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懐かしい風

 外を歩いていると、時折「私はこの風を知っている」と奇妙な感覚が湧き出てくることがある。不思議なのは、久々にある場所に訪れて懐かしい気持ちになるというだけでなく、初めて訪れる筈の場所でもそれが起こることだ。私たちが風を感じるときに、仮にそれが記憶の海のどこかを強く刺激しているものだとして、いったいどれほどの要素が絡み合っているのだろうか。目に映るものの中でもある特定の日の光だったり記憶のそれと全く同じでなくとも同じ名前の物だったり、肌から感じる温度や風の強さ、鼻腔をくすぐる匂いや、風と踊る落ち葉の立てる音だってそうかもしれない。


 よく思い出してみると、私は突然「この風を知っている」と直接思うわけではない。風が吹いて、私の心が少しなびく。その後に、この心の動き方が前にもあった気がする、と感じるのだ。言うならばより感情的で抽象的なデジャヴなのかもしれない。

 この風に吹かれたことで現れる微妙な心の動きというものが、私にとってすごく面白い。微妙な動き、というのは正しくないかもしれない。普通、感情には名前があって私たちはその名前に助けられているように思う。名前がついているというのは結構重要なことだ。険しい顔を真っ赤にして大声で何かを叫んでいる人がいれば、私たちはすぐに「ああ、あのひとは怒っているんだな」と思う。それは怒りという感情を知っているからこそできることだ。仮に私たちが「悲しみ」しか知らないのだとしたら、「あの人は悲しんでいるのとは違う、けど何かを訴えたいのだろうか」と思うかもしれない。それと同じように、多分だけど人類というか少なくとも日本人は風に吹かれた心の微妙な動きに名前を付けていない。だから私は自分が思っているほどこの感情の大きさを測れていない。その証拠に、微妙な動きという割に私の涙腺が緩むことがあったり、どうしようもなくなってどこか遠くまで歩いていきたくなる衝動に駆られたりすることが今まで何度もある。人は、無意識のうちにこれは〇〇という感情だと認識して咀嚼している部分があるのかもしれないと思った。

 物心ついた時から、自分はひとりだという感覚が付いて回っている。その感覚は薄れることなく、今の今まで生活のふとした隙に私を包み込もうとしてくる。でも決してそれは嫌な感覚ではなく、私の視界に色彩と躍動感を与えてくれている。家族や友達がいようとも、私たちは根本的に他人になることができない。共感や共体験といった作業はその距離を誤魔化そうとする行為だ。だけど決してそういったことを否定するつもりはなく、自分が独りであるということを意識しているからこそ他人との関わり合いや優しさの中になにか染み渡るものを感じ取れると私は思っている。それは丁度、寒い冬の日に温かい家の扉を開けたときのように。だから私は孤独は決して悪いことではないと思っているし、この感覚はかえって私を安心させてくれている。


 SNSが蔓延る今、そして私以降の世代では私のような人間はかなり少数派だと思うけど、どうかそっとしておいて欲しい。これでも結構毎日が楽しくて充実しているのだから。

 追記:この記事を書くに至ったきっかけが、落ち葉がカラカラと舞っていたのを見たことだったわけだけど、試しにサムネイルをadobeの画像生成で作りました。確か入力したテキストは、 木枯らし 石畳 とかほんとに簡単なものだったので驚いた。少しよく見るとAIだって分かるけど、こんな2単語打ち込んだ結果これってすごいなと思う。このくらい撮れよってのはその通りなのでカメラ構えて色んなとこ歩き回りたいですね。では。

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