッドに寝かされていた。

頭が割れるように痛む。慌てて頭を触ってみるが、包帯どころか、傷らしきものも無かった。

「IDカードで確認しました。紋峰さん、で間違いないですか?大丈夫ですか?無理をしてはいけませんよ」

「はい」

男の看護師の声が頭のなかでこだまする。

どうやら社内の医務室のようだった。初めて入るが自らが作成した社内報のコピーが壁に貼ってあってそれだと分かった。

「あ、わたしは──」

「夕べ、オフィスで倒れてらしたんですよ。警備員の方が発見して連絡してくださったんです。特に外傷は無いようですが、倒れた時に頭を打っている可能性もあります。念のため後ほど大きな病院で精密検査を受けていただきますね。後、多少の記憶の混濁がみられるかもしれませんが、心配しないでください。大丈夫です」

「、、、」

「あと、この丸薬を一応飲んでおいてください。気持ちがとても落ち着きます。うちの会社の医務室には何故か漢方に詳しい先生がいらっしゃるんです。良かったですね。副作用もありませんから。ちょっと先生呼んで来ますね」

そう云うと、看護師は医務室から出ていった。

通りすがりに何かがふわりと忍の鼻をかすめる。

──あっ、いい匂い。何かしら?

それは今の忍にとって嗅いだことのない、甘美で魅惑的な香りなのだった。





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