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#17 余白

ドイツに留学して、”余白”に関する概念が自分の中で生まれた。

それは、様々な文脈における余白。人間関係の余白/時間的余白、これらが最も大きくかつ分かりやすい自分における新たな余白である。

この気づきの根本を辿ってみると共通の気づきにたどり着く、それは”他者は自分の思い通りにならない”ということ。

言われてみればそりゃそうだ、と思う人が多いと思う。しかし、それを思って実際自分の行動に反映できている人が果たして日本にどれだけいるか、という話をするならば、僕はその人数はあまり多くないと推測する。

日本ではあまりに他者が自分の思い通りになっていたと思う。少なくとも僕は24年間日本で暮らしていてそう思った。常に自分の思い通りに動いていた他者、誠心誠意尽くしてくれる赤の他人、電車も何もかも思い通り(電車の話をするならば、日本という場所で区切るより、東京という場所に限った話にした方がいいかもしれない)。

研究をしていたってそう。常に隣の部屋に指導教員がいて、質問したいと思ったときに割といつでも質問することができる環境だった(この環境を良しと思える人は限られていると思うが)。

だからドイツに行ったとき、他人が自分の思い通りにならないシーンに直面し、衝撃だった。そりゃ経験したことがないことに直面すれば、人は驚くことしかできない。

考えてみれば何も不思議なことはない。目の前の他人も自分と同じく、その人のストーリーを伴って生きている。たまたまそのストーリーと自分のストーリーが交わっただけであって、そこに僕への無条件の貢献することの理由なんてあるわけがない。

そんなことを思い始めてから、”余白”への概念が生まれたんだと思う。ドイツにいるときにはあまり感じることはなかったが、帰国してからはこの概念は僕の暮らしを随分楽にしてくれていると思う。

他人が自分の思い通りにならないのは当たり前、だから予定不調和なんていつでも起きる、くらいの気構えがちょうどいい。仮に思い通りになったとしたら、それはとてつもなくありがたいことである(有難い、漢字で書くとよりニュアンスが伝わる気がして好き)。

留学前の僕は、この考え方をすることができなかった。いつでも予定をギチギチに詰めて、何かトラブルが起きて予定通りにならないと割と人のせいにしてしまう、そんなことを繰り返していた気がする。そういった意味では器の大きさは明らかに大きくなったと思っている。

結論、他人へ感謝する時間が増えた気がする。”ありがとう”と素直に言えるシーンが多くなったと感じている。そんなにやっていただかなくていいんですよ…!と思わずいってしまいそうになるくらい、みんな尽くしてくれていると僕は思っている(こんなことを思っているのは僕だけかもしれないけれど、この際それは気にしない)。

だからこそ、まだこの国が好きで離すにはもったいないな、と思う理由になっているのかな、と思う。まだなんとかなるんじゃないかな、と思っている自分もここにいる。

これからどうやって生きていこうかなぁ。

※ 画像引用 https://matome.naver.jp/odai/2134114963450923401/2134115184451098803

余白と聞いてこの画像を思い出したので使用しました。大学一年のときすごいこの画像が好きで、しばらく携帯の待ち受けにしてた。

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