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小説・BL|ステップアップ・ダーリン

 1

 靴が好きで、小学校に上がる頃になると、いつも同級生の足元ばかり見ていた。大体みんな運動靴だったけど、不思議と、同じメーカーの同じデザインの靴を履いている子供は見かけなかった。この世界には人それぞれ、ぴったり似合う靴が用意されてるからだな、きっと。
 そんなことを考えていた俺はその時、九歳だった。気が変わりやすいから、好きな靴はスニーカー、長靴、サンダル……と、ころころ変わっていったけど、その夏にはバスケットシューズに夢中だった。アシックス、アディダス、アンダーアーマー。憧れはやっぱり、ナイキのエアジョーダン。あんなロケットみたいに格好良い靴を履けば、俺だってきっとプロの選手みたいに高く飛べるはずって、そう信じてた。
 だから小学三年生になってからミニバスチームに入ったんだけど、残念ながら運動音痴だった。ボウリングの玉をレーンに転がそうとして後ろに放り投げ、両親と姉ちゃんを唖然とさせたこともある。おまけに、チビだった。
 アキに会ったのは、その年の夏休みのことだ。
 パスの練習で、投げたボールが先輩の顔面に命中し、こっぴどく叱られたあげくチームメイト達からは「お前、バスケ向いてないよ」とこき下ろされ、すごく落ち込んでいた。おまけに家に帰ると、どこかに落としたのか鍵がなかった。
 両親は共働きで、高校生の姉ちゃんは友達と遊びに出かけて家には誰もいない。だから俺は、Tシャツにハーフパンツ姿でリュックを背負ったまま、玄関前の階段で膝を抱え、誰かが来るのをじっと待っていた。焚き火みたいに揺らぐオレンジの夕焼け空で、蒸した空気がじっとりと肌に纏わりついてたのを覚えてる。
 夕空がブルーに飲まれていくのを見ているうちに、心細くなって涙が溢れてきた。欠けた月が滲んで、空に溶けてた。涙で濡れた顔を隠すため、膝小僧におでこをくっつけ、ぐっと両脚を抱え身体をできるだけ小さくする。この世にたった一人で放り出された気がして、すごく寂しかった。
「困ってるの?」
 突然、頭上から降ってきた声に驚いて顔を上げると、ひび割れたアスファルトの歩道に二つの茶色い靴があった。使い込まれた深い飴色のレザーにベージュのソール、靴紐は黄色。真夏なのに、ごつごつとした古いブーツだった。
「……悲しいことでもあったのかな」
 見上げると、すぐ近くに綺麗な色の目があって驚いた。琥珀みたいに透き通った薄茶の瞳の上、すっと伸びた眉毛の間に少し皺が寄っていて、俺のことを心配してるのがわかった。
 くっきりとした二重の大きな目も、緩く開いた薄い唇も、少し耳にかかる柔らかそうな髪の毛も。その人の顔はすごく綺麗だった。うちの姉ちゃんが夢中になってるアイドルよりも綺麗で、俺が幼稚園の頃に憧れた変身ヒーローよりもカッコよく思えた。だから、
「テレビの人ですか?」
 と尋ねると、「え」と目を丸くする。琥珀色の瞳に吸い込まれそうだった。
「お兄さん、テレビに出てる人じゃないの?」
「いや、違うよ」頭を振って、優しく笑う。
「……君、家に入れないのかな。もしかして鍵なくしちゃった?」
「うん」
「お家の人は、もうすぐ帰ってくる?」
「わかんない」
「そっか」
 言いながら、左隣に同じように腰を下ろした。突然、お兄さんの身体が近くなって、びっくりして俯く。ピンと空を向いた、二つの飴色の爪先が目に入った。
「……カッコいい靴ですね」と褒めると、にっこり笑って「似合ってる?」
「似合ってない。だって、お兄さんには大きすぎるよ」
 その靴は、お兄さんの身体にはちょっとごつすぎるように思えた。サイズも大きくて、ブカブカだ。だから正直にそう伝えたんだけど、怒らせたかもと心配になり、ちらりと顔を覗く。少し意外そうに開かれた目はすぐに細まり、弓形の唇から、はははと笑い声が上がった。
「そうだよね、お兄さんも似合わないなって思う」、楽しそうに笑う。
「なら、どうして履いてるの?」
「……この靴はね、僕の大好きな人が履いてた靴だったんだ。だからこの靴を履いてれば、いつかその人みたいになれるんじゃないかなって。そう思ってるんだけど――」
 手を伸ばし、トゥの部分を人差し指で優しく撫でる。
 俺はお兄さんの言う「大好きな人」がどんな人か気になったけど、指先が寂しそうに動いていて、聞くことができなかった。
「なれるの?」
「え?」
「お兄さん、その靴の人みたいになれるの?」尋ねると「どうかなぁ」、首を傾げる。
「だけどこの靴を見てると、そうなりたいって思った自分を思い出すから。似合わなくても履き続けることに意味があるのかもしれないね。……なんて、ちょっと難しい話だったかな」
 俺は頭を振った。するとお兄さんは、またにっこり笑って「うん」と頷く。
「僕は、平明 暁(ひらあき あきら)っていうんだ」
「あきあき」
「そう、変な名前だろ」
 さっきよりも大きく、頭を振る。
「君の名前は?」
 スニーカーの踵の部分に黒いサインペンで大きく書いた「湊 水基」という不格好な文字を指差し、「みなと みずき」と答える。
「……へぇ、面白いね。どっちも水に纏わる漢字だ」
 首を傾げて見せると、お兄さんは踵の「湊(みなと)」の文字を指差し、
「湊には、水が集まるっていう意味がある」
 今度は「水基(みずき)」を指差し、
「こっちは水が出る基(もと)。湧き水が出る水飲み場の意味もあるんだよ」
 自分の名前を、そんな風に解説されたのは初めてのことだった。
「僕の名前もね、苗字の平明(ひらあき)と名前の暁(あきら)に、どっちも夜明けって意味があるんだ。だから一緒だね。君は水・水、僕は夜明け・夜明け」
 綺麗な顔をくしゃっと歪めて笑いながら、そんなことを言う。「一緒だね」の言葉が何よりも嬉しくて、俺は初めてお兄さんに笑顔を見せた。
「あきあきお兄さん! お兄さんのこと、アキって呼んでもいい?」
「もちろん」
 これが、アキと出会った日のこと。
 アキはその後、街灯がつく頃になってようやく帰ってきた姉ちゃんが姿を見せるまで、俺の傍にいて、いろんな話をしてくれた。
 俺より十一歳も年上だってこと。飴色のブーツのこと。建築士になるために東京の大学で勉強してるってこと。夏休みの間だけ札幌の実家に帰ってきてるってこと。満員電車が苦手で一時間もかけて自転車で学校に通ってるってこと。東京にはゴキブリという恐ろしい虫がいること。好きなお菓子はチョコレートとドーナツだってこと。
 夏の間中、アキとはたくさん遊んだけど、アキが東京に帰ってしまうと、頭の悪い俺はいつの間にかアキのことを忘れてしまった。
 だけど心の奥底、見えない場所ではずっと覚えていたんだと思う。赤い翼の名を持つブーツと、夜明けのアキのことを。
 
  2

「レッドウィングだ」
「は?」
「レッドウィングのアイリッシュ・セッターだよ。津久井(つくい)のやつ、似合わない靴履くんじゃねぇっつの」
 帰宅部仲間の友永 遥輝(ともなが はるき)と校門を出てから振り返り、津久井の足にある薄い飴色のブーツを顎で指す。黒のジャージを上下に着込んだ津久井の両足で、たちの悪い合成写真みたいに違和感しかないブーツが悲鳴を上げてるみたいだった。
「あぁ、あのごっつい靴ね。てかツク先、体育教師のくせに、なんでブーツなんか履いてんだ」
「日村ちゃんの前でカッコつけたいんだろ」
「逆にカッコ悪くね?」という友永、まったくもって同感である。
 津久井はこの春、三年生に進級した俺と友永の担任で、生活指導の担当教員でもある。生徒の間での呼び名はツク先(つくせん)。三十路も半ばを過ぎた独身男のくせに、我が校のアイドル「保険医の日村ちゃん」こと日村琴音(ひむら ことね)に鼻の下を伸ばしているのは、学校中の生徒が知るところだ。
「そいや水基、今日、ツク先に呼び出されてたな。まだ進路希望調査、出してないのかよ」
「出した」
「じゃあ、どうして呼び出された」
「白紙で出したから」
 俺の言葉に、友永は呆れたように「マジかよ」と声を上げ、丸い眼鏡の真ん中を人差し指で押し上げた。
「俺達もう高三だぞ? 来年には卒業なんだから進路ぐらいちゃっちゃと決めろよ。私立大だったら水基でも入れるとこあるだろ」
 と、自分は早々に看護専門学校への進学を決めた友永は言う。
「……友永は、なんで看護師なんかになりたいんだよ。男のくせに」
「男とか女とか関係ないよ。看護師、いいじゃん。食いっぱぐれなさそうだし。お前は将来やりたい仕事ないの?」
 友永の言葉にうんざりして、俺は口を噤んだ。
 父ちゃんも母ちゃんも姉ちゃんも、ツク先も、友永まで。みんなが俺に「何がしたいの?」と聞いてくる。聞かれたところで、俺には将来やりたいことなんてなかったから、答えようがない。これまでだって、ただなんとなく生きてきたし、この先だって、ただなんとなく生きていくんだろうと思ってる。ただ、そのことを皆から「駄目なやつだ」と責められてるみたいで気分が悪かった。
「将来なんて、適当に決めちゃえばいいんだよ」
 そう言ってバス停へ歩き出した友永の丸い後頭部を見下ろし、俺もゆっくりと歩き始める。
 どうせやりたいことも見つからないんだから、友永の言う通り「入れそうな私立大を受験しておけば良い」と言われればその通りなんだけど、誰かの言うことにただ従うのは嫌だった。だから進路希望は、まだ白紙のままだ。
 今度の夏に、十八歳になる。
 世に言う青春時代真っ只中というやつだけど、今のこの生活が青春なら、まるで凪みたいだなと思う。波風一つ立たず静まりきった海面は、ただ不安なほど広いばかりだ。

 橋の上のバス停で降車して、友永と別れた。家の近所を流れる小さな川に架かる橋だ。欄干の向こうには飛び越えられるほど幅の狭い小川が、遠くに見える雪の残る山から続いている。その山が、西日を受けて赤く染まっていた。まだ空は青かったけど、山を照らす夕陽がこの季節にしては珍しいくらいに赤い。いつもはそのまま車道沿いを進んで家に帰るんだけど、夕焼けの予感に無性に寄り道がしたくなって、川沿いの土手道へと曲がった。
 右手には、子供の頃によく遊んでいたすべり台のある公園、その向こうはずらっと戸建ての並ぶ住宅街だ。俺の家も、この地域にある。足下の雑草が茂る土手道には、ところどころ剥げた濃い茶のコルクマットが敷かれていて、道のずっと先に赤い稜線が見える。川を挟んで左手側には、背の高いマンションが建ち並んでいる。
 ついこの間、ようやく雪が溶けきったばかりの公園や川辺に、ライラックや藤の木が花をつけ、足元にはタンポポやシロツメクサ、他にも名前の知らない花々が競うように咲き乱れている。雪深い冬の間に全部死んだかと思った植物達が一気に芽吹き、咲き、伸びるこの季節、この街はすごく綺麗だ。なんてことを考えながら土手を歩いていると「あぁ、俺も季節の移ろいに思いを馳せるジジイになったのだな」と年寄り気分になった。実際のところは、まだ十七なんだけど。
 懐かしい公園を通り過ぎ、しばらく歩き続けていると、ふいに三角屋根が目に入った。
 その屋根は土手下の細い道と木々に囲まれた場所にあって、そこだけが周辺の家々から切り離されたみたいに、ひっそりとしている。赤茶色の屋根で、今どきの家には見ない暖房用の煙突もあった。
 見覚えがある、だけど思い出すことができない。
 土手を下りて早足で近づいていくと、頭の中でジグソーパズルがパチパチと音を立てながら組み上がるみたいな、奇妙な感覚があった。
 三角屋根の家は、レンガを模したブロック壁の、古びた洋風の一軒家だった。玄関前に誰かが立っているのが目に入り、歩みを緩める。石畳の隙間から雑草の生えた玄関アプローチを踏む二つの足、まるで特長のない黒いビジネスシューズがあった。グレーのスーツを着た若い男だ。
 家の前をゆっくり通り過ぎながら、後ろ姿を横目で見る。突然、頭部が動き、振り返った。俺はその顔に「あ」と小さな声を上げ足を止める。横顔に見入ったまま、両足がアスファルトに貼りついたみたいに動けなくなった。
「なにか用ですか」
 言いながら、身体ごとこちらを向いた顔。頭から爪先まで、俺を観察しながらゆっくり動いた琥珀色の瞳に、息を呑む。
 弓形に上がった薄い唇にも、耳にかかる柔らかそうな髪にも覚えがあった。ただその目は、記憶の底にあるそれと比べると暗く沈んでいて、唇だけが試すみたいに俺を笑っている。
「あ、あ、あ、」とは、続々と蘇ってきた記憶の奔流に、頭の処理が追いつかない俺の奇声。
「あ?」とは、そんな俺を見て、不気味そうに顔を歪めたスーツ姿のお兄さん。
「あきあきお兄さん! あんた、アキだろっ!?」 
 目が、大きく開かれる。
「……え、知り合い?」
「俺だよ、湊 水基(みなと みずき)っ! 水・水っ」と自分を指さす。次にお兄さんを指さして「夜明け・夜明けっ」
 傍目から見れば完全な不審者であろう俺の顔を、アキ(と思われる男)はしばらくの間、じっと見つめていた。そして、
「水基――あの時の靴好きの子供?」、目を丸くする。
「やっぱりアキだっ!」
 阿呆みたいに嬉しくなった俺は、呆気にとられたように立ち尽くすアキに抱きついた。
 背中に手を回して腕に力を込める。ザラついた手触りのスーツ越し、あんなに大きく見えていたアキの身体が、今は俺より華奢なことに気づき、驚いた。顔を埋めた首筋からは、甘い匂いがする。それがアキから香ったんじゃなく、玄関横で薄紫の花をつけたライラックのものだと気づくまで、しばらく時間がかかった。
 なぜか心臓の音が耳につきはじめた。身体が硬直して指ひとつ動かせなかった。
「……苦しいんだけど」
 耳元で聞こえた小さな声に驚き離れると、鼻先にアキの綺麗な顔が現れた。目線が同じ高さにあって、また驚く。身長は、ほとんど同じくらいだった。まだ少し、俺の方が小さかったけど。
 琥珀の瞳が逃げるように下を向いたのを見て、大きく一歩、後ろに下がった。「ごめん、突然」と謝ると、「いや」と視線を外したまま小さな声が返る。
「……ずいぶん大きくなったんだな。あんなに小さかったのに」
 アキが、ぽつりと呟いた。
「高校に入ってから、急に背が伸びたから」
「何年ぶりだろう」
「あの時は九歳だったから八年ぶり、かな」
「八年か。歳とるわけだ」、片頬を上げて笑う。
 あの頃と比べると、アキは頬の肉が削げ少し痩せた。けど相変わらず人目を引く整った容姿で、今はスーツを着ているせいか大人びて見える。まぁ実際に大人なんだけど。ただ、「こんなに冷めた目つきをした人だったろうか」と不思議だった。なんというか、昔のアキと比べると、醸し出すオーラがめちゃくちゃ暗い。
「アキはまだ東京に?」
「……いや」、とだけ短く返答があり、それ以上会話が続かなかった。
「もういいかな」
「え」
「忙しいんだ、もう行くよ」
 鋭い目線を送ってきたアキに、おずおずと頷く。
「さよなら」
 くるりと背を向け、家の中に消えた。

