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産業カウンセラー養成講座に通う8

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 『産業カウンセラー養成講座に通う』表題にして、催眠術スクール・マインドクリエイトでの話を取り上げてみる。心理カウンセリングのヒントになりそうなので備忘録としても書いてみたい。

 ある日の催眠術スクールのこと。その日は催眠上級クラス。瞬間催眠や、基本的な誘導文無に非言語的に催眠を掛けるといったテレビで見るようなテクニカルな内容が多い。
 この日、先月に続き参加者は僕一人だった。上級クラスによく出入りする他の人が今月も忙しいらしい。授業内容は前回の続き、エリクソン催眠について、それと、トランスコーチング。

 世の中の多くの人がこの『トランスコーチング』を聞き慣れないかもしれない。マインドクリエイト中井先生が開発した新技みたいなものだ。いうなれば、『半催眠状態で傾聴(けいちょう)』していくスタイルだろうか
 今回は、エリクソン催眠の続きよりもトランスコーチングがメインだった。

 今後『僕がどう活動していきたいか?』『どんなことを人々に提供していきたいか?』『ターゲットはどんな人か?』『どうやって実現していくか?』といったテーマで進めていく。 

中井先生
全部白へびさんの中にありますからね
白へび
「う~ん、おおよそのフレームは見え始めてるんですけど、まだ十分な整理が出来てないですねぇ」
中井先生
「順番にみていきましょう」

 やや暗めの照明に落とし、僕はそこそこふかふかのソファーに座り、トランシーバーマイクを身につけさせられる。部屋にあるアンプに傾聴によって僕が話した内容が、僕の耳にしっかり届くようにする意図がある。こうすることで何かの発見に繋がる言葉が僕から出たとき、暗示としての入りも良くなる狙いがある。

  通常の『傾聴』ではマイクもアンプも使わないが、これは催眠術と傾聴を応用したやり方だ(『傾聴』のいろはを学習中の僕が言うのもおこがましいが)。半催眠状態で傾聴してもらう中、特に自分でも印象的だった部分を一つあげてみる。

 『日々、神棚へ向かって祝詞奏上(のりとそうじょう)・読経(どっきょう)している』という部分だ。

 因みに、『神棚に向かって読経』というのが「?」な人は多いかもしれない。
 白へび宅の神棚は神仏習合(しんぶつしゅうごう)になっている。神棚向かって左側に仏さん、右側に神社という具合だ。スペースの都合があり一社造りのお社(やしろ)を神棚中央に鎮座させている。
 10数年前TV心霊番組で「仏さんと神様は仲が悪いから同じ部屋同じ棚に同居させてはいけない」と言っている霊能者さんがいたので、僕はビビっていた。しかし、お作法を知って正しく御祭りすれば問題は起きないことを知った。むしろ、より頼もしい存在となる。
 明治以前の神仏習合に習い、鳥居をくぐって同じ境内になん百年もお寺と神社が仲良く並んでいたという、その状態を簡易再現するようなものだ。
 地方の神社仏閣では未だ、神仏習合スタイルがそのまま残っている場所もまだ少しある。

 さて本題、

「やり始めた頃と、やり続けている今とでは、祝詞奏上・読経について白へびさんのなかで何かの違いが生まれています、それはどんな違いかわかりますか?」

 え~?と思うが

白へび
「違いがあるとすると‥。

 最初は祝詞の意味も分からず、でもコレを読むことで何かしらいいことがあると思って、見よう見まねで読んでました。いわばミーハーです。

 最近では、仏さんへの理解も進んで読経も始めました。そのほかに、真言も唱えています。

 祝詞・御経にしても真言にしても、それぞれにどんな意味があるのか意味を知るうちに、特定の目的のために読むという感覚に変わって来た気がします。

 特に日本の神様は色々いて、それぞれに得意分野が違うみたいなんです。沢山いる仏さんも同様にそれぞれ得意なことが違うようです。

 だからそれぞれの目的に合わせた祝詞や真言を理解して、そのイメージを持って唱えるスタイルに変わって行ったと言いますか‥」

中井先生
「見よう見まねでやっていたころと、意味を理解して目的のために行う今があるんですね。

 え~、ここでいう『大きな違い』とは

『自分を見つめるために行うか』の違いです」

白へび
「ほーぉぉぉおおおーーー、なるほど」
思わず顔がニヤけてくる。

 なるほど、言われてみればそうだ。真似事でミーハーな感覚の頃は外ばかりを見て自分を見つめていなかった。

 世の中の人皆がどういう感覚で祝詞奏上・読経していくのか?よく知らないが、自分に限ってはそうだ。

心願成就したくてご祈祷した神社の
「祝詞」

着目する分野で鍛錬(たんれん)したくて
「不動王明王真言」

世の中が穏やかであってほしくて
「観世音菩薩真言」

厄除けご祈祷したから
「蔵王権現真言」

無条件の愛を発動したくて
「愛染明王真言」

 かといって、僕が祈ってるから皆が生きてられるというつもりは全然ない。じゃぁ何で祈るのかというと、僕が祈りたいから祈るのだ。

 何となく中途半端だがここで一旦
 つづく

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