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真面目な人が失敗しているのを見ると胸がむぎゅーっとなってしまう話。

私は昔から他人が失敗するのを見るのが苦手である。

それは、幼少期の頃からそうで、クレヨンしんちゃんやこち亀なんかは、両津やしんのすけが怒られるシーンになると怖くてリビングを離れてしまうほどだった。

今ではその感覚も消えて、両津が怒られるシーンに素直に笑えるようになった反面、未だに克服できていない感覚がある。

それは他人が真面目にビジネスとか色々な取り組みに真面目に向き合っているのに失敗する姿がどうしても見れないという感覚だ。

例えば、鳴り物入りで始めて借金までして店を開いて、グランドオープンセールをやったのに、誰も人が来ない。みたいな場面があったとする。

もう、私はその姿を真正面から見れない。誰に言われるわけでもなく「やめて下さい!」と、誰に言えるわけでも無いのにそんな言葉が頭の中に溢れて、むぎゅーっとした感覚になってその場から逃げてしまう。

むぎゅーっとした感覚ってなあに?と聴かれても、この表現以外的確な形が見当たらない。私の眼の前で、真面目に成功を望んで、真面目に取り組んでいるのにその取り組みが失敗に終わる。その姿にどうしても私の胸はむぎゅーっとなってしまう。

これが不思議な事に「チェッ。上手くいかねえってのかよ」なんて皮肉っぽくしょぼくれていると、平然とその姿を見れる。あらまぁ、上手くいかないものね。なんてストレートに思える。

でも、これが取り組んでいる当事者が真面目で、善人であればあるほど、その姿を見るのが苦しくてたまらなくなる。むぎゅーである。

この感覚は何だろうと言語化してみると、私は善意や真面目さが敗北をする瞬間を見たくないんだと思う。

テレビのCMなり、物語なり、何でも良いけれど、善意が勝つ姿を見ると私は安心する。

テレビの物語で苦手なシーンで言うと、悪意が無いのに悪い方向に世界が向かうシーンも苦手だ。

例えば、1920年代頃のアメリカが舞台の作品で、子供がお母さんのために料理を作ろうと思って、マッチで火を付けたら家が火事になった。というのもむぎゅーである。

昔見た映画で、うろ覚えではあるのだけれど、知能に障害がある16歳ぐらいの子のためにバースデーケーキを家族が用意したら、その障害がある子が食べてしまって「どうして食べたんだ!」と兄が怒るも、その罪が何であるかその子は気づかない。みたいなシーンがあった。

もうその光景を思い出すだけでむぎゅー・・・という感覚が止まらない。

私は世界にいい方向に向かって欲しいと思う。

でも、世界は善意すらも拒絶するし、善意だって敗北する。

そのたびに、私は神様がどこにいるわけでも無いのに「もう許してやってよ!」と頭の中で叫んで、胸がむぎゅーになってしまう。

こんな気持ちでは世の中は渡って行けないんだと思う。

でも、私はこの「むぎゅー」という気持ちと、死ぬまで付き合わなきゃいけないんだと思う。

果たして、これから歳を取って、このむぎゅーに私は耐えられるのか。

わからないけれど、とりあえず生きるしか無いんだよな。と思いながら、今日もビデオゲームでランクマッチを回すのであった。

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