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ある花コウ岩のはなし


 私は花コウ岩です。けさ、この河原に着きました。きのうまではもっと上流の、もっとここより緑の葉かげの強い場所でのんびりしていたんですけど、きのうの大雨で流されてきたんです。
 私は花コウ岩の中でも、色は白いし、形もきれいにまるくなっているので、どこにも引っかからずにここまで流れてきたんです。

 ここは川も大きくなって、河原も広いし、なにより人家が多いので、要注意です。
 なにに要注意かっていうと、つけもの石にされることですね。

 わたしは、さっきも言ったように、いわゆる『手ごろ』なんです。重さも、ちょうどいいんです。だから、できるだけ水の中にかくれていたいのに、出ちゃったんです。河原に打ち上げられちゃった。

今日か明日、もう一度たくさん雨が降ってくれるのを祈るだけです。

 三日、たちました。まずい状況になってます。あれから、毎日お天気なんです。それも特上にいいんです。川の水は、最初わたしの左足をひたしていたんですけど、(どこが左足?などと考えないでくださいね)もう乾いちゃったんです。川が、もうわたしから3メートルも向こうに行っちゃったんです。…どうしよう。どうかだれもわたしに気がつきませんように。

 一週間、晴れの日が続きました。
 わたしのいる河原は、さらに広くなりました。さいわい、まだ誰もわたしを気に止めないでいてくれるみたいです。そういえば、まだ季節は夏の終わりで、つけものシーズンじゃないから、どうか、雪が降るまでこのままでいられますように。


 花コウ岩として生まれたからには、わたしの理想は「すりへってなくなる」ということなんです。ここは背中が暑すぎるし、(どっちが背中?と考えないこと!)早く雨が降らないかな。背中にポツポツと雨のしずくが落ちてきて、ザアザアと洗われると、ホント気持ちいいんです。
 ほんの少し、そうしていると背中が透明になっていくのがわかる、うすくなるんじゃないんです。透明に、なっていくんです。ああ、本当はずっと水の流れの、いくぶん強いところにいたい。川の中だと、雨みたいに背中だけじゃなくて、わたしのおなかや両わきも、少しずつ透明のオブラートみたいになって、すーっとはがれて、流れていって、そうするとわたしのからだは、少し軽くなる。からだが軽くなると心も軽くなって、その分眠くなるんです。冷たい水になでられながら、ここちよく眠ることができるんです。
 そうしていつの日にか、わたしのからだは、もうどこから見ても水にしか見えなくなって、流れ去っていけるんです。ああ、考えただけでうっとりしちゃいます。

 でも、こんなところじゃだめです。雨は降らない、川はどんどん遠くなる。さしあたって今、一番祈らなくてはいけないことは、つけもの石として、人間に拾われてしまわないように、ということしかありません。

 「神さまどうか、お願いします。」

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 つけもの石の、なにがイヤかというと、それはまず、あのニオイです。色白のわたしの肌を、みどり色やあめ色に変える、漬け汁です。たくあんの桶に入れられたら最悪です。からだに付いたコヌカが乾いてカピカピになったり…。いいですか?乾くときって、やっぱり肌がツレるんです。そしてかゆくなる気がする。まあ、あくまで「そんな気がする」だけですけどね。


 ずいぶんくわしいって?そりゃそうですよ、実は前にいた上流にも、やっぱり人家は少しですけどあって、わたしはそのうちの一軒の農家に七年いたんです。7年ていったら、そのまま川の中にいたら3ミリは軽くなってましたね。ニオイが強いからずーっと不眠症に悩まされて、夢の中でもニオイがあるんです。


 7年…。7年の間、わたしが見たものは、つけもの小屋の天井と、わたしを拾ってきたおばあさんと、その家の白猫くらいでした。時々、つけもの小屋のちいさな窓から吹く新鮮な風のにおいや、陽をうけてキラキラ光る葉っぱと、その枝に時折やってくる小鳥と、そんなものがわたしのすべてでした。


 おばあさんは、わたしのあつかいは丁寧にしてくれたので、最初より少し、好きになりました。一番気持ちのいい季節は、もう山のてっぺんに雪が降るくらいになったころ。
 秋のある日、わたしは年に一度だけ、いきおいよく流れる井戸水で洗ってもらえるのです。おもての光りもまぶしくて、それにおばあさんは、かたいタワシでわたしをゴシゴシ洗ってくれるんです。痛かないですよ、私は花コウ岩ですからね。それより、それだけ強く洗ってもらえると、表面がすこしうすくなるんです。透明になるのとは、すこし違うけど。それでもここちよく疲れて、さっぱりして、その日の夜だけは、ぐっすり眠れるんです。花コウ岩はみんな、眠るのが大好きなんです。


 翌日はまた、新漬けの上にすわることになるんですけどね。
 そうして7年、そのおばあさんのところですわってました。

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 8年目の秋、おばあさんはわたしを洗ってくれませんでした。
もう山のてっぺんがまっ白になったのに、おばあさんはわたしを洗いにきてはくれませんでした。

 ちいさな窓の外がまっ白になって、山吹が黄色く咲いて、セミの鳴き声が聞こえるようになったある日。
知らない男の人が「暑い暑いっ」と云いながら入ってきました。
わたしを樽ごと外に出して、えいっ!って蹴飛ばして樽ごと転がしました。
わたしは少しだけ残っていた古漬けの菜っ葉と一緒に放り出されて、眩しいおひさまの下で水をかけられました。そうしてすぐ脇を流れていた小川に、わたしを投げ入れました。

 「おばあさんが、いなくなってしまった。」

 わたしは川の水に半分からだをつけながら、少し泣きました。つけもの汁よりしょっぱい水が、わたしの中からしみだしてきました。

 「おばあさん、さようなら。」

 その日からすこしづつ水に押されて、少しゆったりした流れの場所につきました。
 ある夜、雨が降って、たくさん降って、わたしはまわりの石たちといっしょに川を下りました。

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 …1年、わたしは河原でとくに拾われることもなく、秋になって、雪が降って、カラスノエンドウが足元で咲いて、そうしてまた、暑くなりました。
 わたしは時々降る大雨ごとにすこしづつ場所を移動して、とうとう昨夜からの大雨で、また流れのはやい水の多い場所に入りました。

 …何年過ぎたのかは、わかりません。
 わたしはだいぶんちいさくなりました。

 あれからずっと水の中にいるので、ここちよくすりへり、ここちよく眠くなり、
そうして眠っている時間がどんどん長くなりました。

 時折目をさますと、水底から透けて届くおひさまの光が、あのつけもの小屋の小さな窓から差し込む光のように錯覚してしまうことがあります。
 それはうつくしい光でした。
 そして、その光を映すおばあさんの目を思い出しました。顔はぼんやりとしか浮かんでこないけど、おばあさんの目に映る木々のみどりや、空の青や、わたし自身の姿を思い浮かべることはできます。

 でも、このところ。
わたしは本当にちいさくなって、からだも軽くなって、もう少しであの「あぶく」みたいに浮かんでしまえそうだな。と思います。
 
 想像して、ここちよくて、そうしてまた、目をつむります。

 なんだかまた、軽くなって、おしりが浮かんだみたいです。
 とても、眠いです。

 

(おしまい)


はちと申します。 見ていただいて、ありがとうございます。 ちいさくて、大切なものをひろいあつめたいです。