見出し画像

ちょっと生まれ故郷へ

 きょう(1月14日)は、旅は旅でもクルマで三重県中央部の山の中へーー。

 ちょっとわけあって、生まれ故郷の三重県一志郡美杉村=現在は津市美杉町)に行ってきました。上の写真は、村内では鉄道の街として栄えたJR名松線の終着・伊勢奥津(おきつ)駅前。伊勢本街道沿いの昭和レトロな街並みが保存されている地区です。

 ここには数年前まで造り酒屋(蔵元)もあったし、往時には、宿屋や食堂、銀行、味噌・醤油屋さんなど、まあ一揃いあったようです。

 私が生まれ育ったのはここからさらに山を1つ越えた山里。織田信長に山城(霧山城)が焼かれるまでは中世の城下町として栄えたところで、里のどこを掘っても中世の館跡の遺構が出てくるところです。わたしが子どものころ(50年前)などは、老人たちから、織田信長によっていかに滅ぼされたかを聴く集いがもたれ、信長への恨み節が聞かれたのを覚えています。

新聞社にいるとき、信長の本拠があった岐阜から津に転勤してきたデスクが「三重の人は信長嫌いが多いなあ」とのたまわっていましたが、当たり前じゃ! おぬし、知らぬのか、500年の恨みを。

そして、ここは、『古事記』研究の第一人者でいらっしゃる、作家・三浦しをんさんのお父さんの生まれ育ったところです。しをんさんの小説『神去(かむさり)なあなあ日常』の舞台・神去村の舞台となった山深い村です。

 この村の良いところは、わたしが子どものころ見た50年前の風景がほぼ手つかずで残っていることです。たとえば下の写真。田中建設という会社の工場ですが、わたしが小学校1年だった昭和40年(1965年)もこのまんまの姿で、年に何回か映画館になったものです。 ↓ 映画館兼建設会社

画像1

 ものごころついて最初の映画は東京オリンピック(昭和39年)のドキュメンタリー映画でした。近くの小学校から学校ごと見に出掛け、男子マラソンのアベベが黙々と走る姿が脳裏に焼き付きました。そのつぎは怪獣映画の『モスラ対ゴジラ』や『大魔神』、『ガメラ』だったりしました。ちなみに、この地区では、わたしと同じ「海住(かいじゅう)」姓がメジャーだったのです! 山の中なのに、海に住むというのです。

 で、肝心の用事は、上記の作品とは一切関係のなく、映画監督・小津安二郎(1903年~1963年)に関することでした。

 小津監督は、東京の生まれですが、9歳のとき、父親のふるさとである三重県松阪市に移り住むことになり、19歳まで松阪にいました。その間、伊勢の旧制中学(宇治山田中学)に在籍しており、寮生活を送ったり、寮を追い出され自宅に戻ったりしています。


小津安二郎の日記

実は、旧制中学在籍中の大正10年ごろの小津日記が保存されており、その中に私と同じ苗字(海住)の人が登場していることを昨年末に知りました。小津資料を管理されているまちかど博物館の方から、「海住さん、小津さんのことで何か人から聞かれたことはありません?」と尋ねられたからです。

小津日記の登場人物は、若き日の小津安二郎と学寮で同じ部屋だったようでした。

その人、海住好郎さんという人。今からちょうど100年前の大正10年(1921年)に旧制中学を卒業しています。調べていくと、JR名松線終点の伊勢奥津駅前の味噌・醤油屋さんに息子さんがいまも健在だということがわかり、出向くことにしたのです。すると、まわり回って、海住好郎さんは、私の生まれた家のすぐ隣の家の出身で、私の祖父とはいとこだったことがわかりました。

 なあ~んだ。一番近くだった。で、わたしが生まれた家のお隣のその家に行くと、好郎さんの甥っ子にあたる人(子どものときから私の親のようにしてくれていた方です)が一番よく話を知っていました。「おじき(好郎さん)と小津安二郎はほんとうに仲がよく、大監督になってからもこの家に遊びに来てくれました」と話してくれました。

名松線の駅から徒歩で峠を越えて歩いてきたのだろう。

私はまだ小さな小さな子どものころの話なので、そんな有名な方が遊びに来ていたなどとはまったく知りませんでした。

この話が、小津作品を観賞する際の参考になるわけではありませんが、記録として書きとどめておきたいと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?