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「望ましい」という化け物の話

「望ましいのはこう!」「あるべき形はこう!」

その化け物は「世間」とズレた時に全力で僕達を殴ってきます。

休日をダラダラ過ごしてしまった時、

宿題があるのに部屋の片付けをしている時、

自分よりキャリアが堅実な友人を見た時、

人からのアドバイスに素直に添えない時、

道で困ってる人に上手く声がかけられなかった時、

「そんなんじゃダメになっちゃうだろ!!」

と殴りつけてきます。

僕がこの化け物と出会ったのは中学生くらい。
不登校気味になり始めた頃でした。

母は真面目な人だったのであの手この手で学校に行かせようとしたし、
学校に行けないでいると不愉快そうな顔をしていました。

そんなこともあり、家と学校が世界の大半を占めていた僕にとっては
学校に行けないことは「人としての義務が果たせていない」という気分にさせられました。

でも、当時の僕はいじめを受けた経験から人が怖いと感じていました。
学校に行く方が社会通念上望ましいからと言って、
恐怖を抱える人に無理強いをしてよかったのか。

今となれば過去の話ですが、そこには疑問が残ります。

少し話が脱線しましたが、
「不登校になるという」挫折から、
僕はこの「望ましい」に囚われ続けることとなります。

「学校にはちゃんといくのが望ましい」

「人とのコミュニケーションは恐れないのが望ましい」

「好きなことでは人より優っているのが望ましい」

「大人になるまでには彼女を作るのが望ましい」

「身長は高い方が望ましい」

「心は病んでいない方が望ましい」

「お金はたくさん稼ぐのが望ましい」

望ましい…、望ましい…、望ましい…

たくさんの「望ましい」でがんじがらめになりました。
皮肉なことは「望ましい」と思えば思うほど、
そこから遠のいていってしまうことでした。

そしてこの「望ましい」の呪いは「望むこと」にも侵食してきます。

僕の場合は物を買う時なんかにそれが襲って来ます。
例えばギター、

自分の好きな見た目のギターは初心者向きではないからと
ついつい弾きやすさを求めてバランスのいいモデルの方を選んでしまう。

最初の目的は「好きな見た目のギターを弾く」だったのに、
「所持するギターは弾きやすい方が望ましい」という思考が挟まることで、
自分の純粋な「望むこと」から道が逸れることになってしまいます。

「望ましい」最大の欠点

しかし、全てのことが「望ましい」に対する「望むこと」で動き出したら世話無いし、社会は崩壊するなんてこともまた事実だと思います。
また「望ましい」が人をひいては社会を安定に導くこともあると思います。

ただ、一個人の話でいうのであれば「望ましい」の最大の欠点は、
「責任がとれないこと」にあると思います。

例えば、服飾の専門家でも無い友達に適当に勧められた服を来て飲み会に行ったら、「ダサい」といじられたことがあったとします。

そんな時、服を勧めた友達のせいにするでしょうか。
ちょっと真面目に考えるとそんな素人をアテにした自分の責任とも言えるわけです。
「いやだってあいつが選んだんだもん」なんて言えば面目丸つぶれです。

逆に自分で選んだ服をダサいと言われれば、自分のセンスがダサかっただけの話で「自分の責任」ととることができます。

「望ましいこと」もまた同じです。
「望ましい」と外側からそう提示されている(ように思われる)基準に合わせて行動すると、それがうまく行かなかった時、

「なんで!?言う通りやったのに!!」

と地団駄を踏む結果になります。
選択の基準に「自分が望むこと」がないので誰ともしれない人を責め続けることになるでしょう。

「望むこと」を進もうとすればするほど、
邪魔をしてくる「望ましい」の呪い。

これを読むあなたが真に「望むこと」を追えますように。

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