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戦国大名武田家が滅亡寸前に築いた幻の城「新府城」(山梨県韮崎市)


わずか68日だけ存在した幻の城

山梨県韮崎市。ここは甲府から西にしばらく離れた小さな町で、ちょっと郊外に出れば田んぼが広がるとても静かなところです。

この町で目立つのは七里岩と呼ばれる巨大な崖。
ゴツゴツの岩による地形がずっと続いているんですね。

七里岩


戦国時代の終わりごろ、この川に挟まれた細長い台地の上に巨大な城が造られました。その名を新府城と言います。

その名の通り、甲斐の新しい中心となるべくこの城は、戦国最強と呼ばれた武田家の最後の当主勝頼によって、最高の技術を用いて築かれました。

しかしその力は発揮されることなく、未完成のまま勝頼の手によって焼き払われてしまいます。

新府城が地上に姿を見せていたのはわずか68日。まさに幻の城なのです。


武田勝頼は滅亡の1年前に新府城を築いた

武田勝頼は、三河長篠にて織田・徳川連合軍と戦い大敗してしまいます。

その後、越後上杉氏の後継者争いをきっかけにそれまで同盟していた相模の北条氏とも争うこととなり、周辺国は敵だらけとなってしまいました。

これでは戦国最強と呼ばれた武田軍でも領国の守りを固めざるを得ません。

一方勝頼と敵対していた織田信長は、大坂の本願寺を降して畿内を制圧。

信長の次の狙いは、勝頼が治める甲斐・信濃に向けられるのです。

このような深刻な状況の中、勝頼は新府の地に新たな武田の本拠となる城を築き始めます。


新府城を築いた武田勝頼


築城が開始されたのは1581年の2月といわれ、武田家滅亡のわずか1年前のことでした。

新府築城は、勝頼にとって生き残りのためのわずかな希望。しかし周辺の情勢はどんどん悪化していきます。

新府着工から1月後の3月22日。

遠江の高天神城が徳川家康の攻撃を受けて落城。

周りに敵を抱える勝頼は、結局この城に援軍を送ることができませんでした。


4月には北条軍が都留郡に侵攻。

それまでずっと戦いのなかった甲斐が戦場となりました。

9月には駿河長久保城が北条軍によって落城。こうして武田領は少しづつ敵の手によって侵略されていきます。


徹底的な防御!武田家の新首都

新府城の西側は高さ100mを超える七里岩の断崖、東側には塩川の流れによる傾斜があり、東西から攻めこむことが難しい地形となっています。

城の南側はゆるく台地が下っており、こちら側から攻撃されても城方は高い有利な場所から守ることができます。

この南方向に城の正面大手が開かれていました。

新府城の唯一の弱点は北側ですが、ここを堀などで断ち切ってしまえば攻めることは大変難しくなります。

城の北側には出城が造られていたといわれており(徳川家康によるものかもしれません)、徹底的な防御態勢が敷かれていました。


新府城は周りを崖と川に囲まれていた

新府城跡を見てみよう


無料駐車場があります

城内への最短ルートは神社の参道ですが、これは後年になって作られたものなので、今回は無視します。


城の南側、大手に向かうには、参道の先にある道を登っていきましょう。

しばらく登っていくと左側の景色が気持ちよくスッと開けます。

ここが新府城の正面入口大手です。

大手は桝形・馬出・三日月堀がセットになった新府城最大の見どころ。


富士山も見える絶景を無視してこの先から下まで降ります。



城の南側から坂道を登っていくと、巨大な土の高まりが見えてきます。これが新府城の正面入口「大手馬出」です。

高さ・大きさともここから見上げるととんでもない迫力がありますね。


馬出土塁を見上げています。手前は三日月堀

馬出の下に設けられた三日月型の堀はここを正面突破しようとする敵兵の動きを止めるものです。

この堀を乗り越えようと足元に気を取られているうちに、頭上から弓鉄砲による攻撃を食らってしまうというわけです。

丸馬出とこの後に紹介する桝形のセットは武田家が築いた城に多く使われ、これまで蓄積された技術を新府城の重要な部分に使っていることがわかります。

馬出の先に広がるのが両袖桝形虎口。土塁によって囲まれた四角い空間に敵兵を閉じ込め、周りから攻撃する仕掛けです。

新府城が完成していれば複数の門を突破しなければならない構造となっていたはずで、寄せ手は相当な被害を覚悟しなければなりませんでした。

両袖桝形虎口。ここに大手門が築かれる予定だったようです


弱点であった城の北側の防御はどのようになっていたのでしょうか。

新府城の北側には帯曲輪が設けられ、土塁と水堀が巡っていました。

水堀の幅は約7m、深さは2m以上もあり、その外には幅30mを超える湿地が広がっていました。

面白いのは出構(でがまえ)と呼ばれる細長い土塁のようなものが二本堀の中にのびていること。


北側に残る「出構」

一番西側の崖に近い部分は橋として残され、ここには新府城の裏口がありました。

大手と似たような桝形がありますが規模はほぼ半分くらいです。


搦手であった乾門の跡

新府城の中心部は四角い形をした本丸。

なんとなく躑躅が崎館に似ているような気がします。

大手からここへは、もう一つの馬出を通って二の丸から入るようになっていました。

二の丸と本丸の間には兵を隠す場所が造られており、新府城が実戦を意識した城であったことがわかります。

現在新府城の本丸跡には神社が建っており、その裏に案内看板があります。

ここには勝頼の館が建てられ、池などの優雅な施設があったのでしょう。

勝頼、未完成新府城に入城

新府城の土塁や堀の普請は9月には終わり、巨大城郭の基礎となる部分が地上に姿を現しました。

さらに工事は続けられ、年内に御殿などは使うことができるようになりました。

12月24日、武田勝頼は代々の本拠であった甲府の躑躅が崎館から新府城に移ります。

翌1582年1月。武田領木曽を治めていた木曽義昌の謀反が発覚。

勝頼は討伐のため直ちに木曽に軍を進めます。

一方、義昌は織田に救援を要請。

これを受けて2月3日、ついに織田信長は武田討伐の命令を下します。

信長の命によって駿河からは徳川軍、飛騨と伊那谷から織田軍が武田領に侵攻。

また関東の北条軍も動き、木曽義昌に勝てなかった勝頼は、軍を引くしかありませんでした。

2月14日、浅間山が突如噴火。

2月17日、伊那の拠点大島城が自落。
信長の息子信忠率いる大軍が伊那谷を攻め上ります。

2月29日、武田一族であった駿河の穴山梅雪が徳川家康に降伏。南から徳川軍が甲斐に侵攻してくることが確実になりました。

3月2日、勝頼の弟仁科盛信が守る高遠城が信忠の攻撃を受け落城。

天下に名を馳せた武田家の崩壊が明らかになったこの日。
勝頼は様々な思いを巡らせたのでしょう。
そして新府城は最後の夜を迎えます。

翌3月3日、勝頼は未完成だった新府城からの退去を決定。

新造されたばかりの御殿やまだ整わないわずかな櫓や門は武田兵によって火をかけられ、崩れ落ちていきました。

勝頼が入城してからわずか68日。新府城は地上から姿を消し幻の城となったのです。



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