 アキがさっさと行ってしまったせいで、再会の喜びが、宙ぶらりんになってしまった。
 昨夜はベッドの上で何度もごろごろ転がりながら「連絡先、交換しておけばよかった」と後悔した。そんなわけで今日も、友永と橋の上で別れてから再び、三角屋根の家を目指している。
 もう一度会える保証なんてなかったわけなんだけど、ラッキーなことに、玄関の前にまたアキの姿があった。今度はジーンズに黒のロンTとラフな格好だった。
「アキ」
 呼ぶと、こちらを見て驚いたように目を開く。アキの前には、ダンボール箱が二つ縦に積まれていた。
「なにしてるの?」
「君こそ、なにしてるんだ」
「アキに会いに来た」
「……ふぅん」
 つまらなそうな返事があり、少々ショックだった。八年前はあんなに仲が良かった……はずなんだけど、なんだかアキとの歯車が噛み合わない。
「その荷物、どうしたの」
「駅に迎えが来るから、持って行かなきゃいけないんだけど。思いの外、重くて」
「俺が持っていく」
 一緒にいる理由が欲しくて、とっさに口にしてしまった。
 そんな俺を訝しげな顔で見たアキが「いいよ、重いから。ここまで来てもらう」と言い、ジーンズのポケットに手を伸ばす。
「駅まで十分くらいだよ。平気、俺が全部持っていく。一緒に歩いて行こう」
 身を屈め、ダンボールに手を伸ばす。二つ重なったうちの下の箱の底に指を入れ、持ち上げる――が、
「……ぐっ」
 思わず、うめき声が漏れた。お、重い……。
「だから言ったろ、重いって」
「へ、平気。俺……若いから」
 言いながらぐっと力を込めて持ち上げる。予想外の重さが腰に来て、苦悶の表情を浮かべながら、中身は本だろうか、などと考える。
「い、行こう。こっちが、駅への近道」
「知ってる」
 そうりゃそうだ、ここはアキの実家だ。
 さっさと歩き出したアキをよろよろ追いかけながら、駅への道を進む。ずいぶんと距離が開いてからアキは振り返り、呆れ顔で俺を見た。き、聞こえる……アキの(だから車呼ぶって言ったのに)という心の声が。
 今は手ぶらのアキが横いて、俺の歩調に合わせゆっくりと歩いている。そんな俺達を、通りすがりの母子やおじさんが不思議そうに見ていた。
「ア、アキはいつ、こっちに戻ってきたの」
「先週」
「あの家に、住んでるの?」
「いや、街中に部屋を借りてる。あそこには荷物を取りに来ただけ」
 ということは、非常に稀なタイミングでアキと会えたわけだ、二度も。
「……この辺り、久しぶりに歩いたな。新しく建った家も増えたけど、あまり印象が変わらない」
 建ち並ぶ家々や、元々はスーパーが入っていて今はフィットネスクラブになっている建物を見ながら、アキが呟いた。
「アキも、昔と変わらないね」
「……嘘つくなよ」
 嫌そうに顔が歪められた。たしかに、俺は今、嘘をついた。
「君こそ変わってない」
「そうかな」
「うん」
 八年前はあんなに簡単に打ち解けたのに、今はアキがものすごく遠くに感じられていた。まだ小学生の頃にぼんやり思い描いていた、東京で暮らす想像上のアキより、ずっと遠かった。まるで見えないバリアでも張っているみたいに近寄りがたいもんだから、俺はかなり戸惑っていた。
「重いだろ、一箱持つ」
 アキがダンボールに手を伸ばす。
「いいよ、俺が持つ」
「落とされると困るんだよ、大切なものが入ってるから」
 そう言われると、どうしようもない。仕方なく、アキに一箱持ってもらうことにした。
「……うわ、重っ」
 嫌そうに、小声で呟く。そのアキと横並びになり、半分になったダンボール箱を抱えなががら、俺はなんともいたたまれない気持ちで歩き続けた。
 ようやく駅前のロータリーまでたどり着き、ダンボールを路面に置く。重い荷物を持ち続けたせいで、二人とも、額に汗が浮いていた。ぜぇぜぇと肩で息をつきながら、「……僕は君にお礼を言うべきなのかな」と、不機嫌そうなアキ。
「ごめん、余計なことして」と、しょんぼりな俺。
「僕はここで迎えを待つから、じゃあ」
 アキが俺を追い払うように、一方的に別れを告げた。連絡先を聞いておきたかったけど、そんなことを言い出せる雰囲気でもなく、黙り込む。
 決まりが悪くなり、地面に視線を彷徨わせる。すると――
「レッドウィングは?」
 俯いた先、アキの足元に飴色のアイリッシュセッターがないのに気づいた。履いているのは、クロックスの白いサンダルだ。
 ちなみにレッドウィングは、昔、アキが履いていたブーツのブランド名で、ブーツ自体の名前はアイリッシュセッター。奇しくも、ツク先が履いているのと同じ靴である。
「……捨てたよ」
「え」
「捨てた、もう必要ないから」
 冷たく言い放たれたアキの言葉に驚いて顔を上げる。人形みたいに固まった顔はぴくりとも動かず、何を考えているのか、俺にはまるで分からなかった。

 部活に打ち込むでも勉強に励むでもなく、ただ退屈な時間が流れていくばかりの我が高校生活にも楽しみはある。ハム・ロールだ。
 ハム・ロールは昼時になると購買の店先に並ぶ、掌にすっぽり収まるほど小ぶりなパンで、円い。三センチ程の厚さに切られたフランスパンの真ん中に切れ込みがあり、レタスとマヨネーズ、ハムが挟まっている。ロールパンを使っているわけでもパンで具材を巻いている訳でもないのに、なぜか名前がハム・ロール。値段は百十円。その地味な調理パンは意外にも生徒達に大人気で、昼休みの中頃には売り切れることも多い。弁当派の俺が友永のすすめで初めてハム・ロールを購入したのは一年生の終わり頃だ。
 初ハム・ロールは、ぼそぼそしたパンとぐちゅぐちゅに潰れたレタスの舌触りが悪かった。だから「なんでこれが人気なんだ?」と首を傾げるばかりだったが、一週間後には不思議ともう一度食べたくなった。そうして何度か買っているうちに、「パサついたパンに萎びたレタス、もたついたマヨとしょっぱいばかりで風味のないハム。咀嚼を繰り返すうち渾然一体となるその味は、ファストフードを超えるジャンキーさがあり、かつ優しい。とにかく最高」と虜になった。今では食べ損なうとイライラと禁断症状が出るほどで、おやつ代わりに毎日買っている。
 友永と購買のある一階を目指して階段を下りている。早く買わないと売り切れるから、いつもは足早に駆け下りていくのだが、今日は違う。ハム・ロールとは別のことで頭がいっぱいなせいだ。
「あんなに変わるもんかな」
 呟くと、横並びで階段を下りていた友永が俺を見上げた。
「そんなに変わった? 俺にはよくわかんなかったけど」、きょとんとした顔で友永が言う。
「全然違う。あんなに優しかったのに」
「あぁ。そういや、ちょっとパンチが効いてる風になったかも」
「パンチっていうか、冷たくなった」
「前から冷えてただろ」
「そんなことないって、昔はもっと柔らかい感じで」――どうだったかな、と思い返し、そこで言葉を切った。俺は、アキのことを考えていた。
「……お前、よっぽど好きなんだな」
 ふふっと笑みを浮かべて口にした友永の言葉に、どきっとする。
「す、好きって、な、なにを」、どもった。
「ハム・ロール」
「は?」
「だから、リニューアルしたハム・ロールの話だろ?」
 言われて俺は、一ヶ月程前から「さらに! おいしくなりました☆」という赤文字がプリントされるようになったハム・ロールのパッケージを思い出す。
「……もしかして、別の話してた?」
「いや、違くない。ハム・ロールの話」
 慌てて首を横に振ってから縦に振り直し、さらに階段を下りていく。
 途中、二階と一階をつなぐ踊り場のすみに女子の二人組が立っていた。すれ違いざまに、くすくすと忍び笑いを漏らす声が聞こえる。
「見てツク先。また日村ちゃんにちょっかい出してるぅ」
 女子達が指さす先、一階の廊下でジャージ姿のツク先が白衣の日村ちゃんにだらしない笑みを向けていた。日村ちゃんを見下ろし頬を赤らめ、照れ臭そうに鼻の下をこすっている。そのツク先の頭上に「でれでれ」という描き文字が見え始め、俺は思わず顔を顰めた。おっさん教師のくせに、十近く年下相手に何やってんだ。すぐ傍でもう一人の女子も「日村ちゃんがツク先なんか相手するわけないのに。だっさぁ」と笑う。
「あーあ、ツク先、懲りないねぇ。身の程を知れっつの」
 隣にいた友永も、ため息まじりに苦笑いを浮かべた。そんな中、俺は一人笑うことができず、ただ眉間の皺を深めるばかりだった。

 アキと再会してからというもの、食べてる間も授業中も眠っている時でさえ、アキのことを考え続けていた。というのも、驚愕の事実に思い当たってしまったせいだ。
 ここで話は少し逸れるが、俺が初めて恋心を自覚したのは小学五年の頃だ。相手は教育実習に来た女子大生で、クラスの副担任だった。ショートカットでジーンズの似合う、色の薄い瞳が綺麗な人だった。その人がはじめて教室に入って来た瞬間から俺はのぼせ上がり、授業中、ぼーっと見惚れていた。
 そんな彼女はいつしか教育実習を終え去って行き、次に俺の胸を騒がせたのは、なんと友永の従姉妹(いとこ)だ。中学三年の冬のことだ。「家の事情でしばらくウチに泊まってる」と友永から紹介された従姉妹は、スラリと背が高く細身の美女で、広角のきゅっと上がった薄い唇が可愛いかった。こちらも女子大生だ。友永と受験勉強しに来たはずが、彼女を見た瞬間からまたしても上の空、シャーペンと間違えストローでノートを擦り続け「お前、なにしに来たんだよ」と友永からツッコミが入ったほどだ。ちなみに、友永と従姉妹は全く顔が似てなかった。この点は不幸(?)中の幸い。
 実はこの従姉妹とは、友永と内緒で一度デートしたことがある。高校一年の冬、友永家で再び顔を会わせた時に、こっそり「今度、二人で遊びに行こうよ」と誘われた。
 緊張とときめきで胸を膨らませ臨んだ動物園デートは、今ひとつだった。彼女の前で上手く話すことができず、ゾウ舎のベンチに座り、ゾウが食べ、水浴びする姿をぼんやり眺めているうちに五時間が過ぎていた。ゾウは可愛かった。連絡先を交換せぬまま別れ、彼女とはそれきり。デートとも言い難い、苦い思い出だけが残った。
 ここで重要なのは、俺が割と惚れっぽいという点でも、いざとなると口下手になるという点でもない。好きになった二人が、アキによく似ていたという点だ。二人には、淡い色の瞳が目立つ涼しげな顔立ちや、立ってるだけで絵になるしなやかな佇まいなど、アキを思い出させる共通点が多々あった。おまけに彼女達より、再会したアキの方が断然、綺麗だった。
 という事実に気づいたのが、先週アキと会った日のこと。もしかすると俺は、幼き日に見たアキの幻影を彼女達に重ねていたんだろうか。――どうして?
 大きな「?」が、頭の中をぐるぐると回っている。ベッドに潜り込み部屋の明かりを消してから、もう三時間以上経った。昇り始めた太陽の光が薄緑のカーテン越しに滲み始めている。
 答えはすでに出ているような気もするけど、それを認めると何かがガラリと変わってしまいそうで、怖い。だから布団の中に頭を突っ込み、俺は夜明けから逃げた。

