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『水占 -みなうら-』

日影は木々の間を抜け深緑色の淵の水面を照らしている。少年はその淵から流れ出るせせらぎにそっと両手を沈めていた。

流れてくるのは水の声。
そして草木の、そこに棲む生き物の声だった。
総じて山の声とでも云うのだろうか。

時には、そのどれとも違う声までもが流れてくる。それらを何と呼ぶのか、少年には分からなかった。

〈…アノコ、マタキテルヨ…〉

〈ウンウン、マタキテルネ…フフフ〉

少年は水のせんせんと流れる感触と誰のものとも分からない声を聞きながら何かを待っていた。少しの間そうしていると、上流から青色の美しい鱗をまとった蛇がするすると泳いで来た。蛇は少年に近づくと、するり、と少女の姿になった。

「あっ、」

驚きよりも少女の美しさに圧倒される。
この淵のような深緑の長い髪と水色の瞳。
そして少女の全てが水滴によって煌めいていた。ひんやりとした指先がゆっくりと少年の頬にふれ、睫毛の先の一滴は音もなく落ちていく。

少女は唇を開き、口をぱくぱくとさせた。
何かを話しているようだったが少年には一言も聞こえなかった。水の声は聞こえても、なぜか少女の声は聞こえない。

少女は自分の声が少年に届かないのを悟ると悲しそうな表情を浮かべ蛇の姿に戻った。
そして名残を惜しむように少年の両の手の間をするりと抜けて何処かへ行ってしまう。

「ああ、今日も行ってしまった。彼女の声だけが、聞こえない…」そう思うと少年は酷く淋しくなるのだった。


鞍馬 水人はこれが夢だと知っていた。
それは何度も何度も繰り返し見る夢だったからだ。そして、あんなことさえ起こらなければ彼は一生夢だと思っていたに違いない。




僕は微睡みながら、二度寝を楽しもうかどうか考えていた。今日は全国的に日曜日だ。それに何も予定は入っていない、はずだった。

勢いよく部屋のドアが開いた。

「お兄ちゃん!いつまで寝てるのー!」

15歳にしては少し小柄な153センチの澪が寝ている僕の上に馬乗りになる。

「ぐはぁっ!」

「ぐはぁ、じゃないわよ。今日はわたしと臨海公園行くんでしょ。早く起きて準備してよー、お兄ちゃん、ずっと前から約束してたでしょ」

「お、起きてるよ…」

「起きてるんだったら、早く朝ごはん食べて準備して」

「ったく、恋人でもあるまいし、なんでお前と臨海公園に……」

「お兄ちゃん、なんか言ったー?」

「いえいえ、なんでも、すぐ支度するから」

「わたし、下で待ってるから、早くしてねー」

澪は1歳年下の僕の妹だ。今日は臨海公園へ二人で出かけることになっていた、らしい。すっかり忘れていた。予定を入れてなくて本当に良かった。

早々に身支度を済ませると一階のリビングに降りて行った。

「あれ、澪は?」

「玄関でお待ちかねよ。あなたも早くしなさい」

母が言った。

「澪はともかく、母さんまで急かさないでくれる?」

トーストとミルクだけの簡単な朝食をとり、リビングから顔を出すと母の言う通り澪は玄関にいた。

ベージュのブラウスに同じく濃いめのベージュのロングスカート、黒のショートブーツという出で立ちで、玄関の姿見の前でくるくると回っている。

僕はといえば、ジーンズにプリントの入った白のロングTシャツ、そして靴はいつもの通学用のスニーカーを履いていくつもりだった。

「お待たせ」

「うん、早く行こ、電車に遅れちゃうよ」

「遅れるも何も時間なんて別に決まってないだろ?」

「わたしにはちゃんと計画があるのよ」

