見出し画像

小説|でぃあぼろ

 一

 心を奪われると終わる。
 だから私は息を詰めて生きていました。

 黒い壁とガラス製のパーティションで区切られた役員室の天井には、橙色の間接照明が灯っている。部屋の中央には飾り気はないがデザイン性の高い大きなデスクが一台。そのデスクに向かう岸 侑李(きし ゆうり)は、マホガニーの天板に置いた右手の爪先を見ていた。いつもと同じように磨かれ、薄色のジェルネイルが塗られた爪が明かりを反射している。親指の付け根に浮いた甘皮を人差し指で擦りながら裏返すと、爪の間の垢に気付いた。「汚い指だな」と思う。
「どうして見てくれないんですか」
 デスクを挟んで向かい合った男が口を開いた。思わず顔を上げてしまったが、「人殺しかもしれない」と思うと目を合わすのが躊躇われ、口元に視線を止める。
「なにを」
「僕のことを」
 薄い唇の端がわずかに上がっているように思えた。ゆっくりと目線を上げると、じっとしたまま動かない瞳がこちらを見返している。黒に近い虹彩は瞳孔との境すら分からない。マネキン人形のように硬い表情からは感情も思惑も読み取ることができず、不気味だった。
「……思わせぶりな話し方が上手ですね。富樫の事もそうやって唆したんですか」
「唆した? 僕が富樫さんを?」わざとらしく眉間に寄った皺を見ながら、「やっぱり嫌な男だ」と思う。
 男はアスと呼ばれていた。それが本名なのか愛称なのか、侑李は知らない。明日見(あすみ)か、明朱人(あすひと)か、それとも遊馬(あすま)。またはUS、Asshole――尻の穴。
 黒のジャケットにインナーはグレーのVネックを合わせている。隙きのない着こなしは若い経営者風だが、顔を見ればインターンにやって来た学生かと思うほど肌に張りと滑らかさがある。この部屋にやって来た時、それまで想像していた容貌より遥かに若く見え驚いた。
「今更、私に何の用です? もう帰りたいので手短にすませくれると助かりますが」
 アスがやって来たのは、窓から見えるオフィス街に夜の明かりがついてから、ずっと後のことだ。仕事を終え、電源を落としたばかりのノートパソコンをブランド物のレザーバッグに放り込んでいると、内線が鳴りまだ残っていた女性社員から来客を伝えられた。約束もなく終業後にやって来た客など追い返そうと思ったが、電話越しに弾んだ声が「岸さん、あの人、アスです」と告げるのを聞き、驚いて「すぐに通して」と返し電話を切った。
 そのアスが今、侑李の目の前で椅子にゆったりと腰を掛け横顔を見せる。ガラスの向こうに広がるオフィスを眺める目は、ちりちりと機械のように動くばかりでやはり感情が読めない。
「……もうニ年ですか。富樫さんが亡くなってから」
「まだ一年と九ヵ月。貴方に殺されてから」
「そんな――」
 向き直り困ったように笑って見せたが、こちらの顔色を見てすぐに笑みを引っ込めた。その様子をじっと観察していた侑李の額にはじんわりと汗が浮いている。室内は空調がきいているものの、空気は乾いて薄ら寒い。顔を隠すように手で覆いながら、湿り気を帯びた額をそっと人差し指で拭う。
「まさか本当に信じてるんですか? 僕が富樫さんを殺したなんて」アスは、濡れる黒い瞳を思わせぶりに震わせた。
「貴方のせいで、富樫は事故に遭った」
「僕は何もしてません」
「本当に?」
 訊ねるが、固まった顔からは動揺も答えも引き出すことはできなかった。
「会社は岸さんが継いだんですね」
「継いだわけじゃない。代表じゃないから」
「富樫さんの持ち株を全て相続したと聞きしました。ならこの会社に、岸さん以上の発言力を持つ人間なんていない」
「よく我が社の内情をご存知で。いつかまた潜り込もうと思って探りを入れてた?」
「古巣が懐かしくて気になっていただけです」
「演技がお上手、とても悔し紛れの台詞には聞こえない。お若いように見えるけど、ずいぶん修羅場をくぐり抜けて来たんでしょうね」
 挑発するように言葉を重ねる。
 そんな侑李の物言いにも、右頬を緩く上げ皮肉めいた笑みを浮かべるだけで、
「……見た目ほど、若くはないんですよ」と、低い声で返された。
 細められた目の奥、眼光の鋭さにひやりとしたものが背筋を這い上がる。
 乾ききって粘つく口内に僅かに残っていた唾液を飲み込む。喉は鳴らなかったはずだ。気づかれてないだろうか、と伺い見るも先程まで浮かんでいた笑みは消え、黒い瞳がこちらを向くばかりだった。
「今度は……私を殺しに来たの?」
 高いビルの上から飛び降りるような心地で訊ねた。それでもアスは顔色を変えず「何故そう思うんですか?」と、問いに問いを重ねる。
「この会社が欲しいから」
「どうして」
「金を生み続けてくれる」
「そんなものに、それほどの価値がありますか」
「お金に困らない生活を夢見ない人なんていない」
「だから僕が横取りしようとしてるって言うんですか。岸さんがやったのと同じように?」
 素早く動いた口元を、
「私はそんな事してない」と睨みつける。
「僕だって、そんな事はしない」、表情を変えずにアスは言う。
「信じられない。ならどうして――」
「愛していましたよ、僕も」
 意外な言葉に遮られ、口を噤む。
「富樫さんのこと。貴女と同じように」
 言い放ったアスの唇には、やはり冷えた笑みが浮かんでいるように見えた。侑李は息を呑み、その顔を見返す。

