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岡山の来訪神③

今回は前回に続いて、来訪者の身分と厄払いについて例をみていく。


来訪者の身分

 この行事で来訪神の役をし、訪問して餅などをもらう来訪者はどのような身分のどんな年齢の人が対象なのだろうか。

子供

「ゴリゴリ」晩方、子供が各戸へ「ゴリゴリを祝うておくれ」と廻り、餅等をもらっていた。

岡山県の正月行事

 浅口郡里庄町の例である。
 また、井原市平井字西平井ではみの笠をかぶった子供が三人組で来ることが多かったという。(岡山県の正月行事)

青年

一月一四日の夜はホトホトが来た。昭和二十年頃、若しくは戦前までやっていた。これは近所の青年が女の着物などを着て変装したり、顔を隠して来ていた。一人で来る者と二~三人のグループで来る者とがいた。

中央町誌 民俗編

久米郡中央町(現久米郡美咲町)大垪和地区での聞き取りによる。

厄年の者

とらへい、コトコト、ホトホトは昔はしていたが今はしない。42や61の厄年の人かその家族の人が厄払いとしてコトコトをしていた。

岡山県の正月行事

厄年の人は、水をかけてもらうと厄がおちるといわれるので来るわけだが、これはたいてい簑笠をつけていた。

美作の民俗

  備中町田原(現高梁市備中町東油野)の例と、湯原町本庄(現真庭市本庄)の例である。
 この行事が厄年の人を対象にしたものであるという場所はかなりある。それぞれに厄を落とすためにすべきことや禁忌が付随している。

茅見では、厄年の者は、子供達とは別に、3軒を歩き廻らなければ厄逃れにならないといっている。

美作の民俗

厄年の者が三軒歩いて、一軒目では紙、二軒目では米、三軒目では大豆をもらい、最初の紙に米と大豆を包み、みつう路(三叉路)に捨てる。厄払いという。

岡山県の正月行事

茅見(新庄村)と新見市矢神(新見市哲西町矢田)の例である。ここでは水をかけてもらう、貰ったものを三叉路に捨てる、三軒を歩き廻らなければならないというものを紹介したが他にもいくつかある。これは後程紹介する。

厄年の者(依頼人)

厄年の人が人に頼んで厄払いをする。頼まれた人は厄払いと書いた紙に何年の男(女)とだけ記し、タオルなどをそえて盆にのせ実家を訪ねていき…(勝山町上)

岡山県の正月行事

 真庭郡勝山町上(現真庭市上)の例である。

近くの村から

正月14日の晩、トンドがすんだあと、近郷の部落からやってきた(湯原町本庄・真賀・久米南町弓削)。

美作の民俗

正月14日の晩に近くの村から頬冠りした者が「ホトホト」と呼んで戸を叩いてまわる。

鏡野町史 民俗編

 近くの村からやって来る人はどうやら本職であったらしく、ほかい人に近い位置づけとなっている。もしかしたら前項の厄年の人が依頼するのもこのような本職の人だであったかもしれない。
 近くの村から本職の人が来ていても、村内で子供、若衆、厄年の者もホトホトをしていたようである。

穏亡など

大人で来るのは穏坊などのみだった。

岡山県の正月行事

 笠岡市吉田字大ノ平の子供が来訪者をしていたゴリゴリの例である。
 火葬場・墓地の管理をしていた穏亡は賤民視されており、前項のほかい人や旅芸人、民間の陰陽師などと同じように近世の身分社会では下位の階級におかれていた。

来訪者は貧しい人なのか

 前回、『美星町誌 通説史』より、ゴリゴリがこどもの行事なのに対し、トラヘイは貧しい人たちの物乞いであると考えているところがあると紹介した。その続きの文章には

どこの部落にも、二人や三人は生活できなくて、コジキをする人がいた。その人たちがよその部落を歩いて餅をもらっていたのだろうという。
(略)
十四日の夜ゴリゴリの行事が行われた。これにも貧しい人は大人でも出かけたという。
(略)
その人たちはホオカムリをしており、誰が来たのかわからなかったが、よその部落の貧しい人たちが来ていたらしいという。これは男ばかりとは限らなかった。

美星町誌 通説史

とある。
 備中町でのアンケートでも同じようにトロヘイに出かけるのは「貧しい家庭の大人が多かったという見方をする人もいる。」(『岡山県の正月行事』)とあり、近くの村から来る来訪者は貧しい人であったと考えられる。
 餅の代わりに持って行く藁馬などを用意できなかった場合もあったようである。
 ただし、ここで注意すべきは、貧しい人が来訪者となる地域があった一方で、来訪者が必ずしも貧しい人や賤民視されていた人々だとは限らないということである。

来訪者の身分の移り変わり

 前回の例などを見ていると、来訪者が子供であることが多くある。ではこのコトコトはもとから子供の行事として行われてきたものなのだろうか。実際にはそうではないようである。

明治から大正時代は主として大人であったが次第に子供に移っていった

岡山県の正月行事

大元では十三日の夜のゴリゴリはこどもの行事とされているが、以前は大人でも参加していたという。

美星町誌 通説史

 高梁市備中町平川、井原市美星町三山の事例である。
 子供が来訪者として参加するようになるにつれ、大人の行事であったものが次第に子供の遊びへと変わっていったようだ。大人の管理下の行事であった頃は簑笠で変装していたのが、子供の遊びへと変わったことで子供が自ら仮面を作ったりなどして趣向を凝らすようになった。そして、来訪者に水をかけるという行為が行事を楽しいものへと変えた地区もある。

来訪される側の家

 多くの場合は村中の家を来訪していたようだが、厄年の者(依頼人)のように、実家に行くなど特定の家に行く、特定の家では○○をするなどが決まっていた事例もある。

厄年の者の家

厄年に当る人の家(たとえば四十二とか六十一の人の家)へ行く時は、馬の背にヨロコビの包み(祝儀)をくくりつけて行く。そうすると、その家では酒を一升出したり、オカガミを出したりする。

美星町誌 通史編

 井原市美星町宇戸地区での事例。厄年の人が赴くのではなく、厄年の人に赴く場合に持ち物に指定がある場合がある。
 新見市千屋字花見では33,42,61才の厄年の家へは簑笠を着ていき、「牛綱・モガタ・セナアテ:薪などを背負うときに背中を守る藁製のもの・草履・宝船」を「ハリコ(ソウキ:ボウル型のざる・カンパチ)」に入れていったという。

祝われる家

 前回事例を見た文句から、この行事を祝い事だと考えている地域があったことはわかったが、他に祝い事があると尚の事おめでたい。

十四日 この日に祝い事のある家にゴリゴリ馬を作って置くゴリゴリの行事があった

下倉村誌

祝ってくれない家

 トラヘイを祝ってもらいに行ったのに餅を貰えない場合も存在した。

もし祝ってくれない家があると石を投げたり、畑のものを引き抜いたりしていやがらせをした。

備中町誌

 高梁市備中町布賀での事例である。ここでは主に子供の行事であった。

 次回は来訪者が持って行くものとそれを入れる容器について見ます!