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テヘランでロリータを読む・読書ログ

イラン出身の女性英文学者による、イスラーム革命後の激動のイランで暮らした18年間の回顧録。ヴェールの着用を拒否し、大学を追われた著者はみずから選んだ優秀な女子学生7人とともに、自宅でイランでは禁じられた西洋文学を読む秘密の読書会をはじめる。革命後のイランは、生活の隅々まで当局の監視の目が光る一種の全体主義社会となり、とりわけ女性は自由を奪われ、厳しい道徳や規則を強制される恐怖の毎日だった。イスラーム社会においての政治と文化、権力と個の自由のせめぎあい、そして女として生きる困難というきわめて普遍的で、しかも切迫した問題が鮮やかに描き出されている。

 イスラム教の勉強の一環としてこの本を読んだのだけど、単なる回顧録以外にも本格的な文学の解説は面白かった。文学のもつ力というのは、文学の世界を通して今置かれている状況を分解し、比較し再構築することで改めて“今”を理解出来るようになることだと。

奇妙にも、私たちはこうして逃げ込んだ小説によって、結局はみずからの現実をー言葉にする術などないと感じていた現実を、問いなおすことになったのである。

その世界に入りこまなければ、登場人物とともに固唾をのんで、彼らの運命に巻き込まなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。さあ息を吸って。それを忘れないで。


 特に衝撃だったのは、一度自由を経た後でも、いとも簡単に全てが逆行しうること。そして一度火がついた狂気は止まることをしらず、間違っていたとしてももう戻れないということ。著者は革命前後を経験しているが、革命後に生まれ、比較する過去を持たない若者にとって、“今の世界”以外を正確に知ることがどれくらい難しいかを思いしった。
その深刻さがよく現れているのは、大学の講義にて、自分の意見を述べよと言われた生徒達が教授に教えられた内容を一文一句そのまま書いたので教授(著者)が怒ったシーンだ。彼女達にとっては、自己を持つことを奪われ続けてきて、その行動が正しいと教え込まれてきたのだ。だからこそ、自分で考えて書き自分の意見を述べるというのがどれほど難しい事なのかと。どうすれば良いのか分からないと泣いていた。

共感の欠如こそが現体制の中心的な罪であり、他の罪はすべてそこから生じたものだと私は思う。私の世代は個人の自由の味を知り、のちにそれを失った。喪失がいかにつらくても、現在の荒れ地から自分を守ってくれる思い出がある。だが、若い世代には自分を守る何があるだろう。



この問題の延長線に、ギャツビーを裁判にかけた時の青年がいる。だが実際、彼や彼女達みたいな人物は現代の日本でも身近にいる。
たとえば、革命後の事を具体的に考えずにただぶち壊せば解決すると思い今の政府を糾弾している人。
他の人が提示したことをなぞるだけで自分では考えることをせず、いや、考える余地などないと言わんばかりに正義を振りかざす人。
絶対的なものとして君臨するものの怖い点は、考えることもそれを疑う余地すらなく、その上その行為を罪とするところにあると思う。考えなくてもいい、それが絶対的な正義という分かりやすい存在だからこそ人々は妄信できるのかもしれない、ね。

革命前夜みたく、お祭りの様な妄信的で狂気的な熱気を帯びる空気感に対して私達は警戒をしなければならない。その熱気は伝染する上に計画もなく全てを破壊し尽くし混沌に陥れるから。そしてそれは、一度始まってしまえば歯止めが効かなくなってしまうものだから。


もう一つ印象的なのは、
魔術師(友達)が約束した時間に家にいなくて、政府に拘束されたかとも筆者が酷く混乱するシーンである。張り巡らされた習慣がその人物像を浮き上がらせているに過ぎない、それくらい脆い存在なのだと著者はいったが、
これに関しては成る程と思った。
逆に自分を見失いそうな時は、習慣的な行動を敢えて位置付ける事で自分を創り上げればいいのだな学んだ。

