Dommune「死に損なった二人のコンテンツ大学」番外 探偵小説の「哲学」 社会学者・宮台真司

【「微熱の街」を召還した「紅テント」の唐十郎】

今年5月、唐十郎の追悼特集群に触れて落胆しました。何も分かっちゃいない。唐芝居の理解の鍵は「つまらなさ」。価値やイデオロギーを伝える新劇芝居へのアンチテーゼです。

どんなアンチテーゼか。正しかろうが間違いだろうが、規定可能なものは「つまらない=力を奪う」。規定不可能なものだけが「わくわくさせる=力が湧く」。

だから、言葉ではなく言外(身体)が重要で、それゆえ、ヘーゲル(全体)ではなくバタイユやレヴィナス(無限)が重要、つまり「分かることよりも分からないことが重要」です。

誤解なきように言うと、「佐川君の手紙」の芥川賞が象徴的ですが、唐芝居の台詞は考え抜かれたロジックに貫かれます。でもワザと断片しか聴き取れないような早口で語られます。

19世紀末の社会学者デュルケムの「沸騰」やウェーバーの「カリスマ」の定義に含まれる「よく分からないけど凄いもの(感染させるもの)」を、描こうとする表現伝統に属します。

但し「よく分からないけど凄い」を、ナポレオンやヒトラーみたいに人に寄せるウェーバーより、街によせるデュルケム(に影響したタルド)に近い。その意味を以下に語ります。

【銀座を愛でる田舎者、浅草を愛でる粋人】

[重工業化=都市化]の当初(1860-)、都市は、「闇と光の織り成す綾」、「前近代的不潔と近代的テックが合体した怪物」でした。第2回パリ万博(1867)が象徴します。

同じ「怪物」は、1920年代ベルリンの「近代的デパートと頽廃的なLGBTカフェの合体」や、1920年代浅草の「近代的な凌雲閣と頽廃的な色街の合体」にも、みられました。

これを米国では「狂騒の時代」、日本では「エログロの時代」と呼びます。街に繰り出すだけで体温が上がる「微熱の街」(宮台語)。でもそれが統治権力による抑圧(全体主義)を生みます。

全ての列強に共通です。日本では、1920年代までの浅草が、関東大震災(1923)後の帝都大改造計画を経て、1930年代から銀座に置き換えられます(モボ・モガという流行語)。

1929年に川端康成(浅草紅團)と江戸川乱歩(押繪と旅する男)がそれに抗います。共に「浅草(闇と光の綾)から銀座(光)への流れ(近代化)」が、田舎者の劣等感によると見抜きます。

1920年代の会員制変態性欲雑誌ブームでは、医者・弁護士・大学教授ら「粋人」の会員が、医者・弁護士・教授など「への上昇」を目指すのは、劣等感を持つ田舎者だとして軽蔑しました。

軽蔑対象は「教養主義」と呼ばれました。教養の原語(独)は自己形成で、「全人化」を意味していたのに、日本では「勉強による地位上昇」を意味するものに変質していたからです。

違和感を覚えた「粋人」が、[田舎・下流]対[都会・上流]という二項図式に対し、二項図式の「中の人」対「外の人」という図式を立てたのです。宮台はこれを「卓越主義」と呼びます。

卓越主義では「粋人」がベタなゲームの「外の人」を指すものになります。卓越主義者も勉強しますが、「優等生からエリートへ」のゲームをシャレとしてこなし、その後を問題にします。

【二項図式の外に立つ探偵は「社会学的当事者主義」を嗤う】

列強共通に1920年代を戦間期「前期」、30年代を戦間期「後期」と呼びます。前近代を「闇」と呼ぶと、次のように展開します。なお英国は①が1890年以前で、②③の区分が不明確です。
 ①戦間期以前=「闇」
 ②戦間期前期=「闇と光の綾」
 ③戦間期後期=「光」

②と「闇と光の綾」に時期に「探偵小説」が誕生します、「探偵」は下流にも上流にも属さぬ「外の人」、田舎にも都会にも属さぬ「外の人」を象徴します。ホームズやポアロや明智のこと。

「外の人」は「あえて」所属せず、「あえて」根無し草を続け、「あえて」当事者になるのを嫌う。戦間期に社会学者マンハイムが「知識人は浮動する」と言います。まさに「探偵」の表象です。

マンハイムは、伝統主義(伝統だから擁護する営み)と、保守主義(伝統が合理的だから擁護する営み)を、区別した上で、伝統主義を痛罵し、保守主義のみ擁護したことで知られます。

同じマンハイムが、学者(学問する人)と、知識人(学問して「探偵」になる人)を、区別した上で、学者を痛罵し、知識人のみ擁護します。保守主義の擁護との共通性は何でしょうか。

「ベタなゲームの外の人になること」の擁護です。革命に怯える伝統主義者も革命に希望を託す革命主義者も、「探偵」から見ると頭が悪い。伝統一般の機能を論じる保守主義が正しい。

労働者に寄り添う学者(脱原発学者)も、資本家に寄り添う学者(原子力ムラ)も、「探偵」から見て頭が悪い。科学史と社会史の長いスパンが織り成す「全体性」を踏まえる知識人が正しい。

むろん「探偵」は「当事者」になりきります。MONSTERのルンゲ警部の如く。但しよりよい「探偵」に回帰すべく一旦「当事者」になりきります。頓馬な社会学的「当事者主義」ではない。

【「闇」でもなく「光」でもなく「闇と光の綾」から探偵が生まれる】

「探偵」は浮動し続けようと意志する。そんな生活者はいないので異様です。でもそんな「生活なき生活者」が戦間期から出て来て「都市生活者」と呼ばれます。「探偵」は「都市生活者」です。