 革靴、ピンヒール、スニーカー、意外性のビーチサンダル、まさかのスリッパ。
 いろんな靴が行き交うコンコースを抜け、駅に直結した商業ビルの四階を目指す。人口約二百万人の政令指定都市に住みながら、はしっこの方に家があるせいで、たまに街中に出て来ると人の多さに驚く。おまけに寝不足で、天井の低い駅の構内でノイズ化した人声に、目眩がしそうだった。
 土曜日の夕方、珍しく一人で出歩いている。「映画に付き合え」と友永に連れられて、ミニシアターで白黒の古いSF映画を観た後だ。映画は尖った内容で俺にはさっぱりだったが、友永は「スクリーンで観れてよかった」と感動に打ち震えていた。その後「ギターの弦、買いに行くけどお前も来る?」と誘われたが、断って別れた。友永はあぁ見えて、多趣味だ。
 そろそろ帰ろうかと思ったけど、まだ家に帰るには早い気がして、靴屋に寄っていくことにした。エスカレーターで四階に上がると、左手側にすぐ靴屋がある。店舗には扉がなく、通路から続く壁と床が白く光っていた。客は若い男女のカップルばかりで、俺みたいな貧相な高校生が一人で入るのは気が引けたが、この店にはたしかレッドウィングの取り扱いがあったように記憶していて、店員の目につかないよう、するりと店に入る。
 中央の目立つ棚に、VANSやニューバランス、コンバースのスニーカーが並んでいる。もうブーツは置いてないかな、と一番奥の壁に目をやる。
 すると、そこに驚くべきものを発見し、俺は思わず二度見――いや、三度見した。
 スタイリッシュな店内で浮きまくっている、鼠色の背中である。それは、周りの客達より頭一つ分身長の高い大男で、業務用冷蔵庫に無理やりジャージを着せたような後ろ姿だった。おまけに足元には、やっぱりレッドウィング。ちぐはぐな風体に、客も店員もチラチラと盗み見ている。あれは――
「げっ、ツク先」
 しまった、声が出た。
 慌ててくるりと振り返り逃げようとする俺に「おぉ、湊っ!」とでかい声が追ってくる。周りにいた客と店員の視線が、ツク先から俺、俺からツク先へと移動する。
「こんな場所で会うとは奇遇だなぁ。湊も買い物か」
「馬鹿、こっち来んな」と心の中で悪態つきつつ、さらに逃げる俺に、ツク先の気配が猛スピードで追って来た。首元にがしっと太い腕が絡まる。中年男の体温に、思わず顔が歪む。耳元では「がはは」と暑苦しい笑い声、地獄である。
 そんな俺達の姿に周りの客や店員は「なんだ、戯れてるだけか」と視線を戻した。……嫌だ、仲間だなんて思われたくない。
「ツク先こそ、なにやってんだよ」
 言いながら腕をすり抜け距離を取る。太い眉が「おや」と少しだけ上がった後、青い髭の残る四角い顎を擦りながら「ツク先じゃない、津久井先生と呼べっ」と言い、またガハハと笑う。顔も、格好も、言動も、ツク先はとにかく全てが暑苦しい。
「またレッドウィングでも買いに来たのかよ」
「おぉ。若いのに、こんな古い靴のことよく知ってるな」ニッと笑い、鼠色の裾から覗くブーツを自慢げに指差す。
「そういえば湊は靴に詳しかったな。靴ってのは前に進むために履くもんだから、いいよなぁ。先生も大好きだ」
 またしてもガハハと笑い、馬鹿力で背中を叩く。
「……それ、変だから止めなよ。なんでジャージにブーツなんか履くんだよ」
「そうか?」、意外そうに目を丸くした。
「おまけにもう五月だよ。誰もブーツなんか履いてないって。格好つけて日村ちゃんに見せたいのかもしんないけど、逆にダサいから――」
 と、俺が日村ちゃんの名前を出した途端、「え、な、ひ!?」と謎の言葉を口にし頬を赤らめた。「え、な(ぜ)、(ひ)村先生を好いている事が、湊にバレているのだ?」という意味だろうか。謎は謎なりに、なんとなく伝わるものがある。
「ツク先さぁ、本当に日村ちゃんと付き合えると思ってんの? 日村ちゃんが相手するわけないって、みんな言ってるよ」
「み、みんなとはっ!?」
「生徒一同」
 がっくりと肩を落として「みんな、知っているのか」と項垂れる。あんなに堂々と鼻の下を伸ばしているくせに、本人は気づかれてないと思っていたようだ。
「そもそも、日村ちゃんってフリーなの? 絶対彼氏いるだろ」
「……いないと言っていた」
「え、意外。まぁだからって、日村ちゃんがツク先なんか相手にすると思う? だいたい何歳差?」
「は、八歳差」
「無理でしょ」
 俺の詰問に、太い眉毛をいつもとは反対方向に歪め、背中もどんどん丸まっていく。が、突然頭を振ったかと思うと、ふんと鼻息を吐いて胸を張り、
「いや、しかしな湊。人生、何事も挑戦だ。勝てる見込みがないからって、試合放棄するわけにはいかんだろっ」と、暑苦しさ再び。
「なら、さっさと告白すりゃいいじゃん」
 言うと、またしても眉毛が弱々しくハの字型になり、
「それは、ちょっと」
「どして」
「……拒絶されたら、怖いから」
 洒落た靴屋で白いライトを浴びながら、大男は悲しく呟いた。教え子相手になに情けないこと言ってんだ、と呆れもしたが、今の俺には、ツク先の気持ちが痛い程わかるから、やっぱり笑うことができない。
「ねぇ、あの人達なにやってんのかな」
「痴話喧嘩だったりして」
 くすくすと忍び笑いが漏れ聞こえてきた。見ると周りの客の視線が俺達を囲んでいる。ぎょっとしてツク先の顔を確認すると、いい大人が今にも泣き出しそうである。まずい。仲間どころか、ただならぬ間柄とでも思われているのか。
「じゃあ頑張れよ、ツク先。俺、用事あるから、さよなら」、早口で告げてから背を向け歩き出すと、
「待ってくれ湊っ、相談にのってくれよぉっ」、脱兎の勢いで追いかけてくる。冗談じゃない、誰が中年教師の恋愛相談なんて受けるか。
 駆け足で店を飛び出すが、ツク先も後から追ってきて「湊ぉ、話を聞いてくれぇっ」
 驚いて立ち止まる人々の間を駆け抜け、下りのエスカレーターを目指す。すると、視線の先に見覚えのある人影があり、またまたぎょっとして足を止める。急ブレーキをかけた俺の背中に、どんっ、とツク先の巨体がぶつかる。痛いっつの。
「どうした、急に」
「しっ」
 人指し指を口にあて、エスカレーターのすぐ横に置かれているタッチパネル式の大きなモニタの背後に回り込む。しゃがんで、ガラス越しに下りのエスカレーターを見る。音もなく流れていくその横顔は――
「アキ?」
 アキだった。
 今日はスーツでもジーンズでもなく、Vネックの白のサマーニットに黒の綿パンとカジュアルな装いだ。靴はここからだと……くそっ、よく見えない。いや、今はそんなことどうでもいい。
「知り合いか?」
 尋ねられたが、アキとの今の関係をどう言えば良いのかわからない。とりあえず「友達」と答える。
「すごいイケメンだな。おぉ連れもイケメンだ、イケメンコンビ」
 すぐ後ろにしゃがみ込んだツク先が、イケメンイケメンとうるさい。
 そう、アキの隣には、もう一人男がいた。おまけにその男、なんだかアキと距離が近い。白シャツにネクタイをぶら下げ、笑みをこぼしながらアキの肩に手を――とそこで、二人の姿がエスカレーターに運ばれ、消えた。
 立ち上がり、後を追うため下りの乗り口に急ぐ。「どこ行くんだ」とツク先がまた後ろから追ってきた。……あぁもう、邪魔くさいっ!
「ツク先、見ろっ! あんなところに萌袖ニットのあざと可愛いい日村ちゃんがいるっ!」
 叫び、びしっと後方を指差すと「どこだっ!?」
 振り返ったツク先が、あたりをキョロキョロと見回す。俺はその隙にツク先を撒いて、三階へ続くエスカレーターに飛び乗った。

 アキと謎の男の後方、六メートルばかりの距離で探偵ごっこを続けている。二人は靴屋のあった駅ビルを後にし、コンコースを抜け、駅前の広間に出た。街は夜に向かう真っ最中で、ネオンやビルの明かりが、ぽつりぽつりと灯り始めていた。
 早足で歩くアキの後ろを、謎の男がついていく。そのさらに後ろから俺が行く。そう小さくもないアキより背の高い長身の男で、年齢はアキより少し上に見えた。きっちりとセットされた短い黒髪にネクタイ姿は、仕事中のサラリーマンに見える。その男が、さっきからニヤけ顔でアキの肩や腰に触れたりするもんだから、「触るな、セクハラ野郎っ!」と俺はイライラしていた。出会い頭に抱きついた自分のことは、棚に上げておく。
 信号待ちで止まったアキの左手首を、ついに男が掴んだ。見上げる顔が不機嫌そうに歪み、その手を払いのけようとするが、男はそれでも手を離さない。だから――
「アキっ!」
 しまった、またしても声が出た。
 振り返った男が俺を見る。ジロジロと遠慮ない視線に少し怯むが、向けられた目をじっと見返し、大股開きで近づく。
「あ」
 俺に気づいて驚いたアキが、ちょっと手を上げて挨拶を返してくれた。あぁ良かった覚えててくれた、と束の間、ホッとする。
「誰、知り合い?」
「……あんたこそ誰だよ」
 男は少し目を開いてから、すぐに何かを察したようで、ニヤリと笑った。
「暁(あきら)のパートナー」
 言いながら、アキの両肩に手を置き微笑む。その言葉に、俺のみならず近くで信号待ちしていた人間が、揃って二人の顔を見た。
 ……パートナーってどういう意味だ。まさか恋人とか、そういう意味?
 謎の男の言葉に、まんまと狼狽える。
「菅沼(すがぬま)さん、子供相手に思わせぶりなことを言うのは止めてください」
 アキが、菅沼と呼んだそいつを軽く睨む。
「嘘は言ってないだろ」
「それは――」
 信号が青に変わった。
 アキが「じゃあ」と再び手で小さく挨拶し、歩き出す。俺を見下ろす菅沼も「じゃあな、少年」と言い残し後に続く。
 一人、歩道に残された。
 横断歩道を歩く二人の背中はあっという間に遠くなり、今はもう対岸近くだ。
 このまま、アキと別れてしまっても良いんだろうか。立ち止まり、考える。
 あの男、まさかアキの恋人? 男同士なのに付き合ってる? 今度はいつ会える?
 未整理の感情と「だけど」という躊躇いが、一瞬のうちに何度も頭の中で繰り返された。
 歩行者用の青信号が、慌ただしく点滅し始める。赤になれば、もう向こう岸には渡れない。俺を置き去りに二人がどんどん遠くなる中、項垂れると、履き古した靴が目に入った。米国最古のランニング専門ブランド・サッカニーのスニーカーだ。
 前に進むため、走るために生まれた相棒が、俺の両足でじっと待っている。
 