 ニ

「アスって、あのアスか!?」
 スーツの上着から腕を抜きながら、ぽかんと口を開けた樋口 徹(ひぐち とおる)に見下ろされている。侑李は上着を受け取り「多分ね。会社の女の子達がそう言ってたし」と返事する。
「アスかぁ……最後に見たのは富樫の葬式だったかな。君、会ったことなかったのか」
「今日はじめて見た」
「イケメンだったろ」
 からかうように笑った徹に、右手をひらと振り嫌そうな表情を見せつけ「思ってたより若く見えた」とぶっきらぼうに返す。
 受け取った上着の肩に、少し白いフケが乗っていた。手で払ってからハンガーにかけ寝室に備え付けのクローゼットを開く。中には似たようなグレーのスーツがずらりと吊られていた。
「今日、遙華(はるか)ちゃんは」
「母さんの家」
「ふぅん。なら朝までいられるんだな」
 そう言って徹はにやりと笑う。その徹の、ワイシャツにくたびれたトランクスだけの姿を見ていると、途端に我が家が恋しくなってしまった。

 シャワーを終えた徹が風呂場から出た音が聞こえた。キッチンカウンターの上に500mlの缶ビールと小鉢に入れたキムチを置き、洗い物を続ける。
 徹の部屋はファミリータイプの1LDKで、都心のマンションにある。リビングこそ広めだが、長年住んでいるせいか一人暮らしの割には物が溢れ、家財道具も古びている。そんな部屋で一人家事をしていると、まだ食べていくのに精一杯だった昔に戻ったようで、いつも憂鬱になる。「お金はあるんだから、もう少し広い家に引っ越しなよ」と勧めているのだが、「いいよ、この部屋で充分」と言う。徹は、そういう男だった。
「アスの奴、何の用だって」
 リビングのドアを開くなり、徹が訊ねてきた。スウェット姿でまだ濡れたままの頭をごしごし擦りながら椅子に腰掛ける。食器洗いを終えた侑李は冷蔵庫から自分用の缶ビールを取り出し、リビングに出て徹の向かいの席に座った。
「会社が懐かしくなって寄ったって言ってたけど」
 蓋を開け、一口呑む。
「なら、なんで会ったこともない君んとこ行ったんだよ。他に誰かいなかったのか?」
「私と富樫の話がしたかったって」
「富樫の――」と言ったきり、徹は口を噤んだ。

