見出し画像

Lost and found

山の稜線が隙間なく林立する緑色した木々に沿っていた。
葉緑体が緑という色を呈しているのではなく、私たちの眼が葉緑体を緑と見るのか。いつまで経っても答えのでないような膠着状態を私は心底気に入る。

十代の頃は、苦しみや努力の意味がいつか分かるのだと、なんとなくそんな風に考えていた。その後、考えていた期待は木っ端微塵に破砕したり、形を少し変えて叶ったりした。
私の見る世界は私固有の色眼鏡を通しているが、しかし世界が私に沿って動くという訳ではないということを腑に落とすまで時間がかかった。
答えを見出すこと、苦しみを解消することの一切を世界は請負わない。
私が勝手に意味づけした日々に平行して、ただ過ぎていく意味を持たない日々があることに目を向けることに未だ慣れないでいる。
私の身体が透けて背景があらわになる空想をする。かろうじて輪郭だけがなんとか認識できる。
世界を私が意味づけることの最初にあるのは、目や耳や鼻や肌などの感覚器官が世界を感じる時、それは私を通してのみ感じるということなのではないかと考える。
世界を感じるには私は不可欠だ。そしてその感じる世界は私固有の世界だが、世界にとって私は不可欠な存在ではない。そして各々の感じる世界は違うものの、地球という環境は、そこに住む生命体に共通して配されている世界だ。

珈琲を淹れる。美味しくできる時もあれば、あまりうまく淹れられなかったと感じる時もある。
洗濯をする。シャツを干して乾く間に、買い物に行って、お昼ご飯を作る。曲を書いて、その後少し昼寝してしまう。起きると夕方になっていて、シャツを取り込む。その時にボタンの掛け違いに気づく。普段つかない皺がつく。
意味合いもなく、隠喩でもない日々に、私は肌色のカーテンで包まれていく、日々をそんな風に思えてやっと、答えのない日々を生きることが好きになってきた。

私は幼い頃、既にそうした答えのない一日、一日を発見と冒険に満たされて生きていた。そしていつの間にか失ってしまった。
ここまでは多くの人が経験するプロセスだ。
私はその先に、幼き日々の心をもう一度見出したいと願っている。それは答えのない日々を生きることで近づいていけることのように思える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?