  3

「ふぅん……少年は、暁の昔の友達だったのか」
「少年じゃありません。名前、教えましたよね」
「湊少年」
「だから少年じゃないですって。もう、十七」
「まだ十七」
「菅沼さんと違って、若いんです」
「暁は年上好きだぞ」
「えっ!?」
 言葉を失った俺を見ながら、菅沼がニヤニヤと意地の悪い顔で笑う。
「適当なことを吹き込まないでください」
 席を外していたアキが戻り、菅沼の隣に腰を下ろした。不機嫌そうな顔で、まだ二ヤついている菅沼を睨む。
「適当じゃない。本当のことだろ」
「……いつの話をしてるんだか」
 今度は呆れ顔に変わり、テーブルに置かれたワイングラスを引き寄せた。グラスを満たす薄いレモン色の液体が揺れる。白ワインだ。菅沼の前にはビールが置かれていて、さっきからぐいぐいと煽っている。ちなみに俺の手元にあるのはコーラだ。
「注文した? 夕飯まだだろ」
「スパゲッティ、頼んだ」
「俺もつまみと一緒にパスタ注文しといた。暁、シェアしよう」
 アキがちらと菅沼の顔を見てから、黙ったまま頷いた。
 ここは街中にあるイタリア料理の店だ。店の名前は「Ristorante GUIDO(リストランテ グイド)」、コルク製のコースターに書いてある。どっしりとした濃茶の古い建具が目立つアンティーク調の店内は、お洒落だ。外食と言えばチェーンのハンバーガーや牛丼ばかりの高校生には、少々落ち着かない雰囲気だった。
 古い民家を改造した一軒家レストランで、カウンター席のほか四人がけのテーブルが八台置あり、席はすべて埋まっている。男女のカップルや女性客の中、男三人の俺達は目立ってる気がした。
「赤信号渡って追いかけて来た時には驚いた。めちゃくちゃクラクション鳴らされてたな。暁に用事があったんだろ、何の用だ? 湊少年(・・・)」
 この菅沼という男、会った直後からいやに挑発的で腹が立つ。あまりにも腹が立ったものだから、温和な俺もさすがに口を尖らせ「……あんたに用はないんだけど」と呟いた。菅沼は皮肉っぽい笑みを消さず、思わせぶりにアキの顔を見る。
「突然ついてきて、ごめん」
「いいんだ、どうせこの人と二人きりだったから。ゲストは大歓迎」
「どうせって言われちゃった」と菅沼は肩をすくめる。
 二人を追って横断歩道を渡った後、「相談したいことがある」と俺は言い訳した。本当は「相談したいこと」なんてなかったけど、あのまま別れると、もう二度とアキに会えないような気がして、それが嫌だった。俺の子供じみた嘘をアキは見抜いていたに違いない。だけど「じゃあ、一緒に食事でも」と、このレストランに連れてきてくれた。
「家には連絡したの?」
「まだ。でも平気」
「平気じゃないだろ、未成年のくせに。もうすぐ七時か……仕方ない、僕からお母さんに話すよ。昔、家の電話番号を教えてもらったな。まだあの番号が使えるなら――」
「アキ」
「ん」と、ズボンのポケットからスマホを取り出すのを中断し、琥珀色の瞳がこちらを向く。
「俺、もう九歳じゃないよ。そのくらい自分でできる」
「…………そうだったね」
 気まずそうに目を伏せたアキの横で、菅沼はちょっと意外そうな顔をした。
「新鮮だ、こんなに優しい暁は初めて見た」
「からかうのはよしてください」
「俺にも、もう少し優しくしてくれよ」
「どうして貴方にそんなことしなきゃいけないんですか」
「ご褒美」
「なんの――」
 ごほん、とわざとらしい俺の咳払いに、今にもアキの手を握らんばかりだった菅沼の動きが止まった。
「菅沼さんはアキの仕事仲間なんですか」
「そうだよ」頷くアキ、同時に「違う」と頭を振る菅沼。
「違わないでしょ」
「ただの仕事仲間じゃない」
「……そういう言い方はやめてください」
 再び、視線を絡ませる二人――に、いい加減、腹が立ってきた。俺は二人の世界に割り込んできた邪魔者なのか? と、イライラが募る。
「前に暁がいた会社で一緒に働いてたんだ。東京の会社」
「今度、こっちで新しく仕事を始めようと思って。手伝いを頼んでる」
「公私ともに、面倒見てる」
「公私ってなんですか。私(し)は余計です」
「嘘つき」と笑う菅沼を、アキがまた睨みつける。
 ますますむかっ腹が立ってきた。
 カラカラに乾いた喉を潤すため、手元のコーラをぐいと煽り一気に半分ほど飲む。
「なんだこれ、変な味」
 妙な臭いがする、クラフトコーラというやつだろうか。それとも苛立ちのせいで、味覚までおかしくなっているのか。
 顔に火照りを感じ(いかん、冷静にならねば)ともう一口。今度は頭まで熱が昇り、水分を得た舌が滑らかに動き始めた。
「二人は、ずいぶん仲良しなんですね」
「そうだよ、羨ましいか少年」
「別に仲良くない」
「菅沼さんはアキのこと、よく知ってるみたいだ」
「よーく知ってる」
「そんなことない、ただの他人」
「他人なんて、いくらなんでも冷たすぎるだろ」
「じゃあ、ただの仕事仲間」
「……付き合ってるんですか?」
 という俺の質問に、二人の動きがぴたりと止まった。
「違う」
「そうだよ」
 今度は逆の言葉が二人の口から出た。
「付き合ってませんよっ」
 明らかな動揺を見せるアキに「付き合ってないの?」と微笑む菅沼。そして俺は――
「……デキてんだろ」と怒りの形相。
「「は?」」
 声を揃えた二人が、ぽかんと口を開く。
 頭に血の上った俺は、すぅっと腹に息を吸い込み、
「さっきから思わせぶりなことばっか言って……俺が子供(ガキ)だからわかんないとでも思った? あんたら、要するに付き合ってもいないくせに、ヤってるってことだろっ!」
 大声で、一気に捲し立てた。
 店が静かになった。
 客の視線が俺達のテーブルに集中する。アキと菅沼は目を白黒させている。
「俺にだってそんくらいわかる。ガキだと思って馬鹿にすんなっ」
 ごくっ、とまたコーラを呷ると、グラスが空になった。
「しょ、少年……いきなりどうしたんだ。目が据わってるぞ」
「君、少し落ち着いて――」
「大人ってさぁ。好きでもない相手とそんな簡単にヤッちゃうもんなの?」
「「え」」
「俺、まだガキだから良くわかんない。大人ってみんなそんな感じ? 俺もそのうち、そうなるの?」
 アキの表情が曇った。
「……ひっく」
 おや、しゃっくりが出てきた。けどさっきより気分がずっと良い。
 アキはなぜか、少し悲しそうな顔をしていた。だけど緩んだ唇は可愛くて昔のアキみたいだ。菅沼や他の客や店員も、店にいる大人達はみんな俺を見ている。呆気にとられた間抜け顔がずらり。
「だいたい、アキもさ――ひっく」
 逆上せた頭がぼうっとして、思考にモヤがかかる。しゃっくりは止まらない。
「東京で何があったかしんないけど、なんでそんなに変わっちゃったの? なんでレッドウィング捨てたの?」
 アキの顔がぐしゃっと歪んだ。まるで泣き出す前みたいだ。ごめん、悲しませようと思ったわけじゃないんだけど――
「俺、アキに会えて嬉しくて」
 また一つ、しゃっくりが出て、ひっく。
「また会いたいって、ずっと考えてた。でもアキは嫌だった? 俺はただの邪魔者?」
 今度は連続でしゃっくりが二つ、ひっくひっく。
「それでも俺、どうしても――」
 あれ?
 目の前のアキがぐるぐると回り始めた。
 顔が右から左へ、ぐるぐるぐるぐるぐーるぐる。まるでメリーゴーラウンドに乗ってるみたい。乗ってるのは俺かな、それともアキかな。
「おい、これコーラじゃなくてコークハイだ。アルコールの匂いがする」
「えぇっ!?」
 回る、回る、ぐるぐると。
 ねぇ楽しい? アキが楽しいなら俺も嬉しいよ。
「配膳ミスか。誰か、水を――」
「水基、大丈夫かっ!?」
 あ。水基って呼んでくれた。
「水基、水基っ」
 俺を呼ぶ声がどんどん遠ざかっていき、視界には潤んだ琥珀の瞳がいっぱいに広がった。
 アキ、どうしたの。
 そんな悲しそうな顔しないで。
 お願いだから、笑っていてよ。

 *

 頭痛い、水飲みたい。
 布団柔らかい、いい匂い。
 いま何時だ、今日何曜日だっけ。
 やばい寝過ごしたかも、学校間に合う?

 目を開ける。
 視線を天井から壁に動かすと、山型に照らす間接照明の明かりが見えた。いつもは目の前にあるはずの壁が遠くにあって、見覚えのない明り取り窓まである。俺の部屋じゃない。焦って上半身を起こすと、揺れた頭が痛んだ。ずきずきする。
 ゆっくり周りを見回すと、天井のダウンライトが二つだけ光る、薄暗い部屋だった。真ん中に置かれたセミダブルのベッドに俺がいる。他にはサイドテーブルが置かれているくらいで余計な物が見当たらないから「ホテルかな」と思う。だとすると、どうしてホテルにいるんだろう、さっぱり思い出せない。
「……気持ち悪くない?」
 突然、声がした。ベッドのすぐ横、床の上で動く影があり、ぎょっとして目を凝らす。
「水、持ってくるよ」
 むっくりと起き上がったのは、アキだった。床にマットレスが敷いてあり、そこで横になっていたようだ。
「え、なんでいるの」
「ここ、僕のうち」
 目を擦りながら小さく欠伸をする。
「店でコークハイ一気飲みして、そのまま寝ちゃたんだよ。覚えてない? ホールの人がコーラと間違えたんだって。しばらく酔いが覚めそうになかったんで、僕の家に連れてきた」
 たしかに、そんな事があったようなないような。ぼんやりと記憶を辿ると、ひどく曖昧だけど、なにかまずい事を口にしたような気もする。
 ひやっとした感覚が腹の内から湧いてきて「俺、なんか変なこと言った!?」、慌てて尋ねる。
「いや」
 アキは少し寂しそうに目を伏せ「悪かったね、本当に」と、なぜか謝った。

 驚いたことに、アキの部屋は街中のタワーマンションにあった。市内でも一・二を争う高さの地上四十階建て高層マンションで、部屋は二十五階にある。広いリビングの他にはさっき俺の寝ていたベッドルームがある単身者向け1LDK、らしい。それでも俺の部屋が五つ程すっぽり収まりそうなくらい、広々としている。
「アキって、金持ちなの?」
 壁一面がガラス貼りになった大きな窓から、ベランダ越しに広がる夜景を眺めつつ尋ねる。周辺のビルより高い位置にあるその部屋からは、街の中心部までの景色がよく見渡せた。
「金持ちじゃないよ、持ち家じゃないし。知り合いから格安で借りてるんだ。本当は高い場所って苦手だから、嫌なんだけど」
 振り返ると、部屋の隅にどんと設置されたアイランドキッチンに向かい、手を動かしている。料理をつくっているらしい。店にいた時と同じサマーニットの上から黒いエプロンをつけ、顔は真剣そのものだ。「手伝おうか」と尋ねても「大丈夫、休んでて」と言う。仕方なく、キッチンに横付けされたテーブル席に座り、料理するアキを眺めることにした。
 陰になって手元までは見えなかったが、たまに「うわっ」だの「あつっ」だのと小さな悲鳴が聞こえてくるので、少し不安になった。けど、どんな料理が出てくるのかと楽しみで、俺はワクワクしながらアキの奮闘っぷりを見守った。
 やがて疲労困憊といった表情で目の前に置かれた皿には、無数の竹串が乗っていた。ところどころが黒く焼け焦げている。焦げた竹串がばらりと何十本も乗る白い皿だ。
 なんだろう、これ。
 難解なタイプのアート作品だろうか。
 と、アキの顔を窺い見る。向かいの席に座ったアキは、自分の目の前にも、同じ竹串の乗った皿を置いた。
「店で食べ損なったろ。お腹が減ってるんじゃないかと思って。よかったら食べて」
「……これは、なに?」
「ナポリタン」
 驚き、再び皿に目をやる。
 言われてみれば、よく焼けた――というか焦げた麺のような気がしなくもない。にしては麺の形状が直線的すぎやしないだろうか。まさか茹でずにそのまま焼いたんだろうか。食べられるのか、これは。
「いただきます」
「……いただき、ます」
 正直、アルコールの名残で胃の調子が悪かった。今これを口にすると吐いてしまうかもしれない。だけど、アキが俺のために一生懸命つくってくれたナポリタン(?)に手を付けないわけにはいかない。覚悟を決め、ナポリタン(?)と向き合う。
 黒焦げの麺は硬くて巻き取ることができないから、仕方なく、三本の麺をフォークの腹にそっと乗せる。バランスを取りながら口元まで持ち上げる。強い酸味が鼻についた。ケチャップ……にしては匂いがキツすぎる、まるで醸造酢の匂いだ。もしかすると、アキの知るナポリタンと俺の知るナポリタンは別物なのかもしれない。東京では、これがナポリタンのスタンダードなのか?
 ごくり、とつばを飲み込む。意を決して口を開く。が、およそ食べ物とは思えぬそれを身体が拒む。
 う、動いてくれ。俺の右手っ――
「だめ、食べるな、ひどいっ」
 手で口元を隠し、眉間に深い皺をつくったアキの額に、冷や汗が浮いていた。先に食べたようだ。恐る恐る「不味い?」と尋ねると、苦り切った顔で二度頷いてからボリボリと音を立てて咀嚼し、苦しそうに飲み込んだ。
「レシピ通りにつくったはずなのに、どうしてこんな……」嘆いた後、大きな溜息をつきながら俺の皿に手を伸ばす。
「一人暮らしが長いくせに、料理はいつまでも苦手で。悪い、代わりになにか買ってくる」
 しょんぼり顔で皿を片付け始める。
 特製ナポリタンをゴミ箱に放り込み、エプロンを外したアキの顔はひどく落ち込んでいた。
 あまりに痛々しく見てられないほどだったので「待って、俺がつくるよ」と、言ってみる。
「料理、できるの?」
「あんまり凝ったのはできないけど、簡単なやつなら」
「いいよ、無理するな。下のコンビニで買ってくるから――」
「平気。俺、けっこう料理得意なんだ。アキに美味いの食べさせてあげるから、待ってて」
 目を丸くしたアキの顔が、俺を見ていた。
 アキの家の冷蔵庫は大きい割に、食べ物がほとんど入ってなかった。辛うじて使えそうなのはパストラミビーフとオリーブの塩漬けくらい。酒のつまみだろうか。そいつらをキッチンボードで適当に切ってオリーブオイルで炒め、「こんなのもあるけど」とアキが棚から出したホールトマトと一緒に煮込む。塩胡椒で味を整えて、茹でたパスタと合わせて出来上がり。
 料理してる間中、後ろに立っていたアキが「すごい」「どこで習ったの」なんて感想を漏らすもんだから、俺はすっかり得意になった。肝心の味についても口にした途端「美味しい……天才?」なんて真顔で褒められ、俺の鼻はますます高くなるばかりだった。我は家の両親は共働きな上に母ちゃんは料理下手、姉ちゃんもズボラなせいで、俺が料理当番をすることが多い。そんな家庭環境を嘆いていた時期もあったけど、今は感謝だ。

