見出し画像

拭えないもやり靄

『しまなみ誰そ彼』鎌谷悠希(ビッグコミックススペシャル)

以下、作品のネタバレを含みます。

とても力を持った作品。たくさんの心動くシーンが詰まった作品。
それでもなお、それでいいのか!?
もやり靄を一言でいうと、これだ。

一見ハッピーに締められた物語である。レズビアンカップルは結婚式をあげ、高年ゲイ男性はパートナーの死を看取ることができた。主人公は、一度は決裂した異性装少年と一応の和解に至り、好きな人を好きなままお好み焼きを食べに行ける関係になった。

論が大幅にずれるが、ここまで書いてて違和感に苦しめられている。記号ラベル呼称問題。
「人と違う」ことに名前がついて定義を知ることで安心できる。悩める人の100%がこの過程でいったん安心できるかというと、そうではないのだろうが、自分が自分を受容する過程に、この段階は確かに存在すると思う。
でも、ラベルを貼ったことで更に雁字搦めになってしまう当事者もいるんじゃなかろうかなー。
これは、セクシャリティのことだけじゃなく、例えば、病気や障害に関してもある問題だと思っていて。
でも、ラベルがないと存在が見えないことにもされかねないのであって。

戻ろう。

作中のとある人物の言をかりると、「そういうひと」が「そういうひとたち」だけであつまってる図。
「そういう人」「そういうんじゃない人」はそれぞれ別の群体として生きていくしかないの?そこにしか平和はないの?

これは、疎外感だ。
わたしが、作中の人の輪に疎外感を感じたように、現実世界では「私たちの」人の輪に疎外感を感じているひとたちがいるという皮肉かもしれない。

そもそもわからない。
他人の性自認や性志向が、自分が生きるためにそんなに関係あることなのか。理屈じゃない、イヤなものはイヤ、という視点はわからなくない。
けれど、わたしは、ただのわたしとして生きているつもり。
他人の生きざまは正直ふーんというところだし、受け入れるでも拒絶するでもない。そのひとに遭遇しただけでは、そのひとの持つラベルは案外どうでもいいものだ。そのひととの関係ができて、ラベルに関する利害関係が生まれて初めて意味を成すものだと思うのが、ちがうのだろうか。それにしたって、その意味は、その人とわたしだけに通用する意味だ。ラベル全体にあてはめられるものではない。
わからない。この感覚は、わたしがきちんと人と接していないからなのだろうか。

結婚してないから、こどもがいないから、ちゃんと仕事があるから、健康だから、マイノリティじゃないから…とわたしのことをその当事者とは認識しない当事者に言われるのはキツイものがある。
だって、ただのわたしは逆になんの役割もない浮草なわたしであるから、誰かの誰もの歯車になりたい気持ちがあるから。

そのような疎外感をもってして、このまんがへのもやり靄が拭えないのである。

この記事が参加している募集

#マンガ感想文

19,954件