 一昨年の秋に死んだ富樫辰馬(とがし たつま)は、小さなIT会社で働くエンジニアだった。会社員時代に個人で立ち上げたソーシャル・ネットワーキング・サービスが大当たりし、その広告収入で財を成した。ところがその当時、副業を認めていなかった事を理由に、会社は富樫に「サービスの権利を譲渡しろ」と無茶な要望を突きつけてきた。富樫は退社し、新しい会社を設立した。まだ二十六歳だった。
 設立から数年後、富樫は自社開発ソフトウェアの販売にも乗り出す。侑李が富樫の会社に転職したのはその時期だ。今では百名以上の社員を抱える社に、まだ富樫と徹を含め四人しかいなかった頃の話だ。
 その当時、出版社で働いていた侑李の元に、開発中のソフトを売り込みにやって来たのが一歳年下の富樫だった。富樫の斬新な発想によるソフト企画の数々に、侑李は「この会社は必ず伸びる」、そう直感した。その場ですぐに「雇ってください、損はさせません」と頼み込んだ。売り込みに来たはずが逆に売り込まれ、最初は驚いていた富樫だったが「アグレッシブな人ですね」と愉快そうに笑い、後日、企画担当として採用してもらった。
 その時、富樫がプレゼンしていた内の一つが、2Dイラストを自動的にアニメーションさせる画像処理ソフトだ。製品化されるとたちまちSNS上で話題となり、その売上は会社を大きく成長させた。発売から八年経った今なお海外からの引き合いも多く、バージョンアップを重ねながら順調にシェアを拡大し続けている。
 そのソフトウェアの名前は「Unbelievable Scribble(信じらられない落書き)」、通称「US(アス)」。

「……なぁ、本当にあいつが富樫を殺したんだと思うか?」
 眉を顰め、声を一段低くした徹が訊ねる。 
 富樫は事故で死んだ。会社近く、車通りの多い片側二車線の国道に飛び出しバンに轢かれて死んだ。車がスピードを上げ走る直線道路に、突然、ガードレールの隙間から飛び出し、あっという間に跳ね飛ばされたのだという。目撃者によると、富樫は道路の対岸に何かを見つけたようだった、とも。
 その時、反対車線の歩道にはアスがいた。しかし、ただそこにいた(・・・・・・・)だけに過ぎない。アスを見て富樫は自発的に飛び出した。なので罪には問われていない。
「富樫は絶対に自殺なんてするタイプじゃなかった」
「それはそうだけど……死ぬまでの数カ月間は様子がおかしかったろ」
「それ、あの男が会社に来てからの話よね」
「うん、富樫がアスを社に連れてきた頃から少し変だった。だけど、アスのせいとも言い切れないんじゃないかな。君と遙華ちゃんの事も心配だったろうし」
「なら、私のせい?」
「そうは言ってないだろ」、うんざりした様子で顔を歪める。
 溜息と一緒に「やっぱりよそう、この話は」と言い捨て、テーブルの上に置いてあったリモコンを手に取りテレビをつけた。徹と富樫の話をすると、決まって最後はこうして会話が終わる。

 アスを会社に連れて来たのは富樫だった。徹から聞いた話によると、富樫は「アスっていうんだ、面白いだろ」と、自社の売れ筋ソフトと呼び名を同じくするその男をろくに素性も明かさず自分の下で働かせたという。在籍していたのは三ヵ月間。侑李が、一人娘の遙華の不登校を理由に休職し始めた翌月から、富樫が死ぬまでの間のことだ。
 はじめ、富樫はアスに秘書役としてスケジュール管理や雑務を任せていたが、そのうちに塩漬けとなっていた新規企画のまとめも行わせるようになった。富樫が死ぬ間際には、取締役会議にも出席させていた。
 最初のうちは、社長特権でどこの誰とも分からぬ若造を働かせて良いのか、というもっともな批判が社内から噴出したそうだが、すぐにその声は消えた。アスは、天才肌の富樫をも超える才気と、人の心を惹きつける悪魔的な魅力を備えていたという。
 日が経つにつれ社内でアスが担う役割は大きくなり、最終的には富樫に代わるほどだった。侑李が不在の間に、社内のパワーバランスがすっかり変えられてしまった。それもたった三ヶ月の間の出来事である。
「突然やって来てどんどん仕事に口出してくるから、何様だよって最初はみんな怒ってたんだけどな。会社に来るようになって一週間もすると、みんなあいつにメロメロ。女も男も、誰も文句なんか言わなくなった」
 富樫の死後、徹は当時を振り返りながらそう語った。
「あの時、君の休職の理由を知らされてなかったろ。だから俺たち、てっきり富樫がアス相手に浮気したんだとばかり。それで君が怒って会社に来なくなったのかと」
 という徹の言葉には、唖然とするばかりだった。
 富樫とは入社後すぐに付き合い始め、六年目の仲だった。籍こそ入れていなかったが周知の内縁関係で、だからこそ富樫の遺言書に、会社の株式の相続人として侑李の名前があっても異論の声は上がらなかった。侑李の休職中も、週末には必ず家にやって来て娘と三人で過ごしていた。
 富樫はいつも笑顔で物腰こそ柔らかかったが、何を行うにも計算が先立つ、冷静な男だった。取り乱した姿など見たこともなかったし、ましてや若い男に入れ込むなどとは想像もつかない。
 ただ気にかかる点もあった。富樫は生前、侑李の前でアスの話をしたことがなかった。アスの存在自体、知らされていなかった。