横光利一が同時期、純文学(上層に当てた表現)でも大衆文学(下層に当てた表現)でもない、飽くまで「外の人」として同時代の社会を取り込んだ「純粋小説」を提唱して、話題になります。

「探偵=都市生活者」という異形は、以上の歴史から判る通り、戦間期の浅草(やパリやベルリンやシカゴ)の如き「微熱の街」、つまり「闇と光が織り成す綾」の中から登場したものです。

「闇と光の混淆」は、「前近代と近代の混淆」「掟と法の混淆」「共同体と社会の混淆」「本音と建前の混淆」です。「いけなくてもいけなくない」「怖くても怖くない」など両義性が浮上します。

正確には「肯定的アンチノミーと否定的アンチノミーの共起」(郡司ペギオ幸夫)で、それゆえ伝統的祝祭の「タブーとノンタブーの反転による沸騰」とは異なる「微熱」(励起状態)が訪れます。

【「安全・便利・快適化」が進む度に「かつての都市」が召還される】

祝祭の「時間性(沸騰)」を、人が絶えず出入りする悪所(色街・芝居街)の「空間性(微熱)」へと置換して抱えたのがかつての都市。都市の悪所を社会学者磯村英一が「第三空間」と呼びます。

「かつての都市」と言ったものの微妙です。銀座中心の1930年代から振り返った浅草中心の1920年代は「かつての都市」。ところがそれ以降「かつての都市」が何度も登場したのです。

高度成長を遂げた1960年代後半から回顧して戦後10年間(1945-55年)が「かつての都市」です。だから学園闘争に続くアングラは「反体制=反近代」として「かつての都市」を幻視します。

それを象徴したのがアングラ唐十郎。時間性を空間性に置換したのがアングラ寺山修司。アングラは思弁的で、唐も宿敵寺山も「近代」にも「前近代」にも与しない「探偵」たらんとします。

直後75年から「本陣殺人事件」「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」「獄門島」「八つ墓村」「女王蜂」「悪魔が来りて笛を吹く」「病院坂の首縊りの家」「金田一耕助の冒険」「蔵の中」「悪霊島」と5年で11本の横溝正史映画がヒット。人は「かつての都市」を幻視し、金田一耕助を憧憬した。

【局所的アジールの存在が「かつての都市」の召還を妨害する逆説】

新住民化で両義的時空が消えた地方や郊外で弾かれた若者が「最後のアジール」ストリートに集まった90年代前半、アングラの1970年前後が一部で「かつての都市」として幻視されました。

でもアジールたるストリートの「微熱」は、援交に見られるように高かったのに、大きくなると見えた没後十周年の寺山ブーム(に触発された唐ブームと若松ブーム)は小さく留まりました。

理由は、第三者たらんとする「探偵」をフィーチャした探偵小説(が原作の映画)のブームが起きなかったことに関連します。何と何に対する第三者でありうるか不明だったということです。

実は、なまじ局所的にアジールが存在したことが、逆に問題でした。つまり、局所的アジールの「沸騰」によって、かえって、街の「微熱」が阻害されてしまったのです。やや複雑な問題なので、注釈*に落とし込みます。飛ばしてもかまいませんが、社会学的には大切です。

*注釈

第一に「ストリートの」微熱が「街の」微熱に届きませんでした。規模よりセグリゲーション(界隈分断)の問題です。たとえば僕が朝日新聞に書くまで人々は援交女子高生の存在を知りませんでした。

第二に「ストリートの微熱」は、新住民化(=法化)した郊外から押し出された少女がアジール(=法外)でのみ全能感を生きる営みで、「闇と光の綾=微熱」よりもむしろ「祝祭=沸騰」に近いものでした。

彼女たちは、「つまらない」郊外や地方を逃れ、「制服という戦闘服」を着て「獲物」が多いストリートに、全能感を享受しに来た「外来者」で、闇と光の綾を生きる「都市生活者」ではありませんでした。

それゆえ彼女たちには「労働者でも資本家でもない」「地方人でも都会人でもない」の類の規定不能な第3項であろうとの意志はなく、「女子高生」という凡庸なフェチ記号に同一化することを欲しました。

その記号が「皆がそう見てくれること」に依存する点、旧来の「都会人」として見られたがる人々に似ます。ゆえに「都会人」と同様「女子高生」も記号の陳腐化で全能感を失うと援交女子がメンヘラ化します。

同時代の「小劇場ブーム」にも「闇と光の綾=微熱」を帯びた「かつての都市」を幻視する営みはなく、「かつての都市」を憧憬する「寺山・唐・若松ブーム」は小さなエピソードに留まりました。

ストリート的時空が拡がれば「かつての都市」のような「微熱の街」が戻り、言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシンの如き「クズ」を掃除できるだろうとの希望的観測は打ち砕かれました。

【探偵を生んだ「かつての都市」が久々に召還される2024年】

そして2024年、「冷えた令和」に耐えかねた若者の一部が、「ふてほど*」や歌謡曲のブームを通して80~90年代前半の「かつての都市」「微熱の街」に明確に憧れ、かつアジールはありません。

*宮藤官九郎脚本のTBSドラマシリーズ『不適切にもほどがある!』2024年1~3月放映

マクロなクズ化が加速する中で、だからこそ違和感を抱く若者が、少数派ではあれ倍増。ウヨ豚や糞フェミをはっきり「クズ」だと意識しはじめ、その動きを「ふてほど」が触媒しました。

経済の垂直降下と、共同体崩壊による感情的劣化で、「社会という荒野を仲間と生きる」自治的共同体(風の谷)が各所に生まれる時、「微熱の街」を浮動する「探偵」への憧憬も戻るでしょう。

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