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記憶

過去は擬似的に視覚化できる。

我々の記憶は所謂、イベント(事象を表す象徴)
としての記録を脳内に残しやすい。

そのイベントとして記憶された物事の中には、
その時の雰囲気や感情、
会話、匂い、音などといった
ある出来事における詳細な部分が
内包されているということは
言うまでもない。

しかし、この記憶の詳細な部分こそ
もっとも忘れてしまいがちなものであり、
いつの間にか我々は、「記憶する」と言う行為を
引き金に、若しくは、その行為を意識してしまう
ことによって

悲劇にも無意識的にその重要な部分を
排除してしまうのである。

仮にそのような記憶を詳細記憶と名付けたとしよう。
この詳細記憶は、ふとした瞬間生まれ変わった様に
蘇るものである。
あたかも、前世の記憶が蘇るかのように。

我々はどの様な状態の記憶を
完全なる記憶と呼べるのだろうか。

また、過去というものは記憶というものを
シンボルに、ほぼ明確に認識することができるが
それは、本来数多の数ほどある
過去の記憶達が寄り集まって
今の存在証明の大きな根拠となって
いるからである。

これまで数十年、
あえて数万、数百万日と表現するが
その記憶と内包される詳細の
結果が今であるということを実感することが
現在の礎を認識することにつながっている。

しかし、冒頭で述べた様に
我々は詳細記憶の部分の定着が曖昧である。
その様な状態でなるほどどうして
イマを確かなものとして認識できようか。

ここで唱えておきたいのは
現在とは過去の屍から生まれるものである
ということだ。

即ち、現在と過去は全くの別物であり
より砕いて説明すると
昨日の自分と今日の自分は
全くの別人格、別魂魄である
ということである。

少し飛躍するが、
この場合、人格(魂魄)は何をもって
その確実性を証明できるだろうか。

デカルトは我思う故に…と
叫んだが、その定義は刹那的な物であることは
言うまでもない。

これらの思考を鑑みたときに
魂魄が劣化に依存する可変性の物質である
という一つの仮定が生まれる。

もしくは

論理的ではないのだが
肉体を基盤に魂魄が都度、リセットされている
という定義も同時に仮定することができる。

いずれにせよ、魂と記憶の問題、
記憶と現在における人格の問題は
ニヒリズムの住処となった21世紀に住む
我々にとって強大な地図になることは
間違いない。

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