大学で学ぶということについて。

大学での学び(とその成果)を可視化することはそもそも可能であるのか、そうだとしてそれをすることにどのような意義があるのかというのは、難しい問いだと思います。 


学習者自身の「能力」それ自体は可視化できないため、それを測定・評価するにあたっては、なんらかのデータ(数値)で代替して表現されることになります。それは一方で本来的に測定し得ない各人の「能力」を標準化され均質化された指標の上にのせることで、すなわち誰もを単一の評価軸(の集合)にのせる形で比較可能にすることで、個人の集合としての社会のあり方を簡単にかつ操作可能な形で把握することを可能にします。


しかし他方では、それは誰もを単一の評価軸(の集合)にのせることによって各人の多様な個性を捨象すると同時に、比較可能性が序列化とメリトクラティックな競争原理の浸透にもつながるおそれがあるのではないでしょうか。そこでは誰もが個性を捨象された無機質な「人」として扱われるため、成績で下位に位置づけられた人々の結果は「当人の努力が足りないからだ」として自己責任にされます。学費を払うためにアルバイトをせざるを得なかったり、新卒一括採用の慣行のために大学生のうちから(多くの場合)大学での学びと関係(レリバンス)のない就職活動をせざるを得なかったり、しかもそれがどんどん早期化してさらに時間を食うようになっているといったような、社会構造に由来する金銭的・時間的制約はそもそも問題にされません(むしろそれらは評価軸の集合のうちの一つとしてすら扱われているように思えます)。


これはどうして起こるのでしょうか。それは、学生の学習成果を可視化することによってめざされていることが、大学の社会的評価(アカウンタビリティの要求に対する応答)、大学の宣伝、あるいは学生が “社会にとっていかに役立つか”についての評価等にあることが理由であるように思います。「国家や社会の役に立て。役に立たないなら要らない」という国家主義的な視点が裏に潜んでいるように思うのは私だけでしょうか。 


もちろん「大学での学習を社会の役に立てるな」と言っているわけでは決してありません。 ただ、学習成果を可視化することによっていったい誰の何を見ようとしているのか、そしてそれを見ることによって何を目指すのか、常に問う必要があると考えます。学生(に限らずあらゆる個人)が学習するのは、第一義的に自分自身の幸福追求のためであると思います。だからこそ(学習権を中軸とした)「学問の自由」や「教育を受ける権利」が日本国憲法において基本的人権として明記されているのです。


その意味で学習権、特に子どもと青年の学習権は、それ自体基本的人権であるとともに、 あらゆる人権を内実のあるものとして成立せしめる基底的人権なのであると言えますが[1]、こうした、個人がよりよい生を生きるために保障されなければならない人権として教育や学習を捉えるならば、学習成果の可視化は本来学習者個人のためでなければなりません。


そうして、自分自身の学びが、紛れもない自分自身のために、社会からそして大学からしっかりと保障されているという実感を伴うことによって初めて、そうした普遍的に人権が保障されるよりよい社会の一員になろう、そこで役に立とうという認識が生まれてくるのではないでしょうか。



注など
[1] 堀尾輝久(2019)『人権としての教育(岩波現代文庫)』, 岩波書店.

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