「君のお母さん、変わってなかったな。絶対に怒られると思って冷や冷やしながら電話したのに、笑ってたよ。バカ息子がご迷惑かけてすみません、だって」
「うちの母ちゃん、放任主義だから」
 息子が出先で倒れたという報せを受けたのに、電話の向こうで「あはは」と笑う母ちゃんの姿が容易に想像できる。放任主義を超え、もはや放置主義と呼ぶ方が相応しい。
「僕のことも覚えててくれたみたいで、吃驚してた。懐かしいな……昔、君の家にもよく遊びに行った。なんだか不思議な味のケーキを出してくれたのを覚えてる」
「あれ、手作りのバナナケーキ。不味かったろ? 隠し味にほうじ茶入れてるんだって。母ちゃん、菓子はあれしか作れないから、俺が誰か連れてく度に絶対あれ出すんだ」
「いや、美味しかったよ」、くすりと笑う。そのアキの髪が風で柔らかに揺れた。
 ベランダで、二人並んで夜景を眺めている。俺が外に出てみたいと言うと、高い場所が苦手なアキも渋々ついてきてくれた。二十五階のベランダは、手摺りがガラスになっていて足下に広がる夜の街がよく見える。最初は怖がっていたアキも、少しずつ夜景を覗き込むようになった。
「……俺はアキの家が懐かしいな、三角屋根のあの家。面白いものがいっぱいあったよね。葉っぱの生えた植木とか、ごつくて格好良い椅子とか」
 アキが、少し嬉しそうに笑う。
「観葉植物は母の趣味で、椅子は父の手づくり。あの家も、大工だった父が建てたものなんだ」
「え、すごい」
 九歳の夏休み、毎日のように通った赤屋根の家を思い出す。家にはアキと、アキによく似た優しいお母さんがいて、俺をもてなしてくれた。テレビや洗濯機といった普通の家電もあったけど、昔風のテーブルや足踏みのミシンとか、本でしか見たことのない古い家財道具がたくさんあって驚いた。そこにだけゆっくりとした時間が流れているような、不思議な家だったのを覚えている。俺はアキと遊ぶのが好きだったけど、あの家のことも大好きだった。
「本当は、僕も父を継いで大工になりたかったんだけどね。学生時代にバイトでやってみたら、体力がないからお前には無理だって言われて諦めた。だから仕方なく、建築士になったんだよ」
「建築士って、仕方なしでなれるもんなの」
「まぁ、頑張ったから」
 アキが学生時代に一級建築士の試験に合格した、という話は昔、母ちゃんから聞いていた。
「あの家、今は誰が住んでるの?」
「ずっと母が独りで住んでたけど、去年、死んで。相続はしたけど、僕はこっちに住んでるから今は空き家」
 アキのお父さんは、アキがまだ子供だった頃に事故で亡くなったと聞いた。アキには兄弟もいないから、お母さんまで亡くしたアキが今どんな気持ちだろうと考えると、少し胸が痛んだ。
「アキが住めばいいのに。大事なお父さんの家なんだから、もったいないよ」
「………」
 アキは答えず、黙ったまま夜景に視線を戻す。
「見て、まだ働いてる人がいる」、オフィスビルを指差す。フロアの一部に明かりがついていて、中に人がいる気配があった。
「本当だ、日曜の夜なのに。社会人って大変なんだね。就職するのが嫌になる」
 小さく笑い声が上がった後、「進路はもう決まってるの?」と聞かれ、ぎくりとする。
「……まだ考えてるとこ」
「やりたいことが見つからない、か」
 ずばりと言い当てられ、頷くことさえできなかった。ガキ臭い俺の中身を見透かされたようで、すごく恥ずかしかった。
「まぁ、焦ることないんじゃないかな。そう言われたところで、どうしたって焦っちゃうだろうけど」
 てっきり「もっと頑張れ」と尻を叩かれるものと思っていたので、そんな風に言われて驚き、「本当に?」と尋ねる。 
「だって人生を懸けてやりたいことなんて、そうそう見つかるもんじゃないよ」
「でもアキは見つけたんだろ、建築士になる夢」
「それだって、まだ本当にやりたかった事なのかどうか、わからない」
「え、どうして」
「仕事となると、楽しいことばかりじゃないから」
 夜の街に目を向けたまま、アキが話を続ける。
「前に働いてた職場のボスなんか、四十歳を過ぎてから料理にハマって。転職したいってボヤいてたよ」
「料理? 建築士なのに?」
「そう、変な人だろ」
 その変なボスのことでも思い出したのか。アキの口元に、ふっと笑みが浮かんで、すぐに消えた。
「進むべき道を間違えた、シェフになるべきだった――なんて言い出して困ったよ。ずいぶんと有名な建築士なのにね。おまけに、君より料理は下手くそだった」
 まだ夜景を眺めながら静かに笑うアキの目は、札幌の街を超え、ずっと遠くを見ているようだった。俺もその方向に目を向けてみたが、街の向こうには、ただ暗い山の稜線が横たわるばかりだ。
「……東京にいた頃も帰ってきてからも、こんな風にゆっくり夜景を眺めたことなかったな」
 アキが、ポツリと呟く。
「もったいないね、こんなに良い景色なのに」
「言われてみると確かにそうかもね。今までは怖いとしか思えなかった」
「そんなに高いところが苦手なの?」
「それもあるけど、あの明かりの下に一つ一つ、必死に働いてる人がいるんだなって考えると怖くて」
「変なの、こんなに綺麗なのに」と、俺は笑い声を上げる。
「……そんな風に思える君と一緒だから、僕にも綺麗に見えるのかな」
 独り言のように呟く横顔を見ながら、俺は思う。
 アキが好きだ。
  
  4

 平明 暁(ひらあき あきら)◆東泉大学大学院建築学専攻修士。同校卒業後「梶清竹建築設計事務所」に所属。梶 清竹に師事し「桜丘ムジカホール」等、担当作多数。

 と、いうのが、ネットで調べるとすぐに出てきたアキのプロフィールだ。梶 清竹(かじ きよたけ)というと、ろくにニュースを見ない俺でも名前を聞いたことのある有名な建築士だ。昨夜ちょうど、東京のどこだかの再開発で、梶 清竹が東京にある駅舎のデザインを手掛けた……というのをTVでやっていた。チャンネルを変えようとする姉ちゃんを「ちょい待って」と制止し、その番組を観た。
 新進気鋭の若手建築家、と紹介された梶は、役者みたいな男前でびっくりした。隣でテレビを見ていた母ちゃんと姉ちゃんが声を揃えて「あらイケメン」と感想を漏らす。建築の仕事に就くにはビジュアル審査でもあるんだろうか、と俺はアキと菅沼の姿を思い出した。
 その梶が手がけたという駅はいま、絶賛建築中で画面には完成予想図というのが映し出された。真新しく近代的な建物の外側に古い木材の柱がどんと立った、風変わりなデザインだった。背後には大きな公園があるのだが、その柱のおかげでぱっと見、駅舎が森の中に佇んでいるようにも見える。なかなか綺麗な建物だ。
 梶は銀縁の眼鏡をかけていて、落ち着いた話しぶりが知的な印象だった。これがアキの言っていた「料理下手な元ボス」か、と不思議な気持ちで画面を見つめた。
 アキが東京でどんな生活を送ってきたのかが気になって、検索するとすぐに出てきたのが梶のWebサイトだ。その後、SNSでも名前を探してみようか、とも思った。けど、さすがにそれはストーカーじみてて気持ち悪い、と止めておいた。それに、まかり間違ってアキ本人のアカウントが出てきて「知らん高校生に抱きつかれた、きもい」だの「ガキを介抱中、早く帰れ」だのといった呟きを見つけたりしたら、たぶん俺は死ぬ。
 ベッドに仰向けになり、天井を見ながら大きな溜息をつく。
「……なぁ、もしもだぞ。もし好きになった相手が男だったら、お前どうする?」
 白いカーテン越し、見えない友永を相手に、抑え切れない感情の一部が口からこぼれ出た。ところが、いつまで待っても返事がない。
 まさかドン引きされたのだろうか。ベッドから身を乗り出し、恐る恐るカーテンをめくる。するとそこに友永の姿はなく、代わりに鼠色のデカい背中があった。こそ泥みたいに身体を小さくし、ドアからこっそり出ていこうとしている。ツク先だ。
「はぁっ!? なんでツク先がここにいんだよっ!? 友永はぁっ!?」
 俺の大声にツク先が振り返り、気まずそうに「さ、さぁな。先生が来た時にはもういなかったぞ」
 ここは保健室だ。体育の授業中、ぼんやり考え事をしていた俺は顔面でバスケットボールを受け、鼻血を吹いた。保険委員の友永と一緒に保健室にやって来て日村ちゃんの手当をうけた後「しばらく休んでなさいね」と言われ、ベッドで横になっていた。日村ちゃんは途中、部屋から出ていったので、すっかり友永だけがそこにいると思い込んでいた。
 血の気が引く、まずい事になった。
 俺の親友への決死の告白を、まさかこの担任は耳にしたのか――
「い、いやまぁ。青春に悩みはつきものだよな。は、ははは」とぎこちなく笑うツク先。俺は恥ずかしいやら腹立たしいやらで、
「こんなとこでっ、なにしてんだよっ!」
 もう一度叫んだ。
「湊の様子を見に来た。怪我は大丈夫だったか?」
 そう心配されると怒るわけにもいかず、ぐっと怒りを飲み込み、ひとまず頷いておく。
「……しかし、そうかぁ。湊の恋の相手は男性かぁ」
「な(に言ってやがる)、う(るせっつの)、どっ(か行け)!!」
 俺の言葉にならない叫びをツク先は無視し「そうかそうか」としたり顔で頷く。恥ずかしさで汗が吹き出てきた。耳まで熱くて顔はたぶん真っ赤だ。なにか言おうとしても言葉が出てこず、口をぱくぱくさせたまま、振り上げた拳を握りしめ、俺は固まった。
「そらぁ大変だよな。だけど先生だって似たようなもんだぞ。なにせ相手は、あの日村先生だからな」
 ツク先の言葉に、思わず「へ?」と声が出る。
「先生も湊と同じだってこと。無理めな恋に苦しんでる」
 ツク先がいつものように眉を上げ、にっと笑う。「お互い、頑張ろうなぁっ」デカい声で言い放った後、俺の肩をぽんと叩いた。
 なんだか毒気が抜かれた気がした。
 ベッドの端に座り直し「……うん」と答えてツク先の顔を見る。相変わらず暑苦しい笑顔だったけど、俺は少し泣きそうになった。
「これが彼の写真か? ちょっと見せてみろ」
 突然、ツク先がベッドに放ってあった俺のスマホを掴み上げた。
「やめろ、見るなっ!!」
「まぁいいじゃないか……おぉ、あの時のイケメンっ! 平明、変わった苗字だなぁ」
 梶のサイトに掲載されていたプロフィール写真を見ながら声を上げる。ちょっとは見直してやったのに、やっぱりツク先はデリカシーがなさすぎる。
「返せっ」
 ツク先の手からスマホを取り返した。ところが今度は「どれ、もう少し調べるか」と、ジャージのポケットから自分のスマホを出す。
「ほぅ、湊の想い人は有名人か。SNSにもたくさん情報があるぞ」
「馬鹿、検索すんなっ!」
 SNSでは絶対探さない、と誓ったばかりなのに。このアホ教師はどうしてこうもずかずかと俺の決意を踏み越えていくんだっ!? と怒り心頭。スマホを取り上げようと手を伸ばすが素早く躱され、
「ふむ、建築家……あ、すごい。梶 清竹の弟子だ。ん、これはファンの書き込み? ――あ」
 突然、声色が変わった。
 眉根を寄せ珍しく深刻な表情で画面に見入っている。居ても立っても居られず「見せろっ」とツク先のスマホに手を伸ばす。
「ダメだ、あっ」
 デカい身体を肩で押し、スマホを奪い取る。するとそこには――
『梶事務所の平明暁は、所長の梶とデキてる』
『淫乱ビッチ、平明暁くん。枕営業で仕事とってる』
 という書き込みがあった。
 スワイプしていくと、同じような趣旨の投稿が、いくつも見られた。複数のアカウントから書き込まれているようだ。
「……酷い中傷だな。おそらく梶 清竹のファンのやっかみだろ。気にするな」
 ツク先の暗い呟き。
 さらにスワイプすると、
『またヤッてる笑 梶清竹✕平秋暁、激写』
 という書き込みに、ホテルの前で寄り添う二つの人影を写した荒い画像が出てきた。よく見るとそれは、確かにアキと梶のようにも見えた。

