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認識は三次元の箱である

ヒトが世界に対してする認識というのは、存在に境界を引くことであり、存在、を世界の曖昧な覆いの中から取り出し、その存在に対し囲いを設定し(境界を引き)区別することである。そうして世界の中に在る曖昧な存在に境界を引き、存在をを囲い、はじめて一つ一つの物を認識する。その認識の際、便利なツールに言葉がある。
つまり事物というのは、私たちが事物に対して認識という線(境界)もしくは面(囲い)を与えることによって成り立っており、私たちの世界は「私たちがみている世界」であって「世界をみている私たち」ではない。
僕は、ヒトが世界を認識するようになった、物と物の間に境界を与えるようになった時から、「差別」は避けられなかったのだと考えている。今書いてきたことを顧みるならば、差別とは認識の本質にあるものだろう。差別と認識も言葉の綾である。
物と物だけでなく、人と人、もしくは集団と集団間にも境界を与える。それが一個人と一個人ならば、個人の尊重という多様性を重んじた認識も出来るが、一個人を一つのカテゴリーの中で認識するならば、一個人はカテゴリーの中でのみ、尊重されることとなる。そうして区別された二つの事物、人間、に優劣をつけるのなら、それが差別と呼ばれるものになるだろう。少し話が外れたように感じられるかもしれないが、私たちが認識出来るのは三次元までだということに、僕の言いたいことがある。
私たちは認識という囲いを与える。その囲いが四方、壁で覆われたものであるならば、この認識は三次元であるといえる。この認識という箱から脱出するにはどうすればいいのか?一次元(線)から脱出するには二次元(線)が必要になる。二次元(面)から脱出するには三次元(立体)が必要となるのであれば、三次元(立体)から脱出するには四次元が必要なのは明らかだ。僕は、ヒトが蔓延る差別問題を克服するには、四次元の知覚が必要なのだと考える。それは認識の鎖からの解放をも意味するだろう。
認識が三次元空間の理論であると仮定するなら!

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