 徹から聞いたアスの話を思い出しながら、ふと疑問が湧き、侑李は顔を上げる。
「ねぇ」という呼びかけに、
「なに」
 缶ビール片手に、テレビに映るバラエティ番組から目を離さずに徹が答える。
「あいつが会社で働いてた時、徹もあいつの事が好きだったの?」
 眉をぐっと上げた徹がこちらに向き直る。
「……今は、君ひとすじだよ」
 笑わせるつもりで、そんな台詞を口にしたのだろうか。ぎこちなく口端を上げ笑みをつくった徹が、急に別人のように見えた。

 三

 カードキーをリーダーに翳して解錠し、ドアをひく。
「ただいまぁ、遅くなってごめん」
 開いた隙間から顔を入れるとぱっと照明がつき、足元の大理石を照らした。いつもそこに雑に脱ぎ捨てられている遙華のスニーカーが無いことに気づき、顔を上げる。
「遙華ぁっ?」
 腰を屈め、踵からパンプスを抜き取りながら声を上げる。返事はない。
 玄関ホールに上がり、リビングに向かって、
「遙華、いないの? 遙華っ」呼びかけるが、やはり声は返ってこない。
 リビング、遙華の部屋、侑李の部屋、トイレ、バスルーム、ウォークインクローゼットと次々に扉を開き確認するが、どこにも娘の姿は見当たらなかった。二十五階の大きな窓から見下ろす海沿いのビル群は夜の闇に溶け、無数の明かりを輝かせている。壁で時を刻む銀の針を確認すると十九時二十分。いつもなら、とっくに家に戻っているはずの時間だ。
 時計を見上げたまま、しばらくの間、動けなかった。鼓動が早くなり息苦しさを感じる。帰っているはずの娘の不在が酷く恐ろしかった。
 震える手で鞄からスマホを取り出し、遙華に電話をかける。呼び出しコールが繰り返されるばかりで娘は電話に出ない。次に母に電話すると、すぐに「はぁい」というのんびりとした声がスピーカーから聞こえてきた。
「遙華はっ、いま一緒にいるのっ!?」
 侑李の取り乱した声に驚いたようで、電話の向こうの母は声を小さくし「もうとっくに家を出たわよ」と言い訳のような口ぶりで答える。「まだ帰ってないの?」と今度は咎めるような口調で言った。
「家出たの、いつ」
「五時ころ」
 近所に住む母の家からここまでは、ゆっくり歩いても二十分程の距離だ。昨夜、遙華は母の家に泊まり、今晩帰ってくる約束だった。
「電話、出ないの?」訊ねる母の言葉を遮り、「また連絡する」と言い捨て切断する。
 顔が熱く感じられた。両掌で頬を覆ってみる。触れたスマートフォンの冷たい感触に少しばかり正気に返り、呼吸が浅くなっているのに気付いた。大きく息を吸い、吐き出す。
 こんな時に決まって脳裏に蘇るのは、幼い遙華の、力なく横たわった身体と虚ろな眼差しだ。小さな身体からは、たくさんのコードが伸びていた。