 その週の土曜日、またアキの家に行った。玄関口で挨拶だけして帰ろうと思っていたけど「お茶、出すから休んでいきなよ」と招かれ、部屋に上がった。
 母ちゃんが「お世話になったんだから、ちゃんとお詫びしてきなさい」と言うので、手土産を持って改めて先日のお礼をしに来た次第である。なのにその手土産のクッキーを俺がぽりぽり食べてるんだから、意味が分からないな、と思う。
 クッキーと一緒にカフェオレを出してくれたアキは、「札幌はやっぱり住みやすくていい」とか「街でものすごく変な靴を見た」なんて、珍しく楽しそうに話してくれた。久しぶりの明るいアキだった。けど正直、どんな内容だったかよく覚えていないし、クッキーも味がしなかった。
「……アキ」
「ん?」
 帰り際、玄関に続く廊下で呼び止める。振り返ったアキが不思議そうに見て「忘れ物でもしたかな」と笑う。
「アキのこと、ネットで見た」
 笑顔が、一瞬で石でも飲み込んだような複雑な表情に変わった。眉間に皺が寄り、唇が結ばれる。
「あれ、嘘だよね」
 聞いちゃいけないことのような気がしたけど、堪え性のない俺はどうしても聞かずにはいられなかった。
「……あれって?」
「梶 清竹とのこと。酷いこと書かれてた」
「……」
 返事はなく、ただ視線が床に落ちる。
「ああいうの削除してもらえるから、通報した方がいいよ。少し調べてみたんだ。嫌がらせを受けてるって運営に報告すれば、書き込みを消してもらえるって――」
「君には関係ないことだ」
 遮るように返ってきた声が冷たい。アキは顔を伏せたままで、どんな表情をしているのかがわからない。俺は狼狽えた。
「俺は嫌だよ、あんな風にアキが悪く書かれてるの見たくない」
「君には関係ない。もう見るな」
 顔が上がる。琥珀の目は揺れ、怒ってるようにも悲しんでいるようにも見えた。
「関係なくないよ、アキのことだ」
「そうだ、僕のことだ。だから君がどうこう言う問題じゃない」
 崖の下に突き落とされた気がした。再会した時みたいに冷たい目で見られて、ひどく悲しかった。
 溜息と一緒に「もう帰りなさい」と言われ、どうして良いのかわからない。
「アキのことが好きなんだ」
 繋ぎ止めるため口から出たのは、自分でも驚くほど意外な言葉だった。
「……」
 なのにアキは硬い表情で、黙り込んだままだ。
「だから嫌なんだよ、あんな嘘見たくない」
 ふっと小さく息を吐き出し、アキが再び俯く。額に手を当て、顔を隠して考え込む。
「友達としてのアドバイスのつもりかな。ありがたいけど、そういうのは――」
「そうじゃなくて、本気で好きなんだっ!」
「……」
 告白なんかじゃない。こんなのまるで子供の我が儘だ。それがわかっているのに、他に言うべき言葉を見つけられなかった。
 激しく動揺し、ただじっとアキの顔を窺う。額に添えられていた右手が移動し口元が隠れる。床に落ちたままの視線は動かず、時間だけが静かに流れる。
「――嘘じゃない」
「え」
「あの書き込み、嘘じゃない。全部本当のこと」
 言ってる意味が理解できなかった。
「梶先生と寝た」
 寝た、とは。
 それが単に添い寝したとかそういう意味でないことくらい、俺にもわかる。わかるのだが――
「……無理やりされたってこと?」
「違う」
 はっきりと言い切り、顔を上げ、
「僕から誘った」
 アキが、また冷たい目で俺を見た。
「仕事が欲しかったんだ。仕事のために、梶 清竹と寝ていた」
 ガラガラと何かが崩れ落ちていく気がして、怖かった。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「アキがそんなことするわけないだろっ!?」
「したんだよ。僕はそういう人間だから」
「だって……アキは普通の大人とは違う」
「どう違うって言うんだ」
「それは……綺麗で、優しくて――」
 俺の呟きに、小さな笑みが返る。片頬を上げたすごく意地悪な笑いで、目は冷えたままだった。
 にじり寄ってきたアキが怖くて、思わず後ずさる。
「……ねぇ。君と再会した時、僕がなにを考えてたか教えてあげようか」
「え」
 さらに近づいてきた唇が、歪む。
「チョロそうな若い男がいるから、少し遊んでやろうって思ったんだ。退屈しのぎに」
 顔が眼前に迫る。
 身体が押し付けられ、背中に壁が当たった。重なった唇の感触に目を剥く。割って入ってきた舌が擽るように口内で蠢くと、アキの匂いがした。それはライラックなんかじゃなく、生きた人間の匂いだった。
 何度も唇を吸われるが、応え方も求め方も分からず、まるで受け止めきれない。息がつまり、目眩を覚える。
 足から力が抜けて、へたり込んでしまった。ずるずると壁を伝い、床に座り込む。膝を抱え、しばらくの間、肩で息をしていた。
「……ごめんね」
 聞こえた声に恐る恐る顔を上げると、唇を妖しく光らせたアキが俺を見下ろしている。
「子供(ガキ)は嫌いなんだ」
 降ってきたのは、氷みたいに冷たい言葉だった。
「もう来るな」
 
 エントランスから自動ドアを抜け外に出ると、まだ明るかったけど、どんよりとした曇り空だった。
「おや少年。暁、家にいたか? いい酒が手に入ったから一緒に飲もうと思ってアポなしで来たんだ。ほら見ろ、にごり酒のスパークリングだぞ。これは香りが良くてなぁ、暁も好きだから喜ぶぞ。まぁ少年にはまだ早いか、ははは。君も成人したら――」
 空気を読まず一方的に話しかけて来た菅沼が、ようやく俺を見て息を呑んだ。
「……ど、どうした少年。なぜ泣いてる」
 アキの部屋から出た途端、涙が溢れ出て止まらなかった。恥ずかしくて情けなかったけど、泣き止むことができない。こんな顔、菅沼になんか絶対に見られたくなかったけど、もうそんなことすら、どうでも良く思えた。着ていたボーダーシャツの裾で涙を拭い、鼻をすする。
「菅沼さん」
「お、おぉ」
「聞きたいことがある」

 菅沼はビールグラスを持ったまま、口もつけずに苦り切った表情を浮かべていた。
「梶先生とのことはなぁ……」
 菅沼とやって来たのは、先日、俺がひっくり返ったレストラン「GUIDO」だ。店に入るなり、髭面で熊みたいな店長とホール係の女の人がやって来て「本当にすみませんでしたっ」と頭を下げた。席につくと「今日は店の奢りだって」、菅沼がニヤリと笑った。
「どこまで聞いた」
「SNSに書かれてることは、全部本当だって」
 手元のグラスに視線を落とす。
 ちなみに今日はコーラはやめて烏龍茶を頼んだ。一瞬、ウーロンハイかもしれない、と怪しみ匂いを嗅いてみたが、さすがに普通の烏龍茶だった。本当なら、こんな時にこそ酒に酔ってみたいものだが。
「梶 清竹については知ってるか?」
「TVで見たことなら」
 菅沼はうんと頷いてから、ようやくグラスに口をつけビールを一口だけ飲んだ。
「暁は梶先生の事務所で建築士として働いてた。俺はゼネコン勤めだから、仕事を依頼する側としてよく事務所に出入りしてたんだよ。そこで暁と会った」
「今は札幌の会社に?」と、足元に光るフェラガモのビジネスシューズを見て尋ねる。
「そう、支店に転勤願いを出したんだ。暁を追いかけてきた」、大袈裟に肩をすくめて見せる。
「菅沼さんはゲイ?」
「そうだよ」
「アキとは恋人同士ですか」
「残念ながら、俺の片想い。その話は今はいい、聞きたいのは梶先生とのことだろ」
 菅沼とアキの関係についても気になったが、ひとまず頷いておく。
「暁が梶先生と付き合ってたのは本当だ。ただ、二人の関係がWebで中傷されてるみたいに、枕営業的なものだったかどうかは、正直わからん。でも俺の目には――」と言葉を切り、眉根を寄せる。
「なんすか」促すと、
「……ちゃんと好き合ってるように見えたよ、あの二人は」、苦々しく吐き出された菅沼の言葉に、俺の眉間にも皺が寄る。絶賛片想い中の相手の過去の恋愛話なんて、話すのも聞くのもしんどいばかりだ。
「まぁ、最後の方は酷いもんだったがな。どういう事情があったか詳しくは知らないが、暁はボロボロだった」
「なら、梶と別れたせいでアキは東京を離れたんですか」
「それだけとも言えない。俺も噂話でしか知らないんだが――」
「噂?」
「もう二年も前か……梶先生の事務所が建築コンペに参加したんだ。コンペってわかるか?」
「仕事とるための大会」
「まぁそんなとこ。大型コンペの場合は、事務所内でチームをつくって動くのが常なんだけど、暁はそのコンペチームからは外されていた。珍しくね」
 再び、ビールで口を湿らせる。
「なのにそのコンペに出されたデザインの中に、暁の作品を流用したものがあったそうなんだ。暁が商業ビル用に描いていたデザインを、少し形を変えてコンペ用に作り直してあった。それも暁じゃなく、梶先生の名前をつけてね」
 いまいち話がわからず「つまり、どういうこと?」と首を傾げる。
「盗用――暁のデザインを梶先生が盗んだってこと。あくまで噂話だけど」
 盗用、他人のアイディアや仕事を盗むこと。
 話としては分かるが、現役高校生の俺にはあまりに縁遠い世界で実感がわかない。
「つまり、アキは恋人だった梶に利用されたってこと?」
「そう」
「どうして」
「さぁ、そこまでは。ただその当時、梶先生はスランプで悩んでたらしい。大型のコンペに落ち続けた後だったからな」
「それで、アキのデザインを盗んで使ったコンペには勝ったの?」
「勝った。これ」
 と言って菅沼が指さした先、スマホの画面には、この間TVで見た駅舎の外観があった。写真の下には大きく「梶清竹の新境地。梶建築の新たな幕開け」というキャッチコピーが書かれていた。

 すっかり日が暮れてから、家に帰った。色々なことがありすぎて疲れた俺を見て、リビングで煎餅を齧っていた母ちゃんは「しばらく見ないうちに、やつれたわねぇ」と妙な顔して呟いた。話すのもダルかったので「もう寝る」とだけ伝えて二階の自室に上がる。
 電気をつけず、ベッドに倒れ込んだ。カーテンは開け放されていて、窓の外には少し欠けた月が見える。うつ伏せのまま、枕に顔を押し付けた。
 何も考えたくなかった。なのにいろんなことが頭の中に浮かんでは消え、いつまでも眠れそうにない。
 仕方なくスマホを手に取る。梶 清竹と入力し、検索する。
 年齢は四十三歳。うちの親とそんなに変わらないのにずっと若く見え、驚いた。画像検索すると、洒落たカフェで芸能人みたいに気取ったポーズをつけてる写真まである。インタビュー記事で、そこに書かれていた内容によると、建築物より梶自身のファンという女性も多いそうだ。
 突然、梶と一緒にアキが写っている写真が表示され、息が止まる。
 事務所でのツーショットだ。観葉植物がジャングルみたいに置かれたオフィスに、スーツ姿の梶とアキがいる。梶はうつむき資料に目を落とし、その横顔をアキが見上げて笑っていた。写真の下には「梶氏が期待を寄せる若手建築士・平明氏と」と書いてある。
 それは、俺の知らないアキの顔だった。
 さっきまで一緒にいたはずのアキが遥か遠くに感じられる。スマホの画面に手を伸ばし、人差し指で横顔に触れると、ふいにキスされたことを思い出し、心臓が叩かれたように、どんと鳴った。
 唇は冷たかった、けど押し入ってきた吐息と舌は熱かった。あの唇が、あの舌が――梶にも触れていたのかと考えると、たまらなかった。二人がどんなセックスをしていたのか、想像なんかしたくないのに妄想は止まらない。
 梶の手の中で上り詰めていく時、どんな喘ぎを漏らしたのか。琥珀の瞳はどう揺れたのか、その身体にどれほど痕跡が残されたのか。
 込み上げてくる熱を抑えられなかった。アキのことを思いながら自身を触り、すぐに果てた。
 嘘みたいな興奮が潮の引くように消えた後、やって来たのは「こんなことしちゃいけない」という自己嫌悪と「なにやってんだ」という情けなさだ。
 再びベッドの上に仰向けになり、天井を眺める。傾いた月は見えなくなり、部屋に差し込む月光だけが残っている。
 届かない、なにもかも遠すぎる。
 どんな良い靴を履いたって、アキにはきっと追いつけない。
  
  5

 梅雨がないと言われる北海道にも「蝦夷梅雨」と呼ばれる短い雨の季節がある。日村ちゃんの告別式が行われたのは、その蝦夷梅雨でぐずついた空が、今にも泣き出しそうな午後のことだった。
「……人って、突然死んじゃうんだなぁ」
 俺の隣で友永が呟いた。履き慣れない合皮の黒靴で玉砂利を踏みながら「びっくりだよな」と答える。ちなみに母ちゃんが昨日、慌てて買ってきてくれたこの靴は「Smart FIT」というよく分からないメーカーのものだ。
 式場は山のそばにある寺で、焼香待ちの生徒や弔問客の黒い列が本堂からはみ出て、表門の方までずらりと並んでいた。お坊さんの読経を遠くに聞きながら、友永と俺も列に並びゆっくり進んでいく。足元で、エゾシロチョウの死骸を運ぶ黒蟻が目に入った。
 まだ二十代で持病もなかった日村ちゃんは、突然、心臓を止めて死んでしまった。心臓突然死というやつで原因ははっきりしていない。朝、同居のお母さんが起こしに行くと、すでに息を引き取っていたという。
 昨日、朝礼の時間に、日村ちゃんの死は校内放送で伝えられた。学校で人気の保険医の死に、クラスメイト達はざわめき、中にはショックで泣き出す女子や男子もいた。俺は唖然として、黒板の前に立つツク先に目をやった。その日、黒いジャージ姿だったツク先は、唇を真一文字に結び、ただじっと生徒たちの様子を見守っていた。
 今もツク先は、列から少し離れた場所に立ち、遅れてやって来た生徒を案内したり、泣きじゃくる生徒を励ましている。喪服姿だ。
 前を横切る時に目が合い、「湊、平気か?」と声をかけられた。黙って頷くと「そうか」と言って少し笑う。俺はてっきりツク先が泣いてるとばかり思っていたので、しっかり教師しているその姿が、なんだか不思議だった。