日常の習慣がいかに安定した生活という幻想をつくりだしているものか、私はそれまで知らなかった。教員とも物書きとも呼べない身分になったことで、いつも着ている服を着て、自分の体のリズムで街を歩けなくなったことで、叫びたいときに叫んだり、とっさに同僚男性の背中を叩いたりできなくなったことで、そうしたすべてが違法な行為になったことで、私はまるで空中を歩く重さをなくした存在に、紙の上に書かれただけの、さっと消されてしまうような架空の存在になった気がした。


 あとこれはもう個人的過ぎる着眼点だけど、人生って本当に幾つになっても別れの連続なのだなと。11年も住み、文学以外にも色んな私生活を共有するクラスをもち、色んな面白い話をした魔術師ともう話せなくても、それでも旅立つ用意をした筆者には勇気をもらったかな。
殆どの人は過去に置いていかなくてはならない。旅立ってからも連絡を取るのなんてほんのひと握り。その儚さに堪らなくて虚しくなる時があったんだけどなんだか元気をもらった。
それは今後も続いていくし、例え自分が止まっていたとしても周りは流れていく。

そっかー。魔術師とはもう話せないのか。そっか。それくらいが人生なのか。
まぁあとは、私も自分のクラス持ちたいなと思ったのと、魔術師みたいな友達ができるといいなぁと思った。

あとイスラム教では音楽禁止(≒西洋的な文化に該当すると考えられる)なのは流石に知らなくてめっちゃ衝撃受けたな(宗派と地域による)


好きな文

イラン・イスラーム共和国に生きる私たちには、自分たちが直面している残酷な状況の悲劇性もばかばかしさもよくわかっていた。生きのびるためには自分の惨めさを嗤うしかなかった。

好奇心はもっとも純粋なかたちの不服従である 

ナボコフ

あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である

全体主義的な心性が犯す最大の犯罪は、犠牲者もふくめた市民を、その犯罪の共犯者として引きずりこむことにある。

彼は過去をやりなおすことで夢を実現しようとしたが、結局、過去は死に、現在はまやかしで、未来は存在しないことを知る。これは私たちの革命に似ていないだろうか?共同の過去の名のもとにやってきて、夢の名のもとに私たちの人生をめちゃめちゃにした運命に?

その日何かをなくしつつあるような、まだ起こってない死を悼んでいるような感じがした。まるで個人的なものがことごとく踏みにじられているように感じられた。全てが人工的に管理された豪華な庭園をつくるために、小さな野の花が踏みにじられるように。~~国にたどり着いてから、私は初めて亡命という言葉の真の意味を知った。あの大好きな、なつかしい通りを歩きながら、足下に眠る思い出を踏みつぶしているような気がしてならなかった。

私が拒否しているのはその布きれではなく、自分が無理やり別の姿に変えられ、鏡の中の見知らぬ自分に憎悪を感じることなのだと。

実のところ、うまく言葉にできない自分の性質をはっきり表現したいという欲望に他ならなかった。衣装によって雄弁に、率直に語ることで、内気から来る口下手の埋めあわせをしようとしたのである。

ワシントン・スクエア

勝利とはむしろ自分の中で納得のゆくようにすること、自身を完全なものにする心の内部の動きである。

われわれは人知れず働き、できるかぎりのことをし、もてるかぎりのものをあたえる。疑いこそわれらが情熱、情熱こそわれらが仕事。残りは芸術の狂気だ。

ヘンリー・ジェイムズ

ある土地をいよいよ離れる間際には、妙な感じがするものね、と私は彼に言った。大切な人たちが恋しくなるだけじゃなくて、いまここにいる自分のこともなつかしくなるような気がするの。もう二度といまの自分にはなれないんだから。

すべてのもの、全ての顔はすでに現実味を失い、大切な思い出のように見えた。両親、友人、学生たち、この通り、この木々、鏡の中の山々から消えゆく光。

人は事実というが、事実は感情、思考、感覚によって追体験され、再創造されなければ、不完全なものでしかない。私には自分たちが本当には存在しなかったような、あるいは半分しか存在しなかったような気がする。想像力をいきいきと働かせて自分自身を表現し、世界に伝えることができなかったからだ。想像力によって生み出された作品を、何らかの政治的策略のしもべとして扱ってきたからだ。

教養は、順境にあっては飾りであり、逆境にあっては避難所である

アリストテレス

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