 遙華は五歳の冬にインフルエンザ脳症を発症した。高熱が続いた二日目の夜のことだ。和室に敷いた布団の中、瞳はぐるりと上を向き、陸に打ち上がった魚のように口をぱくぱくさせ身体をびくびくと引き攣らせた。隣で寝ていた侑李はすぐに気づき、吐いても喉がつまらぬよう、娘の顔を横に向けた。
 幼い頃から何度か痙攣発作を起こすことがあった。初めて見たのはまだ一歳になったばかりのことで、目にした時、我が子が別の生き物に乗っ取られたようで怖かった。ただし一般的な熱性痙攣が命に関わることはないことを知っていたので、五歳のその晩も、苦しむ娘の傍らで見守り続けた。
 様子がおかしい、と感じたのはその晩、三度目に起こした痙攣の後である。ぼんやりと焦点の定まらぬ目を薄く開き、「オイケに、タロウが」と訳の分からないうわ言を繰り返した。すぐに救急車を呼び、病院へ到着すると数々の検査の後、インフルエンザウィルスによる急性脳症と診断された。命を失う可能性と、後遺症の残る可能性についても説明された。
 その年、侑李は遙華にインフルエンザワクチンを打たせていなかった。前年に打った際に副反応で高熱が出たため躊躇いがあったせいだ。それに、遙華を育てながら会社に通うだけで精一杯の毎日で、気づいた時には接種枠が埋まり予約を取ることができなかった。打ったところで必ずしも脳症を防げるものではない、という話は担当医から聞いた。それでも耐え難い呵責が侑李を襲った。
 検査の間中、病院の薄暗い廊下に置かれた合皮のベンチに座り、お腹を抱えるように俯いていた。いくつもの言い訳がぐるぐると頭の中を駆け回っていた。検査室からは何度も「やーーーーっ」と泣き叫ぶ我が子の悲鳴が聞こえ、涙がこぼれ落ちた。ただ、祈って待つほかなかった。どんな神や仏に対して祈っているのかは自分でも分からなかったが。
 入院から三日目の昼、それまで抜け殻のようだった娘の口から「ママ、お腹へったよぉ」と、はっきりとした声が聞こえた。侑李は遙華の頬に触れ、泣いた。「遙華が帰ってきたっ!」そう思い、泣いた。娘は生還した。
 幸いなことに後遺症も残らず、医者からは「おめでとうございます」と祝福されたが、入院生活を終え自宅に戻った遙華に、侑李は違和感を覚えた。
 遙華は元々、楽観的で嫌なことはすぐに忘れる子供だった。そんな明るい性格が侑李は大好きだった。一方で病後の遙華は気難しくなった。好き嫌いがはっきりし、嫌いなものは絶対に受け入れない。叱られると長い間、引きずることもある。記憶は持続している、姿も変わらない。なのに「前の遙華とは違う」という妙な確信があった。
 遙華が小学四年の年に、「学校の勉強が嫌、勉強も学校も怖い」と泣きながら告げてきた時には脳症の後遺症を疑った。不登校が続き障害の可能性も視野に入れいくつもの検査を受けさせたが「とくに問題ありません」と言われ、終わった。実際に不登校という問題が起こっているのに「問題ない」とはどういう意味なのだろう。侑李は怒り、やがて問題が見つからなければ解決策もない、という壁にぶつかり絶望した。外出すらままならなず隔絶されていく娘を見て「あの脳症が、遙華から生き抜く力を奪ったのかもしれない」と思い込んだ。「もう少し早く異変に気づいていれば、ワクチンさえ打っていれば」と自分をまた責めた。
 四年生の一年間はほとんど学校に行くことのなかった遙華だったが、自宅で勉強を続け五年に進級した春にはなんとか登校できるようになった。中学三年の年にも一月ほど学校を休むことがあったが、二人で乗り越えた。
 遙華は今年の春、十七歳になった。再来年は付属高校からエスカレーター式に大学へ進学することが決まっている。もう背丈も侑李を越した。
 それでも、「この子は私が一生守っていかなければ」という侑李の決意は変わらない。

