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流行がなくなる日

明治通りを僕はよく歩く。スマホを見ながらだったり、radikoを聞いたり、まあそれは色々なのだけど、歩いていると、毎週木曜や金曜には行列を見ることができる。多くは「Supreme」だったり、何かしらのブランドのコラボスニーカーだったりする。「Supreme」はご存知の通り日本だけでなく、世界でも人気のストリートブランドで、いわゆるラグジュアリーブランドや、アパレルブランドがS/SとA/Wの2シーズンで商品を送り出すというより、毎週何かしらのアイテムをローンチしている。今だと希少性も高いし、昨今は「ルイヴィトン」「バレンシアガ」、ラグジュアリーストリート全盛期みたいなこところもあるので、いわゆる「流行」の一つになっているのかな、と思う。

というところから、「流行」ってなんだろうと考え始めた。

「流行」って、つまりそれはブームなのだけど、それは一つのモノやコト、価値観に多くの人が共鳴するという現象だ(他にも解釈はあると思うが、とりあえず狭義の意味で)。つまり同じ情報が、広くあまねく人に届かなければならない。とすると、今世の中で起きていることが「流行」という概念を無くしてしまうかも、と頭の中でモヤモヤと湧き上がった。

例えば、2000年代からは特にデジタル領域において、イノベーションが目覚ましい。多くの情報は無料でコピーされ、オープンソース化して、あらゆるものを作るためのコストが限りなく小さくなる。それでいて、コピーされたものは無料に近い価格で流通し、それらを貪るように僕らは消費して生きている。つまり、オープンソースはあらゆるものをコモディティ化していく。すると人間の周りには、コモディティ化だらけになってしまうのだろうか。

いや、それはない(と断言したい)。コピーが溢れる結果、人間は一回性と固有性の価値をより重要視することになる(と、WIRED前編集長・若林恵さんが著書で語っていた)。例えば、2011年のフジロックで見たColdplayは、終盤で「Every teardrop is a waterfall」を歌ったのだけど、それまでは雨が降ってなかったのに、滝とまではいかないけど涙ような雨が降ってきた。「奇跡じゃん!すごい、Coldplay!」みたいな一回性の出来事(話が稚拙すぎるが、こんなのしか思い浮かばなかった)。そして、そんな自分自身の固有性を楽しみ、蓄積して、生きる。まあそんな価値基準で動いていくのではないのかなと思う。

話が遠回りしてしまったけど、服だってそうだと思う。資本主義が生まれる前までは人間の服はほぼオートクチュールだった。サイズを画一化して、コストを下げ、大量に生産。「効率」という資本主義における“紋所”のもとに、プレタポルテが生まれた。僕らが百貨店やセレクトショップ、ZOZO、メルカリで買う「バレンシアガ」も「sacai」も「supreme」だって、99%(たぶん)がプレタポルテなのだ。

オープンソースによってコモディティ化した社会で、人間の固有性が重要視されるような意識が芽生えたら、将来プレタポルテってなくなる日がくるかもしれない。コピー化された社会で芽生えるのは自分のオリジナリティで、選ぶ服だって自分のサイズやデザインイメージにぴったりの服(これが全ていいとは限らないけど)を購入するようになったら、それは全てオートクチュールになる。「流行」というものが、皆が同じ価値観を求めて消費するのであれば、70億総オートクチュールになった世の中では「流行」という概念はなくなる(かもしれない)し、「supreme」を求める行列はこの世からなくなるか、もっとマイクロなものになるかもしれない。と、明治通りを歩いて考えたのでした。