「計画ねぇ、まあいいや、それでは出かけるとしますか、」

「あっ、忘れてた。父さん」

「あっ、わたしも」

あわててリビングに戻り、二人で父の遺影に手を合わせる。

「じや、行ってくるね、父さん」

そうして二人は家を出た。

玄関先で母の声がする。

「いってらっしゃーい。気を付けてねー」


僕らは臨海公園近くの駅に向かう電車に乗り込んだ。日曜のこの時間はさすがに空いている。

「それにしても、その格好は何だ。どこへ行くつもりだ」

「どこへって、臨海公園に決まってるじゃない」

「今まで誘っても一度も来なかったくせに急に行きたいなんて、どうしたんだ。いつもゲーセンで音ゲーしたいとか、クレーンゲームしたいとか言ってたじゃないか」

「最近呼ばれてる気がするのよねー、臨海公園に。なんかいいじゃない?観覧車とかロマンチックだしさ。お年頃なのよ、わ、た、し、」

「それなら彼氏と行けばいいだろ」

「はー、彼氏なんていないし。それにさ、友達だと緊張感に欠ける気がするし、彼氏とかだと逆になんか気疲れしそうじゃない?だから丁度いいのよ、お兄ちゃんが。一応、男子だし」

「それに、お兄ちゃんこそ、その格好。まさかお水でぱしゃぱしゃ遊んで、そこら辺でたこ焼きだとか、フランクフルト食べるつもりじゃないでしょうねー」

「違うのか?」

「ちがうわよ。臨海公園って言っても水族館もあるし、おしゃれなカフェだってあるんだからね」

「ナチュラルガーリー」

「は?」

「今日のコーディネート、かわいいでしょ?」

可愛いとは思ったが、僕は何も言わなかった。

「まあ、男子には分からないでしょうね」

澪は楽しそうだった。

「お兄ちゃん、わたし今度、ここ行きたいの!」

澪は携帯画面を見せてきた。

「行く前から何だ。どれ、どれ、貴船神社ねえ」

「うん、縁結びの神様なんだって。水占いっていうのもあるらしいよ。なんかステキじゃない?行きたーい」

「前に中学で京都行ったとき、ここは行かなかったのか?」

「行ってない。清水寺とか平安神宮とか京都御所とかは行ったよ。御所では近づき過ぎて警報とか鳴らしたし」

「あーはいはい。いるよな、そういうヤツ。そうだな貴船神社なら行ってみたいかも」

「おっ、お兄ちゃんも縁結び?誰か好きな人でもいるの?」

「いないよ。興味があるのはその逆の方さ。あの神社は、縁切りの神、ついでに呪詛神としても信仰があるんだ」

「出た!お兄ちゃんのオカルトオタク!」

「違う、マニアだ。まぁどっちでもいいけど、」

「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」

「なに、それ。なんか怖いんですけどー」

「草木も眠る丑三つ時。今でいう午前2時から2時半だ。丑の刻参りだよ。丑の刻に神社の大木に藁人形打つってやつ。でも、それは後の世でそうなったらしくて、もともとは心願成就の方法だったらしいんだ。面白いだろう?」

「へー、そうなんだ。でも興味ない。わたしは縁結びがしたいの」

「今度母さんに聞いてみよう。母さんも最近忙しそうだし、たまには息抜きでもどう?ってさ。京都は二人で行くには少し遠い」

「そだね、やったー、楽しみー」

「気が早いよ、澪。とりあえず今から臨海公園だろ」

「そだね、お兄ちゃん」

澪はにっこりと笑った。

そうこうしていると、電車は最寄りの駅に着いた。




僕たちは臨海公園に到着すると水族館だの、観覧車だの、ひとしきり楽しんだ。そしてお目当てのカフェで昼食を取った。澪の計画とやらはひとまずクリアしたようだった。僕は公園を少し散策しようと、提案した。