 どこを捜せば良いのか見当もつかなかったが、一人で待っていると不安に押し潰されそうで、今度はスニーカーに履き替え玄関のドアを押し開いた。
「わ、びっくり」
 ドアと扉枠の間から目を丸くした遙華の顔が現れた。安堵と驚きと怒りが一気に湧き上がり、「今までどこにっ」と声を上げさらに開くと、娘の横に人影があるのに気づいた。背の高い若い男だ。
「ごめんね、遅くなっちゃって。この人、ママの知り合いでしょ? フラペチーノ奢ってもらっちゃった」
 隣に立つアスの横顔を見上げ、遙華は楽しそうに笑う。そのアスは、張り付いた笑みを崩さず、じっと侑李を見下ろしている。
「どうして、遙華と――」小さな声が出た。震えていたかもしれない。
「街で偶然、娘さんをお見かけして僕から声をかけました。富樫さんのお葬式で少し話した覚えがあったので」
「それ本当? 私、全然覚えてないよぉ」と答える娘の鼻にかかった声音にゾッとする。胸の内で「嘘だ」と反論する。富樫の葬儀の際、侑李はアスと顔を合わせていない。とすれば、侑李と行動を共にしていた遙華と会っていた可能性も低い。
「遙華、家に入りなさい」
 アスを睨みつけながら娘の背を押し玄関へと促す。
「え、だけど」
「いいから、早く」、苛立った声に遙華は渋々といった様子で玄関に入った。代わりに侑李が外へ出て、アスと対峙する。
「ママ?」
 母の様子を訝しんで声をかけてきた娘に「少しこの人と話がある。下まで送ってくるから、あんたは家で待ってて」と言うと、遙華は名残惜しそうに手を振ってからドアを閉めた。

「娘に近づかないで。何かしたら許さない」
 二十五階から降りるエレベーターの中、侑李とアスは二人きりだった。扉を背に、こちらを見下ろすアスの顔に鋭い視線を送る。アスは平然と、
「何もしませんよ。娘さんには(・・・・・)」、答えてから「富樫さんには似てませんね」と続けた。
「え」
「遙華さん」
「……富樫の子じゃない」
「あぁ、そうでした」
 アスが薄く笑ったのを見て、かっと頭に血が上る。
「さっきから、どういうつもりでっ――」大きな声が出かけたが、
「ずいぶん大きな娘さんなんで驚きました。いくつで産んだんですか?」という不躾な質問にかき消された。頭の中に「十八」という数字が浮かぶ。
「へぇ。じゃあ今の遙華さんと変わらない年頃だ」
 身体の中心を、びりっと電流のような緊張感が走り抜けた。声には出していないはずだ。
 驚きで口が緩く開き、眉間に力が入る。その侑李を、にっこりと笑うアスが見下ろしている。侑李が遙華を産んだのは十八歳のことだ。相手は学生時代に付き合っていた年上の男で、籍は入れていない。実母の力を借りながら、未婚の母として遙華を育ててきた。そのことを知っていて鎌をかけてきたのか。それとも――
「ずいぶん大切に育てているんですね。もう十七歳なのに夜の外出が心配? まだこんなに早い時間なのに」
 背中に小さな虫が這っているようにゾワゾワする。スーツの下に着込んだニットの中、寒くもないのに鳥肌が立っていた。喉を大きく鳴らし、唾を飲み込む。
「……子供よ」絞り出した声の弱々しさに自分でも驚くほどだった。侑李はもう一度アスを睨みつけ「まだ、子供よ」、言い直す。
「岸さん似の、しっかりした女性だと思いましたけど」
「そんなわけない」
「貴女が十八であの子を生んだのと、もう一歳しか変わらないんですよ」
「私とは違う。遙華は私がずっと面倒を見てないと、上手く生きられないのよ」
「一生? それは母親の役目?」
「そう、私の役目。私の責任」
「だからより多くの金を残してやろうとしてるんですか。だから会社を手放したくない?」
「その通りよ」
 決然と言い切った侑李を、
「嘘だ、娘のことは貴女自身への言い訳に過ぎない」
 アスは馬鹿にしたように鼻で笑った。
 初めて見たアスの人間らしい表情に、心臓が大きく跳ねた。この男が何を言おうとしているのか、今の一言で瞬時に理解できてしまった。
 一歩、後ろに下がる。背中にはドアの冷えた感触。
 突如どすん、とエレベーターの動きが止まり、内部を照らしていた照明がふっと消えた。すぐに非常灯に切り替わり、青みがかった薄暗い光が二人を照らす。侑李は慌てて非常ボタンに取り縋る。何度押しても応答はなかった。
 振り返るとアスはじっと動かず、まだ侑李を見ている。
「これも……貴方の仕業なの」
「偶然ですよ。でも、こうなるように願っていた」
「どうして」
「もう少し二人きりでいたかったから」
 怖かった。この男が自分の罪業にどこまで気付いているのか、想像すると怖かった。ここからすぐに逃げ出したくて、エレベーターのドアにごんっごんっ、と両拳を叩きつける。
「誰かっ、助けてくださいっ!」
 狭いエレベーターの壁に声がぶつかる。ごんっごんっ、ドアを叩きつける拳にじんわりと痛みが広がる。
「無駄ですよ。助けなんか来ない」
 アスがすぐ後ろまで近づいていた。侑李は向き直り、ドアに背中を押し付け見上げる。
「……なぜ私の前に現れたの」
「僕のことをわかってもらえる気がして」
「言ってる意味がわからない」
「僕と貴女はよく似ている、という意味です」
 ぐっと顔が下りてきた。息が触れそうなほど近づいてきたのは、奇妙なほど左右対称に整った顔と真っ黒な瞳。
「もう一通の遺言書は、どこにやったんです?」
 電気がついた。
 頭部の後ろから注ぐ白い光が目に飛び込み、男の顔が影になる。ごうんとモーター音が響き、エレベーターが動き出す。
「あぁ、時間切れ」
 身体を起こし、天井に光る照明を見上げながらアスが残念そうに呟いた。
「明日また来ます」
 そう言い残し、ようやく開いたエレベーターのドアから出ていった。
 床に座り込んでしまった侑李は、立ち上がることできなかった。

