魔法人形は、異世界で少女の夢を視る。/二十
マリーの腕に抱かれての逃避行は僅か日暮れまでに幕を閉じた。
お屋敷に連れ戻されたマリーはたくさん叱られた。
叱られた分だけ心配されていた証明でもある。
魔女を放っておくのも心配だけど、二兎を追うには体が小さすぎる。
私は、私が大事にしたい可愛いウサギと共にいる選択をした。
生家を離れてセドリック氏のお屋敷のある隣の領への引っ越して、婚儀は成った。
マリーも徐々に気持ちを落ち着かせて、二人の間に第一子が誕生する。
年を置いて第二子、第三子と子宝に恵まれたマリーはすっかりお母さんになって幸せそうにしていた。
マリーもセドリック氏に心を開いていき、互いに尊敬しあえるような夫婦関係を築いていく。
私が嫉妬に狂わなかったのは、母親似の三女のお世話係に任命されていたお蔭だろう。
一番上の兄と二番目の弟はちょうどふたりの間をとった顔立ちをしていたが、三番目の妹はマリーにそっくりだった。
名前はユリーシャと付けられた。如何せんお転婆過ぎるのが、生前の私の姪っ子にも似ている。
活発に人形遊びをするので、私とはよく外に出て傷だらけ泥だらけになったものだ。
五歳の時に足に負った傷も痕は残ったけどユリーシャは年々綺麗に成長していく。
将来は王都の社交界デビューを目指しているようだった。
マリーが大病を患った。
王都の医者にさえ手の施しようのない衰弱。
やせ細り、ひとりで出歩くことも難しくなる。
長い闘病生活。
日に日に弱っていく姿を見かねて、私は里帰りをマリーに提案した。
マリーは頷いたが、既に長旅に耐えうる体力も残っていなかったのだ。
私が魔女のところに行くことをマリーは引き止めた。
マリーを救える可能性があるのは、魔女だけだった。
マリーの弱々しい手を振りほどくには人形の力でさえ容易い。
一刻を争う状態にも関わらず、私は行かないことを選んだ。
掠れる声で「傍にいて」と囁いた意思を無視したくはないから。
マリーは言葉を話すこともできなくなった。目を覚ます時間が極端に短くなる。
まるで夢世界に囚われた眠り姫。
肌は透き通るように美しく、作り物めいた神秘性さえ醸し出している。
マリーは、
マルガリーテスは尊敬する夫と愛する三人の子供たち。見舞いに訪れていた実母。それに彼女を慕う使用人たちの悲しみの涙のなか、笑顔で息を引き取った。
私も、誰にも何も言わないままに、お屋敷を後にした。
※
異世界にも梅雨はあるのかと、ぼんやり考えながら歩いていた。
人形の体は冷たさを感じることはできても、寒さを感じることはない。
少女が好きだったヴァイオラ花草(かそう)の髪はくすみを露わにしている。
紫水晶(アメジスト)の瞳に傷でもついているのか、視界も霞んでいた。
どこを、どれだけ歩いてきたのかもわからないほどに汚れていた。
鏡越しに見た綺麗な人形はもうどこにもいない。
土と砂と泥と日焼け。樹木の枝葉による擦過痕。転倒や落下による傷み。
マリーにもらった絹のドレスは、ずぶぬれで重しのようにまとわりつく。
自暴自棄になっていたのかもしれない。
行く当てなどひとつしかない。
馬車で五日の旅程。人の足でも倍以上はかかる。
では人形の足ではどれほどの時間を要するのかは想像に難くない。
魔力(マナ)の供給はない。
眠りに抗いながらの強行路。
数か月。
または数年。
途方もない旅路。
眠りの頻度は早く、眠りは長くなる。
これではまるで愛するあの娘と同じようだと嬉しくなって、力となった。
見知った土地の風景に踊る心などはない。
山の稜線も、輝明なせせらぎも、山菜を探し回った森は目を瞑ってでも歩いてゆける。
懐かしい丘陵。突き刺さると巨石。彫り設えられた石段。
雨足は強まる。
身の丈ほどの石段を両手を使って這い上がる。
機械的に、淡々と。
流れる雨水が摩擦力を奪う。転げ落ちても立ち上がる。
痛みは感じない。
また、感じなくなっていた。
上がり切って、年月の経ったバルコニーの板材を濡らす。
果たして、あの魔女が迎え入れてくれる保証はないし、入れる理由は更にない。
カーテンは閉め切り。鍵も掛かっていないのだろう。
断られても、顔だけ見れればいい。
ドアをノックする。
想定を覆して扉はすぐに開いて、懐かしい顔が招いてくれた。