「それにしても、スパゲティで1800円て、たこ焼き幾つ食べれたんだ。美味しかったけど……」

「お兄ちゃん、そんなに食べたかったの?たこ焼き」

「まあな」

「それに、今日はお母さんにちゃんとおこずかい貰ってきたでしょ?」

「なんで知ってんだよ」

「わたしがお母さんに頼んでおいたの。今日はカフェでランチするからお兄ちゃんにもあげといてねって」

「準備が良いことで」

しばらく歩いていると、澪の足取りが重くなった。

「お兄ちゃん、足痛い」

「そんなヒールのある靴履いてくるからだ。遠足は履き慣れた靴だって小学校でも言われただろ」

「遠足じゃないし」

澪は頬をぷっと膨らませた。

「そこのベンチで少し休憩しよう。売店で何か買って来てやるよ。ソフトクリームか?それともタピオカミルクティか?」

「女子がみんな甘いもの好きだと思ったら大間違いよ、お兄ちゃん。わたしアイスティがいい。出来れば無糖で」

「生意気な、いつも家でアイスばくばく食べてるだろう、今買って来るから休んでろよ」

そう言って僕は売店へ向かった。しかし、売店はなかなか見つからなかった。




澪は一人ベンチで足を擦りながら兄の帰りを待っていた。

座っていると、ふと誰かによばれた気がした。

「お兄ちゃん?んな訳ないか、今行ったばっかだもんね」

また背後で誰かに呼ばれた気がした。

「誰?」

後ろを振り返る。ベンチの後ろには林があるだけだった。当然誰の姿も見えない、が、澪は林の中に何か光るものを見つけた。そうっと覗き込む。

「なんだろ?あっ、池だわ。あんな所に小さな池がある。お兄ちゃん、ぱしゃぱしゃ遊びたいかなあ?」

澪は行ってみることにした。

スカートをたくし上げ、足に巻き付けるとゆっくりと林に分けいった。その小さな池は思っていたより近くにあった。

「わぁ、キレイ。池の底まで見える。お兄ちゃん見たら、きっと喜ぶ。まだお子さまだから、ふふっ」

澪は池にそっと手を浸してみた。

「冷たッ、気持ちいいー」

水人が漸く戻ってきた。
辺りを見渡すが澪の姿がない。
蓋付きのカップを二つベンチに置いた。

「しずくー、しずくー、おーい、どこだー」

あっ、お兄ちゃん帰ってきた!

「お兄ちゃーん、こっちー、キレイな池があるよー」

声のする方へ目をやると、林のなかでベージュの服がゆれていた。

「そんな所にいたのか、服が汚れるぞー」

「池があるのー、水スゴく気持ちいいよー、お兄ちゃんもこっちにおいでよ……」

兄に手を振ろうとした。
が、手が動かない……。

「えっ、なに?」

腕が池から抜けない。
それどころか、どんどん引っ張られている気がした。

「あっ、あっ、おに…いちゃ…ん…、た、すけ…」

声が上手く出ない。澪はそれでも必死で抵抗していた。何者かから。



僕は澪の方へと、林の中へと入って行った。
公園の敷地内とはいえ、ここは整備がされていないのか、雑草がやたらと多い。軽く腰の高さまで伸びている物もある。

「それにしても、何だこの甘い匂いは」
まるで匂いが熱を帯びているようだった。

「澪、よく入ったなあ、何やってんだよ、そんなにしたら濡れちまうぞ…」

そこまで言って、僕は澪の異変に気が付いた。右手が池の中に深々と入れられ肩まで水に浸かっている。今にも顔が水面につきそうだ。澪の体はがくがくと震えて、白目を剥いていた。