 四

 富樫の遺言書は、たしかにニ通あった。
 一通は侑李への財産相続について書かれたもの。その他にもう一通、富樫の自筆で日付と「遺言書 第一条 遺言者は」とだけ書いた未完成の遺言書があった。署名も入っていなかったが、そちらの方が新しく、日付は富樫が死ぬちょうど一週間前だった。
 富樫の部屋でそれを見つけた侑李は、誰にも言わずに捨てた。法的効力が無いことはわかっていたが、捨てずにはいられなかった。
 富樫が遺言書の内容を書き換えようとしていた。そしてその事実を葬り去った。疑念と不安が、今も黒い棘のように胸に刺さっている。

「広い部屋ですね」
 リビングに通されたアスがゆっくりと頭を動かし部屋を見回している。窓のカーテンは閉めてある。この男がやって来るのはいつも夜だ。
 部屋の中央に置いてある食事用のテーブルセットを「座って」と指差す。窓際にカウチソファもあるが、そこで寛がせるのが嫌だった。
 アスは、長方形型のテーブルの短辺に置かれた椅子に腰掛けた。いつも遙華が座っている席だ。侑李は食事の時、角を挟み斜めに向かい合った席で娘の食べる姿を眺めている。家は変わったが食事の時にはずっと同じように座っていた。娘が食べ物をこぼすたび、腕を伸ばして拭いてやった。
 アスが腰を下ろしたのを見て、仕方なく、侑李もいつもの場所に座る。肉体が近くに感じられ不快だった。
「遙華さんは」
「出かけてる」
 遙華は今日も母の家に泊まらせた。この男と娘を接触させたくなかった。
 今日で終わりにする――そう決意して、アスを家に上げた。
「富樫に二通目の遺言書を書かせたのは、貴方ね」
 侑李の言葉に、窓の方を眺めていたアスがこちらを向く。黙ったまま頷く。
「一通目を書かせたのは、貴女だ」
 アスの言葉に侑李は否定も肯定もしない。
「いつまで経っても籍を入れようとしない富樫さんに苛立っていたんでしょう。もし仮に、富樫さんに何かあっても貴女にも娘さんにも一銭も残らない。だから富樫さんに遺言書の作成を勧めたんですよね」
 正解。
 テレビや新聞で相続の話題を見かける度に、侑李は富樫にそれとなく遺言書の作成を勧めた。「私達、あなたがいなくなったら困ってしまう」と言い添えて。富樫はその度、「僕は死なないよ」と困ったように笑い拒否したが、やがて折れた。「書いておいたよ」と遺言書を見せてきた富樫に、侑李は「ありがとう」と礼を言い抱きついた。
「仮にそうだったとしても罪を犯したわけじゃない。富樫を殺した貴方とは違う」
「僕だって何もしていませんよ。ただ道を歩いていたところを、富樫さんに見られただけだ」
「富樫が道に飛び出すように仕向けたんでしょう」
「どうやって」
「心を奪って」
 侑李の言葉にアスが笑う。歪んだ悪い笑みが頬骨の下に影をつくる。
「そんなことが可能でしょうか。人の心を操って自殺に追いやるなんて」
「知らない。だけど貴方にならできたんじゃないかしら」
 アスを見つけた富樫は道路に飛び出した。行き交う車に目もくれず、ただアスだけを見て、傍に行きたい一心で国道を渡った。そして死んだ。富樫を突き動かした激情の正体がどんなものだったのか。今となっては知る術が無い。