無愛想で憮然としている。
下着姿の、生前の私。
『ただいま』
「おかえり」
魔女と特別に話すことはなかったし、話さなかった。
私の濡れ汚れた衣類を脱がした魔女は、木桶に張った湯につけてくれる。
以前は関節への水垢や金属パーツの錆を心配していたけど、数日間雨に打たれていたのだ。
今更気にもならない。
魔女は丁寧に体を拭いてくれる。
汚れが落ちると部品の傷が露呈するけど、
何度もお湯と布を取り換えてくれた。
水気を切って、一番最初に来ていた緩いワンピースに袖を通すと、髪もある程度の艶を取り戻していた。
『ありがとう』
「おあ」
それだけの言葉を交わしただけで、私たちの会話は止まる。
魔女が知らないわけはない。
彼女はきっと色々なことを知っている。
世界のことも、私のことも、マリーのことも。
知っていて黙っている。
部屋の真ん中にある不定形を挟んで向かい合う。
魔女は椅子に座っているけど、私はテーブルの上の本に腰を下ろした。
雨風の音は室内までは届かないようで、ただ静寂のなかをコチコチと時計だけがリズムを刻む。
『時計置いたんだ?』
「おあ」
『あんなに嫌がってたのに?』
「目覚ましがいなくなったからな。インテリア雑貨と思えばまずまずだ」
『寂しかった?』
「静かになったよ」
『私は少し寂しかった』
「……そうか」
『マリーがね、すごく嬉しそうだったんだ。もう…………のに、なんであんな風に笑えたのかな?』
「相変わらず、お前は馬鹿だな。幸せだったからに決まっているだろう」
『そうかな。私はマリーにもっと生きてて欲しかった。私と一緒じゃなくてもいいから、生きてて欲しかった』
「そうだな」
『ねえ、聞いていいかな? マリーは私と契約結んだのに、なんで。私がマリーのこと、私が―――っ!』
「あの娘は元より長くは生きれない体だった。あれがあの娘の寿命なんだ。それは契約を繋ぐときにあの娘にも告げた。あの娘も自分の生き方を選んだんだ」
『嘘つき。そんなの嘘だよ! マリーはもっと長生きして、おばあちゃんになるまで長生きして、孫とか曾孫に囲まれて幸せになって欲しかったのに!』
「イオ。あの娘は幸せだったよ。伴侶や子供らは副次的なものでしかない。あの娘はお前がいたから幸せに逝くことができた」
「イオ。お前はよくやった。ちゃんと自分に向き合ったんだ」
『私はなにもしてあげられなかったのに!』
「お前は泣かずに見送ってやった。あの娘にはそれで充分だったはずだ」
『違うよ! 私は人形だから泣けないだけ! 感情も涙腺もない、だから―――』
「そんな紛い物ではないよ。イオ、お前は」
魔女の人差し指が私の頬から掬い取った、液体。
「ちゃんと泣けているよ」
「イオ。お前は頑張ったよ」
壊れた人形のように崩れた私は、魔女に抱かれて、声を上げ泣いた。
※
深夜を過ぎて、早朝の訪れよりも少し前。
私は魔女に頼んで、間借りしていた部屋の棚に床を移してもらった。
目覚めたての私が、棺桶だと勘違いした小さな化粧箱。
中には綿がマットレスのように敷かれただけのもの。
人形には事足りている。
『ごめんね。無理言って。でも眠いんだ。すごく眠い』
「魔力(マナ)供給が失われたからだ。ここまで戻れたのが奇跡だよ」
『奇跡ってさ、私が望んだから起こったの? それとも私が帰ってきたかったから、魔女の家が帰してくれたの?』
「どちらでも構わないだろう」
『うん。だってあなたに会えたから』
「光栄だな」
『今だから言えるけど、私の顔って優しい表情もできたんだね』
「おあ?」
『いつも仏頂面でいたから気付かなかったな』
「よく見ると、それなりに美人で愛らしい顔をしているだろう?」
『うん。以前(まえ)は大嫌いだったけど、いまは嬉しい。自分に送られるなんて』
「送るわけではない。おやすみの挨拶だ」
『そうだね』
「じゃあイオ、おやすみだ」
『うん、おやすみなさい。またね』
「またな」
箱の蓋が閉じられて、一切の光ない闇が訪れた。
怖くはない。
薄い箱を隔てた先には、あの魔女がテーブルで作業をしているか寝ているはずだ。
それに、眠りに落ちれば彼女に会える。
私のただひとり愛しい人。
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