 日村ちゃんの告別式から一ヵ月が経ち、まだ休みには早いけどもう夏の入り口だ。空はすかっと空色で、街路樹もうちの庭の雑草も、葉を茂らせ生き生きと空に向かって伸びている。
 一方の俺はと言えば、あの日以来、うじうじと考え込んだままアキに連絡すらできずにいた。季節はどんどん巡り、今週末には十八歳の誕生日を迎える。なのに立ち止まったままだ。まるで日村ちゃんと同じように。
「さすがにそろそろ決めないと不味いぞ」
 とは、放課後の教室で俺と向き合ったツク先である。電気を消した室内は薄暗く、他に人はいない。ここよりずっと明るい校庭から、練習中の野球部の声が聞こえてくる。
「進路、どうするつもりだ」
 くたびれた白いTシャツに褪せた青色のジャージ姿のツク先が、机に置かれた白紙の進路希望調査表をボールペンの尻でこつこつと叩いた。「やっぱ決めなきゃダメ?」と尋ねると、椅子の背もたれに腕を乗せたまま、鼻からふぅっと息を吐く。
「……なぁ湊。あのイケメン建築士とは、どうなった」
 突然、何を言い出したのかと吃驚して顔を上げる。ニヤついてるかと思ったツク先の顔は、意外にも真剣そのものだった。
「いや、別になにも。っていうか連絡もとってないし」
「そうか」
 言いながら身を屈め、足元に置いてあった紙袋を持ち上げた。進路希望調査表の上に、でんと置く。
「え、なにこれ」
 通学カバンほどの大きさの茶色いクラフト紙袋だった。開け口の部分がセロテープで止められていて、中身は見えない。
「開けてみろ」
 促され、テーブを引きちぎり封を開ける。入っていたのは飴色のブーツ、レッドウィングのアイリッシュセッターだった。
「ツク先のブーツじゃん」
「誕生日が近いんだろ、プレゼントだ。靴好きの湊にやる」
 担任からのサプライズ・プレゼントに、胸の内から湧き上がってきたのは喜びと感動――ではない。
「えーっ、いらねぇよ、ツク先のお下がりなんて!」
 レッドウィングには申し訳ないが、中年男、ましてやツク先の汗の染み込んだブーツなんて、履く気にも飾っておく気にもなれない。
「ちゃんと中敷きは変えてきた」
 ツク先ががさごそと紙袋からレッドウィングを取り出し、裸のまま進路希望調査表の上に、どんと置いた。
「調査票、汚れるよ」
「いいんだ、こんなものは他にもたくさんある」
 腕を組んだツク先は、なぜか誇らしげだ。
「それより見ろ、良いブーツだろ。俺はもう履かないから、湊に貰ってほしい」
 と、言われても。
 レッドウィングのアイリッシュセッターは買えば五万円ほど、中古でも状態が良いものはそこそこ値の張る高級品だ。高校生の小遣いじゃなかなか買えないから本来なら喉から手が出るほど欲しい。しかし教師が一生徒にわざわざ誕生日プレゼントなんて贈るものだろうか。おまけにお下がりの靴なんて。不気味に思えたので顔を歪めて「やっぱいらない」と断るが、ツク先は「そう言うな」と笑う。
「覚えてるか? この間、靴っていうのは前に進むためのものだって話したろ」
 そんなこと言ってたかな……と考えながら、渋々レッドウィングを手に取る。裏返してソールを確認すると、そこまですり減っておらず、状態は悪くない。
「先生は前に進みそこねたからな。湊には、ちゃんと進んでほしいんだ」
 ツク先の言葉にはっとして、顔を上げる。
「……あの日から先生は後悔してばかりだ。派手に振られたって良かったのに、どうして気持ちを伝えておかなかったんだろうってな」
 ハの字の眉の下、細められた目が優しいような、悲しいような。
 見ているうちに、俺の方が泣きそうになった。
「失敗することより、やらなかったことへの後悔の方がずっと大きいぞ。教師なんて仕事して、偉そうな顔して生徒には色々と教えてきたが、今になってそんなことがようやくわかった。だから湊も、先生みたいに怖がってちゃダメだ。その靴を履いて、先に進め」

 明日を誕生日に控えた土曜日。
 友永が奢ってくれるというので、近所の古臭い中華屋で俺は担々麺を頼んだ。友永は餃子と唐揚げの定食を頼み、二人で料理を待っていると「プレゼント」と言って友永がスマホに音声データを送ってきた。
「今?」
「今」
 仕方なく、イヤホンをつけてデータを再生する。すると、ジャカジャカとうるさいアコースティック・ギターの和音に続き、友永のダミ声が聴こえてきた。思わず顔が歪む。

 ――ハロー、マイフレンド。調子はどうだい。お前のスニーカーは今日も真っ白かい? 俺の心は雨色さ。

 8ビートに合わせ珍妙な歌詞が次々と繰り出される。正直、悪い意味で鳥肌ものだったが、俺は曲が終わるまでじっと聴き入るふりを続けた。ちなみに音声データのファイル名は「俺とお前とスニーカー」、曲名らしい。
「……良かったよ」
「だろ! 今回のは過去一の出来だ!」
 丸眼鏡の向こうに、満面の笑みが浮かぶ。
 友永がこうして俺の誕生日にオリジナルソングを贈ってくるようになってから、五年が経つ。最初はギターの音すら上手く鳴らなかったのに、今ではなんとなく音楽になっているんだから、素直に「すごいな」と感心している。ただ、そのセンスについては古臭いというか鼻につくというか、どうにも受け入れられなかった。こればっかりは個人の好みなので、致し方ない。
「……なぁ友永」
「どした、他の曲も聴きたい?」
「いや、それはいい」慌てて、首を横に振る。
「そうじゃなくて……お前、好きな人っている?」
「ほ」
 口をほの字に開けたまま、友永の顔が固まる。しばらくして「……いる、かなぁ」とちょっと言いにくそうに呟いた。
 長い付き合いの俺達だけど、これまで恋愛話をしたことがなかった。だから友永に好きな相手がいると知り、少し驚いた。
「どんな人?」
「内緒。でも鈍いやつ」
「可愛い?」
「どうかなぁ、可愛いところもあると思うけど」、首を傾ける。
「そういう水基の相手こそどんなだよ。話振ってきたくらいだから、いるんだろ」
「年上」
「何歳差?」
「十一歳」
「……へぇ」
 こちらを見る顔が、どうしてか切なげに見える。もしかすると友永の相手も年上なのかもしれない。
「やっぱ無理かな」
「なんでそう思う?」
「だって十一も年上で、おまけに相手は社会人だぞ。俺が十八になったところで向こうは二十九、俺が二十になっても向こうは三十一だ。この差って、永遠に埋まらない」
「まぁな。じゃあ諦めるか」
 聞かれて、俺は黙り込む。
 やっぱり、このまま何もせずに諦めた方が良いんだろうか。どうせ叶わない恋なら、黙っていたままの方が傷は浅くてすむ。ただ時間に任せて、そのうちに記憶が薄れていくのを待てばいいだけだ。けど――
「この間、ツク先に言われたんだよ。後悔しないようにしろよって」
「あぁ」
 友永が頷く。
 しばらく二人で黙り込んでいると、店員が担々麺と定食を運んできた。「いただきます」と、手を合わせてから食い始める。
「……俺は、水基のことが好きだよ」
 唐揚げを頬張りながら友永が言った。すすっていた麺が口から戻りそうになり、慌てて水を飲み込む。
「なんだよ、突然」
「だから、水基はもっと自分に自信持てってこと。なんせこの俺が長い間、友達でいてやってるんだから」
「ずいぶん偉そうな友達だ」
 唐揚げで頬を膨らませたまま、にやと笑う。
「お前の良いところは不器用だけど真っ直ぐなところだよ。振られたら俺が慰めてやるから、頑張れ。後悔しないようにさ」
 返事ができないまま、再び麺をすする。
 初めて注文した担々麺は、思いの外に美味しかった。

 その日の晩は、珍しく家族が揃ったので、家で一日早い俺の誕生会が行われた。母ちゃんが「ご馳走をつくる」と張り切っていたが、俺と父ちゃんと姉ちゃんが揃って「ピザが食べたい」と頼んだので、母ちゃんは手づくり料理を諦め、宅配ピザをとった。誕生日くらいは普通に旨いものが食べたかったから、父と姉と口裏を合わせておいた訳だが、食後には、残念ながらあのバナナケーキが出てきた。
 微妙な味のバナナケーキを頬張りながら、ぼんやりとアキのことを思い出す。「美味しかったよ」と言っていたから、持って行ったら喜ぶかな、と思ったけど、社交辞令だろうからきっと困らせるだけだ。
「――で、ほら。平明さんのお宅。あんた覚えてる?」
 父ちゃんと姉ちゃんがソファでテレビを見始め二人きりになった食卓で、突然、母ちゃんがアキの名前を口にした。よもや頭の中を読まれていたのでは、と訝しみ「覚えてるけど、なに」と小声で答える。
「取り壊すらしいのよ、あの家」
「アキの家、壊されるのっ!? 誰に聞いたのっ!?」
 思いの外、俺が食いついたのが嬉しかったらしく、母ちゃんはとっておきの秘密話でもするみたいに続けた。
「業者の人。今日、通りかかったら何人か集まってたから、聞いてみたの。もう誰も住まないから更地にして売っちゃうんだって。アキくんがそう言ってたみたい」
 さすがは「北の野次馬」と父が影でアダ名する我が母である。
「綺麗なお家だけど、もうずいぶん古いから。もったいないけど仕方ないわよね」
「いつ……いつ壊すって?」
「明日」
 食べかけのバナナケーキを半分以上残し、俺は自室に戻った。
 アキの家がなくなるという母ちゃんの話に、俺は酷く動揺していた。あの家がなくなると、アキとの繋がりを完全に失うような気がした。
 だからその晩、俺はこっそりと家を抜け出しアキの家に向かった。足には、ツク先からもらったレッドウィングを履いて。
 

  6

 北国のくせに、湿気がひどく蒸した夜だった。空は分厚い雲で覆われていて、星一つ見えない。今にも、ざっと雨が降り出しそうだ。
 黒のTシャツにジーンズ、少し大きめのレッドウィングを履いて、走る。身体一つでアキの家を目指し、息が切れても全力で足を踏み出し続けた。人気のない住宅街に、俺の足音だけが響いていた。
 十分ほど走り続けた先に、赤い三角屋根の家が見えてきた。予想通り、窓越しにぼんやりとした明かりが見える。
 肩で息をつく。玄関に立ちチャイムを押したけど、電気が通ってないのか音が鳴らない。拳で扉を、どんどんと二度叩く。
「アキっ」
 声を上げるが、扉は閉ざされたままだ。
「開けて、アキっ。俺――」
 もしこのまま開かなかったらどうしよう、と不安だった。まだ荒い呼吸を整えながら、祈るような気持ちでレッドウィングを見つめる。流れ落ちた汗が、一つ、二つ、三つと石畳に染みをつくった。
 かちゃり、と鍵を開ける音がした。
 扉がゆっくりと押し開かれる。顔を上げるとアキがいた。表情は硬い。
「……夜中だよ」
「ごめん」
「来るなって言ったろ」
「ごめん」
 急に、冷えた風が腕を撫でた。
 庇の向こうに、ぽつぽつと大粒の雨が降り始める。アキがポツリと「雨」と呟くと、見る間に大降りになり、ざぁっと屋根や地面にぶつかり音を立てた。
「帰れ」
「嫌だ」
「なにしに来たんだ」
「どうしても、今夜、話したいことがある」
 話してる間にも雨は勢いを増し、どーっと音を立て激しく降り始めた。
「……濡れるから、入って」
 アキが背を向け家に入ったので、後に続いた。
 戸を潜ると、すぐに吹き抜けの広いリビングになっていた。家具も荷物もほとんどなくて、ガランとしている。部屋の真ん中には、ぽんとランタンが置かれていて、これが唯一の光源のようだ。アウトドア用のグッズだろうか。ヤカンくらいの大きさがあり、ガラス製の風防の中でオレンジ色の炎を揺らしながら、広いリビングを柔らかく照らしていた。
 上がり框に腰を下ろし、ブーツの紐を解く。硬く縛り上げていたので結び目を解くのに苦戦している間中、背後に佇むアキの視線を感じた。
 靴を脱ぎ、空っぽのリビングの中央に立つ。
 家中が、雨を含んだ濃い木の香りで満ちている。壁も床も収納も、すべて無垢の木材でつくられていて、ランタンの橙の炎に照らされた木目が気持ちいい。まるでログハウスみたいな家で、家具こそ撤去されていたが「あぁ、こんな家だった」と懐かしい気持ちになった。
 二階へと続く階段の下には、丸まった布団が置かれていた。不思議に思い見ていると「明日でこの家とお別れだから、今日は泊まっていくつもりだった」と教えてくれた。
「アキのお父さんがつくった家、綺麗だね」
 梁のある三角天井を見上げながら、感想を漏らす。アキはなにも答えなかった。
「……レッドウィング、貰ったんだ。俺にはまだちょっと大きいけど。今日、初めて履いた」
 アキが横を向き、玄関に置かれたブーツを見る。
「昔、アキが持ってたレッドウィングは、大好きな人が履いてた靴だって教えてくれたよね。あれって、お父さんのこと?」
「そうだよ」
「どうして捨てたんだよ」
「僕にはもう、似合わないから」
「だからお父さんのつくったこの家も、壊すつもりなんだろ」
 アキの横顔が、一瞬歪んだ。
 すぐにまた表情を消して「そうだよ」
「似合わない靴だって、好きなら履けば良いって。教えてくれたのはアキだよ」
「……」
 こちらを向いた目は、暗いままだ。
「だから俺は、釣り合わなくても言おうって決めた。だからここに来た」
 ふぅっと息を吸い込んでから、
「アキが好きだ」
 まっすぐに、アキを見据える。
「後悔しないように、伝えに来た」
 逃げるように、視線が逸れた。
「……君は僕のこと、何も知らない」
「過去に何があったかは、正直わかんないよ。教えたくないなら、もう聞かない。でも知ってることもいっぱいある。アキの良いところ、たくさん知ってる」
「全部勘違いだ」
「勘違いでもいい」
「それに僕は男だ」
「そんなのわかってる」
「なら――」
「男だって、綺麗じゃなくたって、アキはアキだから。ただアキが好きなんだ。これって悪いこと?」
 顔を隠すように俯いたアキが「だから子供は嫌いなんだ」と震える声を絞り出した。豪雨に変わった雨の音に、消えてしまいそうな小さな声だった。
 ゆっくりと足を踏み出し、アキに近づく。
「来るな」
 顔を隠してしまったアキの両手を、そっとよける。泣き出す寸前の、子供みたいに揺れる瞳だった。頬を両手で包み込むと、柔らかくひやりとした感触が掌に伝わった。
「見て、もう俺の方が背が高いよ」
 丸くなった目が、俺の頭のてっぺんを見上げる。この夏にまた伸びた身長は、いつの間にかアキを追い越していた。
 驚きで緩く開かれた口に、唇を押し当てる。
「駄目だ――」
 抗議の声を上げる口を強引に塞ぎ、背中と後頭部に手を回した。両腕に力を込め、細い身体を抱き竦める。
「アキは、俺のこと嫌い?」
 耳元で尋ねる。
「……嫌いなわけないだろ」
「じゃあ好き?」
「……そういう極端な二択は困る」
「俺は好きなんだ、どうしても」
 拒絶するように硬くなっていた身体から、力が抜けた。
 もう一度唇を合わせ、アキの着ているリネンの白シャツのボタンに手をかける。上から一つずつ外し、現れた素肌に唇を落とすと、吐息が短く漏れた。
「や、やっぱり駄目だっ」
 突然、大きな声が上がり、どんっと胸元を突き飛ばされた。
「だ、だいたい君、まだ未成年じゃないのかっ!?」
 アキの声は裏返っていた。見ると、顔も驚くほどに真っ赤だ。
「……アキ、顔真っ赤だよ」
「こ、これは……ランタンのせいでっ」
 と、言い訳じみたアキの返事。
「まさか、照れてるの?」
「そういう訳じゃ――」
「でも顔真っ赤だよ」
「……」
 黙り込んでしまったアキが、助けを求めるみたいにこっちを見る。俺はそんなアキの様子に驚き、
「もしかして、俺のこと少しは好き?」と尋ねる。
「……」
 赤い顔のまま、反論できずに顔を歪めている。こんなに取り乱したアキは初めてだった。
「大丈夫、安心して」
 自信満々に頷いて見せた俺に、「へ?」と戸惑うアキの顔。
「俺、さっき十八歳になった」
「え」
 壁に残されていた円い時計を見上げる。その針が十二時を指していた。
「あ、誕生日」
「うん」
「お、おめでとう」
「うん。だから誕生日プレゼントちょうだい」
 腰に手を回し、もう一度抱き寄せる。
「いや、だけど。やっぱり倫理的に不味い気が――」
「平気、俺、もう大人だから」
「お、大人?」
「うん」
「でも、あ――」
 拒もうとする唇を再び塞ぐと、ゆっくりだけど、アキは俺を受け入れてくれた。