「心を盗まれたことってある?」
「なぁにそれ」
「いや――」
 そう言って、富樫は恥ずかしそうに笑った。らしくない台詞に侑李は驚いた。富樫が死ぬ一ヶ月前の夜だ。

「二通目の遺言書は完成してなかった。署名も無ければ貴方の名前もなかったから、あれはただの紙切れ。だから捨てた。残念でしたね、計算違いだったでしょう」
「たしかに、少し悔しかったかな」
 睨む侑李を笑顔で見返し、
「だけどもう会社のことなんてどうだって良いんです」と、アス。
「ならどうして、現れたの」
 眉根を寄せた侑李が首を傾げる。
「僕の理解者に会いに来た」
「それ、本当に意味がわからない」
「愛する人の死を願ったなんて、思い出すだけで心が痛みません?」
「なんのこと」
「貴女、富樫さんが死ねばいいと思っていたでしょう」
 アスの言葉に驚き、口を開く。
「馬鹿なこと言わないでよ」
「自分から心が完全に離れてしまう前に富樫さんが死ねばいいと。そうすれば、富樫さんの心を永遠に自分のものにできるから」
「思ってない」
「おまけに金も手に入る」
 俯いて首を横にふる。
「富樫さんを殺したのは僕かもしれない。貴女はたしかに何もしていない。だけど心の中では富樫さんを殺していた」
「違う」
「守らなきゃいけない娘がいるから仕方ない――そう言い訳しながら富樫さんに遺書を書かせ、死んでくれと呪った。心の中は嘘と言い訳だらけで空っぽだ」
「違うっ」
「今は当たり障りのない男に乗り換えて、愛の無い生活の中で安定を得ようとしてる。それもやっぱり、か弱い娘のためですか?」
「違うっ!」
「本当は気づいてるんでしょ。貴女の娘はもう幼い少女じゃない。貴女が大切に想い、一番愛してるのは、」
「うるさいっ」 
 曖昧にしていたものに、言葉が形を与える。心の奥底に眠らせていた感情が鮮やかに立ち上がる。
「だからなにっ!? 思っただけで私に罪があるとでもっ!?」
 目の玉が溶けてしまいそうな程に熱かった。涙がこぼれ落ちないように必死だった。
「そんなこと言ってません」
「じゃあ、どうして私を責めるのよ」
「責めてない」
「嘘――」
 俯く。テーブルの上にぱたぱた、と水滴が落ちる。
「……心ほど不自由なものはありませんね。自分ではどうにもならないことが多すぎる」
 顔を上げると、アスはもう笑っていなかった。光を映す目がただ穏やかに侑李を見つめている。
「僕も同じです」
 その手が、着ている綿麻のシャツの襟元に伸び、上から一つずつボタンを外していく。素肌が現れる。胸元の形状の奇妙さに気づき、じっと見る。
 左胸があるはずの位置に、ぽっかりと開いた空洞。掌を広げたほどの大きさのその穴から、背中側のシャツの生地が見えた。
「貴女なら、この穴を埋めてくれるはず」
 アスの胸に空いた穴に吸い寄せられるように顔を近づけると、よく知る匂いがして身体から力が抜けた。肩が、抱き寄せられる。スプーンでくり抜いたようにまるく空いた穴の断面は黒く、光沢を帯びていた。生きた人間の身体ではないのかもしれない。
 アスに身体を預けながら、侑李は胸の穴をただじっと見つめていた。
 互いに、顔は見えない。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?