「澪ー!」

僕は雑草を掻き分け澪に駆け寄ると、池の深さも確認せずに咄嗟に池に入った。意外と深さは無いらしい。慌てて澪を抱え上げる。

「大丈夫か?澪!しずくー!しっかりしろ!」

水でびっしょりと濡れた長い髪が深緑色に染まっている。次の瞬間、澪がかっと眼を見開いた。

「こ、これは、」

その瞳は透き通るような水の色だった。その瞳をとじると澪は気を失ってしまった。

「澪、しずくー!おい!おい!」

「なっ、こ、これじゃまるで、あの夢の少女のようじゃないか……」

その時だった。
背後から、足の下から、池の底から声が聞こえてきた。


〈…そこな者、面白い物を連れておるな…〉

〈本に、面白い物を連れておる…〉

〈何処でその人形を手にいれた?〉

〈何処で手に入れた?〉

〈それは、ミズチか?〉

〈いや、蛟とも少し違うようじゃ〉

〈まさか!それは、アマミの人形か?〉

〈その娘、その娘、アマミの人形じゃ!〉

〈おお!そうじゃ、そうじゃ、〉

〈我等の憑り代にしようぞ〉

〈それがいい、それがいい〉

〈その人形ならば我等が幾つ入るかのう?〉

〈クククククッ、カカカカカッ、〉

〈しかし、何故その歳まで人の形をしておる〉

〈そうじゃ、そうじゃ、〉

〈何処ぞの魂を喰らわせた?〉

〈幾つの魂を喰らわせた?〉

〈置いていけ!〉

〈置いていけ!〉

〈そのアマミの人形を置いていけー!!〉

〈おぬしには我等の声が聞こえる筈じゃ〉

〈その人形と共にいて我等の声が聞こえぬ訳が無い!!〉

「誰だ!お前ら!澪を、澪を!」

思わず叫んでいた。



「おーい、誰か居るのか、おーい」

その声で僕は我に返った。見ると林の外から男がこちらを覗きこんている。格好からすると公園の職員のようだ。

「あのー、すみません!妹が池の前で倒れてしまって!」

「池?そんな所に池なんかあったかなあ」

そう言いながらも男はこちらへ近づいてきた。妹を見ると表情が変わった。

「おい!大丈夫か?君!とりあえず外へ連れていこう」

僕と公園職員とで、澪を林の外へと連れていきベンチの上に寝かせた。

ベンチの脇にはアイスティがまだ置いてあった。しかもまだ氷が残っている。池での出来事はとてつもなく長く感じたが実際はおそらく数分しか経っていなかったのだろう。

「う、ううん」

澪が目を覚ました。

「大丈夫か?澪、おい」

「あっ、お兄ちゃん。わたし…」

「お前、池の前で……」

「そうだ、わたし、小さな池を見つけて、お兄ちゃんが喜ぶと思って、それで、それで、」

「喋らなくていい。少し寝てろ」

「大丈夫だよ。お兄ちゃん。ちょっと貧血を起こしたんだわ、きっと。もう平気よ。でも少し怖い夢をみてたみたい」

澪は何も覚えていないようだった。

「君たち、よかったら公園の管理センターへ行こう」

職員はそう言ってくれたが、澪は断りの手を振った。

「あ、もう本当に大丈夫です。ありがとうございました」

そう澪は自ら職員に礼を言った。
僕は少し呆気に取られていた。

「澪、本当に」

「大丈夫だったら、もう。それよりお兄ちゃん、ズボンがべたべたじゃない。」

「澪の髪も濡れてるぞ」

「平気よ。お天気もいいし、すぐ乾くわ」

「そうだな。でも今日はもう帰ろう。いいな」

「うん、わかった…」

澪は少し残念そうな顔をしたが、その日は帰ることにした。

時計のデジタルは15時35分だった。



帰りの電車のなかで僕らは黙ったままだった。ふと澪を見ると、さすがに疲れたのだろう、静かに船をこいでいた。

僕はあの公園での出来事が頭から離れなかった。妹の横顔を見る。正確には日に照らされた少し茶色がかった美しい髪を見ていた。

決して深緑色などではなかった。
そして閉じられた瞼の向こうには同じく茶色の瞳があるはずだった。

僕がオカルト雑誌を読み、出来る範囲で関連書籍まで読んでいるのは、オカルトを正しくオカルトとして認識するためで、それ以外と区別をするためだった。だからオカルティックなものに対してはそれなりに耐性があると思っていた。