 リビングの片隅に雑に置いてあった薄い布団の上に、アキが横たわっている。その上に覆いかぶさり、身体を見下ろす。柔らかな髪がかかり、恥ずかしそうに目線を外す瞳も、上気した頬も、俺より華奢で脂肪の極端に少ない身体も、伸びやかな手脚も。やっぱり全てが綺麗に思えて、目に焼き付けるようにその肢体を眺めていた。ちろちろと揺れるランタンの炎が、薄暗い部屋の中で俺達の影を揺らしている。
 唇と指であらゆる場所に触れながら、アキの反応の一つ一つを潰さに観察する。どこに口づけると喘ぎが漏れるのか、どこに触れると腰が揺れるのか、睫毛が落とす影の下、どんな言葉で瞳が揺れるのかを。
 初めてだったけど、アキが感じてくれているのが良くわかった。すぐに何度だってイキそうだったけど、母ちゃんのつくるバナナケーキの味などを思い出し、耐えた。
「もう、これ以上は――」
 背後から腰を突き上げると、シーツに顔を埋めたアキが苦しげに呻いた。動きを止め、濡れた背中に唇を這わせる。
「……ねぇ、名前呼んでよ。昔みたいに」
 丸まったブランケットを握りしめていた右手に、力がこもった。その手の上に掌を重ねる。
「水基――み、あッ」
 熱く締めつける中をさらに奥へ進むと、大きな声が上がった。がらんどうの家に響く甘い喘ぎを味わいながら、溶けきった頭で考える。

 ねぇアキ。
 俺は追いつけたのかな。
 俺を走らせる、たった一つの暁(あかつき)の星に。

 ■テイクミー・ハニー


 平明 暁は険しい表情を浮かべ、腕組みをした。
「身体が持たない」
「ん?」
 テーブルを挟んで目の前に座る湊 水基がストローを咥えたまま顔を上げる。生意気そうに伸びる眉の下、切れ長の目に浮かぶ黒い瞳がこちらを見る。
「なんの話?」
「今朝の話」
「あぁ」と答え、水基が「理解した」と頷く。
 この数ヶ月の間にまた背が伸びたという水基は、春に比べるとぐっと逞しくなった。特別な運動をしているわけでもないのに、肩の辺りががっしりとしてきた。まだ幼さを残していた顔は、少し余裕が出てきたせいか、大人の男のものに近づいた。この年頃の男子の成長っぷりに目を見張るばかりだ、と暁は驚く。かつて自分もそうだったろうかと振り返るが、自分のことなので、よくわからない。
「アキは、するのが嫌なの?」
「……嫌とかそいう話じゃなく、程度の問題」
 小声で話していたつもりだったが、内容が内容だけに、はっと我に返り客席を見まわす。誰もこちらを気にしていないようで、胸をなで下ろす。
「君と違って若くないんだから。日に何度もなんて――」
「だって、アキがもっと、って言うから」
「言ってない」
「言った」
「言ってないっ」
 という、今度は明らかに大きな暁の声に、隣席の女性客がチラとこちらを見た。慌てた暁が、思わず俯く。
 水基と付き合い始めてからというもの、こんな風に振り回されることが多くなってきた。最初のうちこそ「手、繋いでもいいかな」などと初々しいことを言っていた水基だが、日に日に大胆になってくる。おまけに、暁が実は極度の照れ屋だということを知ると、まるでこちらの反応を楽しむように、積極的に求めてくるようにさえなった。そんな水基に翻弄され、これじゃあ、どっちが子供だかわからないな、と暁は小さな溜息をつく。
「いいの?」
「何が」
「いるけど」
 水基が顎をしゃくった先、右を振り返る。すぐ後ろに、渋面の菅沼が立っていた。
「い、いつからいたんですっ!?」
「……日に何度も、の辺りから」
 暗い顔で項垂れ、隣の席にすとんと腰を下ろした。
「菅沼さん、勝手にアキの隣に座らないでよ」
「君の隣よりは良いだろ」菅沼は頬杖と一緒に深い溜息をついた。
 最近ではすっかり行きつけになったイタリアンレストラン「GUIDO」だ。三人で集まる時には、いつもこの店で会うようになった。幸か不幸か、水基が倒れた一件のおかげで店員と打ち解け、居心地が良い。たまに「残り物だけど」と大柄な店長が生ハムの切れ端などをサービスでくれることもあった。外食なんて、ただ食べて帰るだけと思っていた暁にとっては、そうした触れ合いが何より新鮮で、楽しかった。
「で、俺に何の用」と菅沼がつまらなそうに切り出す。
「リフォーム会社を紹介してほしいんです。良いところ、知りませんか」
「まぁ何件か心当たりあるけど。仕事の話か」
「いえ、仕事じゃなく――」
「俺とアキの家、愛の巣のリフォーム」
 暁の言葉を遮って、水基が言う。それを聞いた菅沼が「愛の巣」と慄き低い声で繰り返す。暁はと言えば(愛の巣なんて古い言葉、よく知ってるな)と、目の前の若者を不思議に思う。
「断熱材を追加したいんです。あの家は寒いから」
「今から発注しても、今年の冬にはもう間に合わないだろ」
「やっぱりそうですよね、困ったな……」
「俺は平気だよ、一緒にいれば寒くないもん」
「一緒にいれば寒くない」とまた低い声で繰り返す菅沼。水基はもしかすると、わざと菅沼に当てつけを言ってるのかもしれない。いつかの復讐だろうか。
「どうしたの、菅沼さん。顔が暗い」
「……いいんだ。俺はもう、暁が幸せならそれでいい」
「なら早くリフォーム屋紹介してよ」
 けろっと言いのける水基を、菅沼がじろりと睨む。
「……わかった。なる早で動けそうなのを探しておく」
「やった、サンキュー」
「君のためじゃない、暁のためだっ!」
 ムキになる菅沼を、からかうように笑う水基を見ながら、(末恐ろしいな)なんて思う。

「アキ、俺にもコーヒー」
 二階のベッドルームから、水基の呼ぶ声が聞こえた。
「砂糖と牛乳もー」
 続いた言葉に、くすりと笑う。ブラックとミルクをたっぷり入れたコーヒー、二つのマグカップを手に持ち二階へと続く階段を上がる。途中、玄関に無造作に転がっているレッドウィングが目に入り(まだまだかな)と、また笑みがこぼれた。
 二階に上がると、水基はまだ上半身裸のままで、ベッドの上に寝転んでいた。斜めの天井に空いた天窓からは、冬の朝の光が柔らかく差し込んでいる。雪を心待ちにしている暁だが、今年は初雪が遅いのか、もうすぐ十二月になるというのにまだ降らない。それでも今朝は気温がぐっと下がり、リビングに備え付けの灯油ストーブをつけた。
 水基がやって来た土砂降りの夜、その翌朝に来た業者には頭を下げ、家の解体工事を中止してもらった。工賃はそのまま支払ったので財布的には痛手だったが、それでも残しておいてよかった、と思う。タワーマンションの部屋は引き払い、今はこちらに住んでいる。来年には街中に新しい事務所を構えるつもりでいるから、その準備に追われ忙しい中、水基とはこの家でよく会っていた。
 壁際にある仕事用のデスクにマグカップを置き、椅子に座る。日に照らされた木目を眺めながら、無垢の壁も悪くないが白い壁紙を貼るのも良いな、と考える。きっとその方が、暖かみが増すに違いない。
 足裏に、くすぐったい感触があった。見ると、いつの間にかすぐ傍にいた水基だ。毛足の長いライトグリーンのラグマットの上に胡座をかき、足を組んでぶらぶらさせていた暁の素足に触れている。人差し指で右足の裏を撫でた後、親指の先が摘まれた。
「なにしてるの」こそばゆさに、笑いが漏れる。
「足の観察」
「なんで、そんなこと」
「はじめてつくる靴は、アキの靴にしたいから」と真剣な顔でまだ右足を眺めている。
 水基は来年の春から、服飾系のデザイン学校に通い始める。担任が教えてくれた専門学校に靴のデザインを学べるコースがあり、そこへの進学を決めたそうだ。進路を決めた直後、水基は暁に「最高の靴職人になる」と約束した。そんな水基が、暁には眩しかった。
 自分は果たして、いつから水基に惹かれていたんだろう、と暁は考えることがある。再会したばかりの頃は、自分を見てころころと顔色を変える水基が単純に面白かった。自分への好意を隠しきれず、戸惑っている様子が新鮮だった。けれどいつの間にか、その直向きさに心打たれるようになった。迷いの中、必死に前に進もうと足掻く水基の姿に、忘れていた何かが思い出されるようだった。
 汚れた自分には似合わない――そう思って一度は離れようと思った。二度と会いに来ないよう、わざと傷つけた。なのに水基は全てを乗り越え、再び自分の元にやって来た。もう拒むことはできなかった。
 はじめて溺れた恋を裏切りという結末で終え、苦い記憶を抱えたまま、長い間、暁の時間は止まっていた。そこに水基がやって来て、淀んでいた澱を一気に押し流してくれた。その勢いは海を目指す川のように力強く、その流れに巻き込まれることで、暁もようやく、前進(ステップアップ)することができたのかもしれない。
 いつか自分を追い越し、水基は別の世界に行ってしまうかもしれない。そう考え、少し寂しくなる時がある。しかしそれでも、一緒にいればもっと別の場所に連れて行ってくれそうな、そんな予感がする。それは虫がいい、大人の甘えた考えなのかもしれないが。
 右足の上に、再び柔らかいものが触れた。見ると水基が足の甲にキスしている。
「ねぇ、アキ」、見上げた顔が、いつにも増して大人びて見え、どきりとした。
「……俺、アキと会えて本当に良かった。だけどちょっと不安なんだ。アキと会って俺の一生分の運、全部使い果たしちゃったんじゃないかって」
 真剣な眼差しで、そんなことを言う。
 こんな風に甘やかされては駄目になってしまいそうだ、と暁は内心、苦笑した。
「心配しなくてもいいよ」
 黒い瞳がじっと動かず、不思議そうに見上げる。
「だってあの日、君を見つけたのは僕の方だ」
 暁は微笑み、水基の唇にキスを返す。
 窓の外には、今年始めての雪が降り始めていた。
(了)
 

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