だがあれは一体何だ。想像の域を遥かに超えていた。

魂、蛟、憑り代。そして「アマミの人形」

あの声の正体は一体何だったのだろう。少なくとも人の声では無かった。肉を持たぬ者たちの声、そんな気がしていた。




家に帰ってシャワーを浴びたあと、その晩は三人で早めの夕食を取った。夕食が終わると澪は早々に自室に行き寝てしまったようだった。疲れていたのだろう。

僕はなかなか寝付けずにいた。どうにも今日の事と、澪が気になって仕方がなかった。澪の部屋へ行ってみる事にした。

コン、コン。ノックをするが返事がない。

「澪、入るぞ」

部屋に入ると、妹はベッドですやすやと寝ていた。まともに妹の寝顔を見るのはいつぶりだろう。そして僕はその足で母の部屋へと向かった。

コン、コン。

「母さん、起きてるー」

「水人?起きてるわよー」

返事がした。ドアを開けて部屋に入った。母はパソコンに向かい軽快にキーボードをタイピングしていた。

「あっ、ちょっと待ってね。もうすぐ終わるから。今夜中にこの書類を仕上げちゃいたいのよ」

「うん、待ってる」

「それにしても珍しいわね。水人が母さんの部屋に来るなんて。恋しくなっちゃった?今日は大変だったんだって?澪に聞いたわ。でも凄く楽しかったみたいよ、あの子。ずっと前から楽しみにしてたんだから。水人は知らないでしょうけど」

そう言いながらも母の手はタイピングし続けていた。

「その澪の事なんだけど、母さん、アマミの人形って知ってる?」

母の手がぴたりと止まった。椅子に座ったままくるりとこちらを向いた。いつにない真剣な面持ちだ。

「水人、あなたそれをどこで、誰に聞いたの?」

「うん、ちょっと。実はよく分からないんだ」

「分からないって、どういうこと?」

「なんていうか、その。僕にも正直分からない」

「そうなんだ、ごめんね、母さんも知らないわ」

母は何かを察したようだったが、それ以上は何も話してはくれなかった。

「ごめん、邪魔しちゃって」

「いいのよ、あ、水人」

「なに?母さん」

「ううん、何でもないわ。おやすみなさい」

母はそう言うとまたパソコンに向かってキーボードを打ちはじめた。

「おやすみ。母さん」

僕は部屋を出てドアをしめた。
部屋の中から母のささやくような声がした。

「あなた、あの子たちを守ってあげてね…」

僕のなかで、何かが確信へと変わりつつあった。



次の日、僕は学校を終えると臨海公園へと向かう電車に一人で乗っていた。

確かめたいことがあったからだ。あの池の事だ。池に流れ込む小川の様なものは無かったし、あれは真水だったと思う。するとあの池には湧水があるということだ。

「臨海」とは、つまり海に面している、もしくは近くに海があるということだ。となればあの池の水は海以外の場所、陸地から来て湧き出ている、ということになる。

水は通常、高いところから低いところへと流れるものだ。公園近くの施設をとりあえず検索してみたが、そのほとんどが運送会社や倉庫ばかりだった。ただ一ヶ所を除いては。

その建物とあの泉の位置関係を確認しておきたかった。そこに何かあるのでは無いかと思ったからだ。




公園に着くと、昨日の場所へと急いで向かった。林はすぐに見つかった。林の中に入って池を探した。しかし、池はおろか、水があった痕跡すら見つけられなかった。

「どういうことだ。昨日は確かにこの辺にあったはずなのに」

僕は検索した携帯画面を頼りに例の建物を探す事にした。おそらくここから上へと向かった先にそれはあるはずだった。

水は高いところから低いところへと流れる。
あれが正真正銘「水」だとしたらの話だが…。

「澪の髪だって、僕のジーンズだって、濡れたんだ。それに…」

それに、あれらは「ミズチ」、そう蛟と云っていた。
蛟は確か水妖だ。澪が蛟と何か関係があるかのような物言いだった。どちらにしろ「水」が関係しているのは、ほぼ間違いなかった。

生憎と林からそのまま上へと直接続く道路は無かった。
僕はこのまま林の中を進む事にした。
時計はすでに18時を回り、辺りは暗くなりつつあった。

伸びた雑草や木の枝が容赦なく顔や腕を切りつけてきた。足には蔦が絡みつく。何かに取りつかれたように僕は先へと進んだ。

「この先に、この先にきっと何かあるはずなんだ」

それを突き止めなければならない使命のようなものを感じていた。そう、澪を守るために。

無心で林を進んだ。どれくらい歩いただろうか。

漸く目の前が開けてきた。


「あった、ここだ」

目の前にはここ数年のうちに出来たと思われる新しい建物と、併設された工場設備があるようだった。僕はその近代的なビルを見上げた。

壁面に社名がライトで照らし出されていた。

そこには『重装建機株式会社』という文字がぼんやりと浮かび上がっていた。




つづく



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